森羅万象、政治・経済・思想を一寸観察 by これお・ぷてら
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安倍「衒学的」所信表明
イノベーションの力とオープンな姿勢。
このままではほとんど意味不明といってもよい。
朝日はこれにつぎのような注釈をつけている。
「イノベーション(技術革新)の力とオープンな(開かれた)姿勢」など、日本語の方が理解しやすい表現も多い。
こんなカタカナ言葉をもちいる、とくに多用するのは、まさにごまかしと自分の語彙の貧困を表していると私は教師に教えられてきた。要するに、日本語で表現できることをあえて「外国語」を使用して表現することを強く戒められてきた。
もしそうだとするなら、安倍首相の所信表明は何を語っていようと、最初から不合格といわざるをえない。
所信表明とは、国民の立場からすると分かりやすいものでなくてはならない。だが、今回の表明は、この点でほとんど国民には近寄りがたいものになっている。首相は、国民には分かってもらわないほうがよい、あるいは国民は分からないものだといっているようにも思える。
たしかに、安倍が何をいおうとしているか、ほんとうに知りたいと願う国民には、考えていることを知られたくはないと安倍は考えているのではないか。
総裁選前だからと考えざるをえなかったが、件の靖国神社への参拝に口をつぐみ、そして村山発言にたいする自らの見解をのべない政治家が首相になったいま、それを引きずるのが果たして許されるのか。「歴史認識は歴史家に任せる」という彼の発言はまさに欺瞞だが、首相のかじとりの基本的方向を示す所信表明においても、このありさまである。
この政治家の国民をみる目に、衆愚というにおいを私は強く感じる。知識をひけらかしているのかどうかはわからないが、ごまかそうという意図を強烈に感じるのは私だけだろうか。このような言語の使用法に表されていることは、すなわち、このブログで再三のべているように、ものごとを分かりやすくいえば二項対立でしかみない思考に起因していると思う。それは独善でもある。
所信表明でのべるところが国民にとって深刻な内容であるから、なおさらそう考えざるをえない。
安倍内閣がねらう教育基本法改定2
政府が今年4月、国会に提出した教育基本法改正案、民主党の日本国教育基本法案について、日本教育学会歴代会長らの「見解」は、「政府案は現行法の全面改正案であり、民主党案は、現行法を廃止し新法として提案され」、いずれの案も、なぜいま改正の必要があるのか、しかも全面改正が不可欠なのか、その立法事実は不明確であり、提案理由は説得力を欠いていると断じている。
また、一方で、一部にある「教育基本法を変えなければできない教育改革があるのか」といった素朴かつ正当な疑問に対して、明確な説明がないことをあわせて指摘した。
政府の改正理由には、改正が憲法改正と一体のものであることは明言されていない。しかし、この点で「見解」はつぎのように教育基本法の改定理由を明確に指摘した。
教育基本法改正論の歴史をたどれば、それが憲法改正を先取りしての改正という位置を占めて来たことは明白である。今回わずかに残された「憲法の精神にのっとり」という文言はそのことを糊塗(こと)したものに過ぎないと判断される。
また、占領下に押しつけられたものとの意見にたいしても、教育基本法の成立を含めて戦後教育成立過程の歴史事実を歪曲(わいきょく)しているだけでなく、占領下に日本の真の独立を願い、人間性開花のための教育という営みを通じて、国民の知性と文化の創造に期待した先人たちの努力を無視した議論と厳しく反論した。
以下、前日エントリーから続く。
4 両案ともに、法律に規定していく際に抑制すべき諸点(第2条「教育の目標」、新設10条「家庭教育」など)についての自覚がない。必要なことはすべて法に規定し、しかも教育は法に従うべきこと(新設16条)を強調している。両法案は、教育は政治から自立していなければならず、法はそのための限界を定めるもので、教育への不当な支配をチェックするのが基本法なのだという現行法の精神(これは憲法の精神でもある)からも逸脱している。国家と教育、教育と「伝統」の関係をめぐる最近の議論に照らせば、以上のような改正が行われるならば、法によって国家道徳を定め、教育でこれを実施し、目標達成へ向けて学校と教職員評価を行うという事態が生まれるのではないかと危惧(きぐ)される。
また、新設の17条(「教育基本計画」)を設けてそれをなそうとするのは、新法を政府の教育基本計画の立案・実施・予算配分の根拠法としようとしているものであり、現行法はもちろん、憲法の精神(第13条、19条、23条、26条)に反するものである。しかも教育基本計画は国会に報告すればよしとされており、政府・行政官庁の恣意(しい)的政策も合法化される。競争と評価を軸とする管理主義的教育に拍車がかかる恐れが充分に予想される。条件整備およびそのための長期計画はもちろん行われるべきである。ただし、そのためには、現行法第10条の趣旨に基づいて、新たな立法がなされればよい。
5 私どもはまた両法案に示されている教育観に大きな疑問を感じざるを得ない。
教育は本来、子どもの人間としての成長発達とそれに不可欠な生活と学びの権利を任務とするものであり、「はじめに国家の統治作用としての教育ありき」ではないはずである。
その点、民主党案の学習権規定には積極的な意義が認められる。しかし、発達する権利・学習する権利を子ども・少年・成人の権利の中核とする観点からすれば、同法案の前文や第1条の教育理念・目的の規定とは矛盾してこよう。すなわち「学習権」という文言は記されているものの、その内容は、国家による道徳教育(愛国心教育を含む)を学ぶに過ぎないことになるのではないだろうか。国あるいは政府は、すべの子ども・少年・成人の成長発達の権利と学習の権利を保障するための条件整備にこそ積極的な役割を果たすべきであって、「道徳の教師」になるべきではない。
6 国会で教育が本格的に議論されるのは貴重なことである。しかしそれは直ちに教育の憲法ともいうべき教育基本法の改正につながるものではない。
現在提出されている二法案はいずれも廃案とし、引き続き教育問題を広く人々の論議にゆだねつつ、法の精神をより豊かに発展させることをねがうものである。
7 以上のことを前提にした上で、なお将来、現行法の「改正」が必要であるという国民的合意が形成されるような事態が生まれるとすれば、論議に当たって、以下の諸点に関して特段の配慮が不可欠である。
8 法律にどこまで理念や目的を規程できるかについては、現行法の成立過程においても論議され、「それはお説教ではないか」という厳しい意見もあった。政府は法の限界を自覚し、抑制的に、しかし教育が戦争に奉仕したという事実の反省をふまえ、国際的な動向の中でこれ以上は譲れないという普遍的な原理・目的に限定して立法し、あとは子どもと教育にかかわる人々の教育への自由な取り組みを保障すること、政治および教育行政のなすべきことは教育の条件整備に限られるべきことを法定したのであった(前文、第1、2、10条)。
<続く>
安倍内閣がねらう教育基本法改定
教育基本法の改定を、安倍内閣が最重要課題として掲げている。
当ブログでも今後、同法をめぐる記事を掲載していきたいと思う。
日本教育学会の歴代会長および事務局長が連名で「教育基本法改正案継続審議に向けての見解」をすでに発表している。歴代会長および事務局長は、歴代会長;大田堯、堀尾輝久、寺崎昌男、佐藤学、歴代事務局長;中野光、稲垣忠彦、桑原敏明、浦野東洋一、天野正治、市川博、乾彰夫の各氏。
この「見解」を以下に紹介する(長文なので数回にわけます、原文のまま)。教育学専門家がどのように同法「改正」を考えているかがよく分かる。
―――――――――――――――――――――
政府は今年4月28日、国会に教育基本法改正案を提出し、他方、民主党も日本国教育基本法案を提出し、衆議院特別委員会で審議が行われたが、審議未了により秋の国会で継続審議が行われることになった。
この審議に鑑(かんが)みつつ、私どもは、改正問題に関する本見解を纏(まと)め、ここに意見書として委員各位に送呈する。来るべき特別委員会における論議においてもぜひご考慮願いたいと考える。それとともに私どもは、広く父母・市民・教師・学生等々に対しても、教育学専門家がどのように考えているかについて理解を得ることができれば願っている。
1 政府案は現行法の全面改正案であり、民主党案は、現行法を廃止し新法として提案された。いずれの案も、なぜいま改正の必要があるのか、しかも全面改正が不可欠なのか、その立法事実は不明確であり、提案理由は説得力を欠いている。新法あるいはそれに等しい全面改正ならば、廃止理由も含めて、立法事実にはより丁寧な理由説明が必要である。
今後継続審議に充分に時間をかけ丁寧な審議がなされるならば、現行法に仮に限界や問題があるとしても運用によって解決される事柄は何か、改正によって事態はさらに悪化するのではないかといった問題点も明らかになるであろう。しかし現在の審議を見る限り、このような配慮をうかがうことはできない。世論の一部にある「教育基本法を変えなければできない教育改革があるのか」といった素朴かつ正当な疑問に対して、明確な説明がなされているとは見られない。
2 政府の改正理由には、改正が憲法改正と一体のものであることは明言されず、それゆえに立法理由はいっそう不鮮明なものとなった。しかし、教育基本法改正論の歴史をたどれば、それが憲法改正を先取りしての改正という位置を占めて来たことは明白である。今回わずかに残された「憲法の精神にのっとり」という文言はそのことを糊塗(こと)したものに過ぎないと判断される。さらに、改正の要点は、後述するように現憲法の精神に反するところがあまりに多い。他方、民主党案は、憲法改正とワンセットの教育基本法改正であり、それだけに「憲法改正に先んじての現行法廃止・新法提出」という手続き自体、明白な自己矛盾を犯している。
3 特別委員会では、教育を含む戦後の諸改革が占領下に押しつけられたものであるにもかかわらず、未だにそれに引きずられているのは「敗戦後遺症」であるという言葉すら出された。また、それと重ねて、教育勅語の賛美や「国体」美化の発言も繰り返しなされた。
これらは教育基本法の成立を含めて戦後教育成立過程の歴史事実を歪曲(わいきょく)しているだけではない。占領下に日本の真の独立を願い、人間性開花のための教育という営みを通じて、国民の知性と文化の創造に期待した先人たちの努力を無視した議論である。軽薄な判断によって戦前教育を無媒介に戦後に重ねることは許されない。戦後教育改革に関する教育史研究の成果に対して謙虚な学習が行われることを期待する。
(太字は管理人)
安倍の腹心 -下村博文と補佐官5人組
安倍政権を支えるために首相官邸の機能が強化された。
それは、官房副長官と閣僚と同時に発表された首相補佐官の配置だ。ちなみに首相補佐官は小泉政権時の2名から今回、5人に拡大されている。
この首相官邸の強化策にアメリカの先例をみるのは容易だろう。首相補佐官は首相の意向をうけトップダウンで仕事をする、その意味で安倍と運命を共にする腹心といえる。
補佐官が担当する分野はすなわち安倍が重視する分野とみることができる。
安倍は官房副長官に下村博文をすえた。下村には著書『学校を変える!「教育特区」―子供と日本の将来を担えるか 』があるように、教育問題でこの間、発言を強めていた。たとえば8月、全国教育問題協議会・教育研究大会で教育基本法改定問題を扱ったシンポジウムに出席し、9月の自民党総裁選で安倍晋三官房長官が当選し、首相に就任した場合、首相直属の「教育改革推進会議」(仮称)が設置されるとの見通しを語っている。下村はまた、皇室典範改正反対派の急先鋒。
首相補佐官は以下の陣容となった。
国家安全保障担当;小池百合子、教育再生担当;山谷えり子、経済財政担当;根本匠、拉致問題担当;中山恭子、広報担当;世耕弘成。
小池百合子;経歴がおもしろい(同議員のホームページから)。私には、変節漢のようにもみえてくる。日本新党⇒新進党⇒自由党⇒保守党⇒自民党(2002年から)。また同年から「北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟」副会長。
日本版「国家安全保障会議」(NSC)の創設に向け、現行の安全保障会議の機能強化を進める担当。
山谷えり子;「家族、教育、国なおし」がキャッチフレーズ。「私の政策」は以下(ホームページから)、考えがたちどころに分かる。
【家族】それは社会の基礎単位です。
・個人単位に傾きすぎる家族政策を見直し、家族が支えあう育児・介護制度を実現します。
・家庭や地域社会の機能を引き出し、老若男女が生きがいをもって働き続けられる社会整備を進めます。
・多様な働き方の支援策、生涯学習・ボランティア支援策を含めた総合的な少子化対策を進めます。
【教育】それは子供たちの未来です。
・行き過ぎた「ゆとり教育」と「性教育」にストップをかけます。
・男女の区別は差別というジェンダーフリー教育をやめ、道徳教育、生命尊重教育、宗教情操教育の充実を図ります。
・国を愛し、日本人が大切にしてきた品位、節度、調和、正直、親切、勤勉を重んじる精神が含まれるよう、教育基本法を改正します。
【国なおし】それは日本が大好きだからです。
・拉致議連副会長として引き続き、拉致問題の解決を目指します。
・日本の風土や伝統文化、資源を活かした観光立国を実現します。
・亡き夫の意志を継ぎ、救命医療の充実と、防災対策・治安の悪化に歯止めをかけます。
世耕弘成;父親は近畿大学理事長。祖父、伯父ともに代議士。初当選直後から自民党森派に所属。自民党マルチメディア局長、同遊説局長等を歴任。
昨年総選挙での自民党メディア戦略を担当したことで注目される。
「すべてセオリー通り、です。」(『論座』2005年11月号)では民間の広告会社と協力しながらマスメディア対策を事細かに指揮していたことを明らかにした(ウィキペディア)。
根本匠;安倍と当選同期で親交が深い。ホームページには、「新人議員の頃、政策集団「アクショングループ」を結成。さらに安倍晋三、石原伸晃、塩崎恭久の、今をときめく3氏と「NAIS」を立ち上げ、日頃有権者と接する中で発掘した最前線の政策テーマの実現に奔走」とある。
中山恭子;(ウズベキスタン特命全権)「大使退任直後の2002年9月内閣官房参与に就任、翌月北朝鮮に拉致被害者5人を出迎え、巧みな駆け引きにより5人を日本に留めることに成功」とウィキペディアにある。
以上の私の紹介の扱いが不平等なのは否めないが、安倍が下村とこの補佐官5人をなぜ起用したかが、少なくともその一端が分かるのではないか。下村らは、「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」や「教育基本法改正促進委員会」「日本会議」などの役員を務めたり、推薦を受けている。
官邸中心で重要課題とされる「教育再生」や国家安全保障については、当然、それぞれ文科相と外務相・防衛長官と重複する。これをどう調整するのか今後、問われることになる。むろん、官邸主導の政治がここで貫かれる可能性は大きい。
閑話休題 5-安倍内閣発足でとば口に
加藤紘一がこの内閣をとらえて「仲良し内閣」と語っている(毎日新聞)。これがこの内閣の感想としてすっと胸に落ちた。この総裁選にかぎっていえば、それを、多くのマスメディアが報じるように論功行賞的組閣だと性格づけることは可能だ。
けれど、それだけではなく、そもそも安倍の思考がこんな構成を求めるものなのだと考えたい。たとえば谷垣派の扱いにみられるように安倍は徹底している。また、5人の首相補佐官の人事をみよ。無論、これまでも首相の意向が生きるような内閣が構成されるのが理屈だろうが、今回は、それにとどまらないようにみえる。
このブログでは、安倍の思考の特徴についていくらか言及してきたが、その論脈で考えると、加藤の言葉をより発展させて「幼稚園内閣」ということもできる。つまり、これは、香山リカが日本の社会の現状を「幼稚園チックな社会」とよんだことにちなんでいる。要するに、「楽しくないことも、自分に得がないことも、時にはしなければならない。それがオトナってやつ」という言葉に端的に示されるような世界とはちがう、内と外を峻別し、内のみを視る思考方法だととらえることができる。そんなことで、この内閣を「幼稚園内閣」とよびたい。
教育基本法の改悪はこの内閣の最優先課題だという。そこに、文科相として伊吹文明を安倍はつかった。伊吹は、かつて総理大臣指名選挙で村山富市に投票するという自民党の党議に反し、中曽根康弘らと共に、自民党を離党して非自民連立政権に担がれた海部俊樹に投票した人物である。
組閣にみられる安倍のこうした思考は、国民との摩擦が大きくなるばかりではなく、加藤の先の言葉にみられるように、自民党のなかでも対立と反発を深刻にするだろう。世耕を広報担当の首相補佐官として配置したのも、だから世論形成に力を入れるためだとみて少しもおかしくはない。
安倍新内閣とともに、日本は今とば口に立っている。
憲法は1センチも譲れない -辺見庸
辺見庸が2年前に病に倒れ、それから復帰し、こう語っている(『赤旗』25日付)。
辺見の安倍晋三評はきびしい。
著書『美しい国へ』を読んでも、おそろしい人物です。官房副長官の時、学生相手に自主的な核武装を説いています。その戦闘性は小泉さんより確信的です。小泉さんが"陽気な独裁者"というなら、安倍さんは祖父・岸信介の保守の遺伝子を受け継いだ"陰性の暗い政治家だ"と見ています。マスメディアの主流は、小泉同様に無批判・無警戒です。ですから僕は、そうしたマスコミ人を背広を着た"糞(くそ)バエ"とあえて汚い表現をしました。覚悟したたたかいが必要です。 |
官房副長官の時、学生相手に自主的な核武装を説いたというのは、24日のエントリーで紹介している早稲田大学での講演のことだ。そこで、安倍は、「核兵器も大陸間弾道弾をもてると、岸首相が答弁している」とのべている。また、安倍の岸から受け継いだ血の危険性を高村薫はこういったのだった。「臭いも懐疑もない人間が権力を手にして『闘う』というのは、ほとんど『近づくな、キケン』のレベルだと同時代の鼻は言っている」。
祖父や父を信じて疑わない思考とは裏腹の、自分とは異なるものにたいする排除の姿勢を露骨にもった安倍が権力を手中にした今、辺見の指摘は的確といわねばならない。
だから、安倍がもっとも力を入れようとする日本国憲法の改悪にたいして、体をはって阻止しようとする自らの思いを、辺見は冒頭の言葉で表したのだ。
同時に、辺見の厳しい目は、辺見の言葉を借りれば「のっぺっらぼうな、鵺(ぬえ)のような全体主義」が渦巻く現在、本来、批判的精神をこそ高くかかげるべきマスメディアにも向けられている。
辺見はいう。
良心的なジャーナリズムのなかでは、憲法を守ることは大前提でした。ところがそうした大新聞の記者が僕を取材して「辺見さんはまだそんな(護憲)ことをいっているの」と問われ、びっくりしましてね。僕はもう守旧派なんでしょうかね。 |
辺見がいうようにメディアの持ち上げはとどまることを知らない。
それは、別のエントリーでみたように、われわれにとっては一種の罠となって現れてくる。昨年の総選挙時のそれはいうまでもないが、われわれはまた、今回の総裁選のなかでも散々みせつけられていることを率直に認めなければならない。たとえば、数日前には、安倍家の中にまでテレビカメラが押しかけて入り、安倍家の「生活」を撮り、結果的に視聴者は安倍家のイメージアップに一役かったことになるのだ。
こんなマスコミの罠、つまりマスメディアの情報操作のなかにあれば、正確な判断のためにはよほどの視野の広さがわれわれには要る。そして、たえず自分にたちかえりその位置を確かめることが必要になる。
これを辺見はつぎの言葉で表現し、われわれによびかけているように思える。
内奥の眼をもって自分をしっかり見つめたい。
安倍はなぜ首相官邸機能を強化するか
安倍晋三にたいする評価で特徴的なのは、決して安倍の知性についてふれないことだ。「首相の器ではない」などはあるが、こと安倍の「頭のよさ」や有能ぶりを評したものにお目にかかったことはない。私が目をとおしたものの中で、唯一ある有名ブロガーが安倍をもちあげていたが、むしろそれが奇異な感じさえする。
安倍本人はそれを自覚しているためだろうか(?)、総裁選公約にもあげられていた「首相官邸の強化」が安倍の周辺で具体化されはじめたようで、それをこのところマスメディアが取り上げている。「官邸機能の強化」をふくむ内閣法改正案の実体の一端が結局のところ安倍の足りない部分を補う機能をふくむものだと分かれば、まさに失笑せざるをえない。
話によれば、来年の通常国会に提出する方針を決めたという。5人の首相補佐官に官邸スタッフへの指示・命令を出せる権限を与え、内閣参事官以上の内閣官房幹部については首相主導で人事を決める政治任用ポストにして政策立案機能を強化する、と朝日新聞(24日付)はのべている。
これは、同じく総裁選で安倍が明らかにした日本版NSC(国家安全保障会議)の官邸への設置とむろんリンクしている。
いうまでもなく一国の首相が政策を貫徹するには、それなりのスタッフをそろえ、分野を問わず仕事をすすめられるようにしておくのが常道だろう。だが、安倍のそれは明らかに任用ポストを増やすことを前提にしているようである。まさに(安倍の)足りない部分が多いために増やさざるをえない、こう考えたくなる。
政治の世界だけに限ったことではない。私たちの周りでもこんな例はいくらでもある。よく有能ではない社長や幹部が自分の周りに人材を集め、仕事ができるようにみせるというものだ。実際、組織全体にむけては人員削減を叫びながら、自らの周りは厚くするのだからこれは始末が悪い。つまるところ人心を集めることは、これではできない。
しかし、以上をふまえつつ、首相官邸機能の強化とはなにか、その意味をあらためて考えておかなくてはならないようだ。
その一つが日本版国家安全保障会議。この構想は、「日米同盟の強化」を目的に掲げたことが特徴だろう。小泉政権でも検討されてきたが、安倍は8月22日の自民党南北関東ブロック大会でつぎのように語っている。
日本の外交安全保障の基盤は日米同盟。政府レベルの対話を定期的、戦略的に行っていく必要がある。ホワイトハウスと官邸がそうした対話を行えるよう、米国のNSCのような組織を官邸につくっていかなければならない 。 |
この安倍の言葉にあるように、日米軍事同盟強化こそが機関設置の目的だということが最も重要である。
官邸機能強化のねらいが不明確だともメディアは伝えているが、要は、安倍のトップダウンで仕事が決まるものだということを現時点で抑えておくことが肝要なのではないか。 いずれせよ、あの安倍が一存で決めること自体を、危険きわまりないものとして問わなければならない。
閑話休題 -4 国旗・国歌法に関する安倍答弁
国会の議事録を少し調べてみると、教育基本法をめぐる国会審議で、国旗・国歌について安倍官房長官はつぎのように答弁しています。教育基本法の成立は安倍にとっても重要課題。
舞台は、衆院・教育基本法に関する特別委員会(06年6月8日)です。質問者は笠井亮議員(日本共産党)。
笠井委員 安倍官房長官に伺いたいと思いますが、確認いたしたいと思います。 国旗・国歌法の審議のときに、当時の野中官房長官、私も当時国会におりまして、鮮明に覚えておりますが、一九九九年の七月二十一日、衆議院の内閣委員会と文教委員会の連合審査で、「人それぞれの考え方がある」「人によって、式典等においてこれを、起立する自由もあれば、また起立しない自由もあろうと思うわけでございますし、また、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあろうかと思うわけでございまして、この法制化はそれを画一的にしようというわけではございません。」というふうに答弁されていましたが、間違いありませんね。 安倍国務大臣 国旗・国歌については、長年の慣行として国民の間に定着していたものを、二十一世紀を迎えることを一つの契機として、国旗及び国家に関する法律においてその根拠を明確に規定したところであります。 同法の成立に当たって出された内閣総理大臣談話にもあるとおり、この法律は、国旗・国歌に関し、国民に新たに義務を課すものではございません。国旗・国歌を国民がどのように受けとめるのかは最終的に個々人の内心にかかわる事柄でありますが、この法律によって、国民一人一人が自国の国旗・国歌について正しい知識を持ち、理解を深めるとともに、大切に取り扱うよう努めることに意義がある、このように考えております。 笠井 今の質問に答えていないです。官房長官がそういうふうに言ったかどうか、確認してください。 安倍 当時の官房長官が述べられた談話についての理解については変わりがないということであります。 笠井 では、法律をつくったときに政府が国会答弁したことを教師がそのまま、人それぞれの考え方があるわけで、それぞれ、人によって、式典等において、起立する自由もあれば、また起立しない自由もある、斉唱する自由もあれば斉唱しない自由もあると生徒に対して伝えたら、これはいけないんですか、官房長官。 安倍 ただいま、最初の答弁でも申し上げましたように、国旗・国歌法は、まさに民主的な手続にのっとって、君が代と日の丸は国旗・国歌であるということが定められたわけであります。そして、国旗・国歌に対して、一般常識として、世の中において、どういう態度、どういう敬意を表するかということを、当然、生徒たちに教えるということはあり得るでしょうし、そもそも、そこで歌わなければ歌詞は覚えられないわけでございますから、それは当然のことではないだろうか、このように思うわけでありまして、先ほど小坂大臣が答弁されたとおりではないか、私はこのように思います。 笠井 国会答弁のとおりに伝えたらいけないのかどうか、そのことを端的にお答えください。 安倍 先生がどのように教えるかでありますが、先ほど申し上げましたように、国旗・国歌について、それぞれの国々はどのように相対しているか、どのように敬意を払っているかということを教えることは極めて重要であり、その機会が、例えば、これは始業式であったり卒業式であったりするのではないだろうか、このように思うわけでありまして、まずそのことを教えずに、最初に、立っても立たなくてもいいということを教えるということは、むしろ誤解を与えるということもあり得るのではないか、このように思います。 笠井 国会答弁で言ったこと自身を言っちゃいけないということになったら大変ですよ。国会での答弁が踏みにじられている、我々の国会審議は何だったのかということになります。法律をつくったときの国会答弁を学校で教師が伝えたら、それが厳重注意を受ける、およそ法治国家と言えないと思います。 私は、今このまま教育基本法が改定されれば、内心の自由に立ち入るものになって、東京都でやられているようなことが全国に広がることが懸念されます。廃案しかないということを申し上げて、質問を終わります。 |
確認できることは、安倍氏がつぎのように語っていることです。
①この法律(=国旗・国歌法)は、国旗・国歌に関し、国民に新たに義務を課すものではございません。国旗・国歌を国民がどのように受けとめるのかは最終的に個々人の内心にかかわる事柄であります
②敬意を払っているかということを教えることは極めて重要であり、その機会が、例えば、これは始業式であったり卒業式であったりするのではないだろうか、このように思うわけでありまして、まずそのことを教えずに、最初に、立っても立たなくてもいいということを教えるということは、むしろ誤解を与える
①は政府の見解を踏襲した答弁です。また②は、実際の起立・不起立にたいする処分に踏み込まず、あいまい答弁といえるでしょう。
以上、安倍あ官房長官の迷答弁に関する閑話休題? 長すぎて、とてもそうなりませんでした(笑)。
安倍さんちの事情 -その6・言語能力と封殺
諸外国からは、これまでの安倍の知名度の低さも手伝ってか、どんな人物か、さまざまなな観測がとびかっている。ただし、安倍がナショナリストだという見方は定着しているようである。
しかし、われわれ国民の側から安倍首相の誕生をいま一度を考え確認しないといけないのは、安倍の新しい政権は国民の審判を受けることなく発足するという事実である。百歩ゆずって考えても、審判を受けたといえるものは昨年の総選挙で示された自民党の選挙公約であろうから、これがどのように具体化されるかということになるのだろう。自民党の枠内で考えるならば、新政権はこれを守らなければならないということになる。いうまでもないが、公約がいずれも実現しないように私はのぞんでいる。
繰り返していえば、安倍の公約をわれわれ国民が信任したということではまったくない、ということである。その意味では安倍が問われるのは次期選挙だということだ。
そこで私は昨日、ポスト安倍について言及した。自民党内では、あれだけ総裁選にむけて-私などには党内翼賛体制ができるかのように映った-安倍になびいていったのだが、安倍新総裁が誕生したいま、すでにけん制があちこちで出てきていることをマスメディアが伝えている。これは26日に発表されるであろう閣僚の構成にたいするものであるとともに、今後の安倍の舵取りについてのけん制の意味もふくんでいるだろう。
だから、今後の安倍政権は、党内の各派閥-基本的には派閥は温存されていると私は考えているが-のつな引きの中にあって参院選にのぞむという方向が想定できる。参院選は1つのターニングポイントになる。
そのためにも安倍の素性をあらためてみておきたい。
こんな安倍の一面は、われわれ国民にとって危険な側面であると同時に、ある意味で政権の座から安倍を引き摺り下ろす可能性をも暗示するからである。 安倍がNHK番組かいざん問題に深く関与していたことは当ブログでものべた。その後の経過は、権力の力によって解明が妨げられていると考えざるをえないような事態にもあるが、あらためて整理しなおすと以下のようになる。
NHK番組改ざん事件とは、「従軍慰安婦」制度の責任追及をテーマに、NHKが2001年1月に放送したETVシリーズ「戦争をどう裁くか」の第2回「裁かれた戦時性暴力」の内容が放送直前に大幅に変更された問題だ。
「朝日」報道(01年1月12日付)によれば、番組放送前日の01年1月29日、当時、官房副長官だった安倍と「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」代表の中川が松尾武放送総局長らNHK幹部を議員会館などに呼び出し「一方的な放送はするな」「公平で客観的な番組にするように」「それができないならやめてしまえ」などと発言。NHKの幹部の一人は「圧力を感じた」とのべていた事件だ。安倍の言論封殺の姿勢をけっして軽視してはならない。
さらに、これもよく知られているように2002年、安倍は副官房長官時代に早稲田大学で講演している。その内容はあまねく報道された。
物議をかもしたのは「核兵器も大陸間弾道弾をもてると、岸首相が答弁している」という講演のくだりだ。だれもが驚いたし、おそらく自民党の当時の幹部は青ざめた(?)のではないだろうか。問題なのは、その後の安倍の対応である。週刊誌で報道されると、国会で「盗聴した」と答弁する、安倍の思想性だ。自らの発した言葉にたいする責任の問題ではなく、それを伝えたマスメディアにたいする理不尽で強硬な姿勢である。当然のことだけれど、安倍は週刊誌からの取り消し要求にも応じていない。
まだある。これは、安倍の言語能力を示す好例だろう。
作家・半藤一利が安倍の答弁について『毎日新聞』で語っている(9月7日)。
靖国神社参拝についても「外交、政治問題に発展させようというよこしまな人たちがいるのであれば、今宣言する必要はない」と発言されたそうだが、これでは靖国問題を外交テクニックとしてしか語っていない。 |
この安倍の答弁にみられる国語力については、『よこしま』というのは不正とか間違ったとかの意味だ。リーダーになるならもう少し国語力を磨け、という旨で加藤紘一・元幹事長が語っており、安倍はたしなめられている。
このブログではくりかえし安倍の精神性をみてきたが、以上の言論にまつわる3つの事例はいずれも安倍の幼児性ともいえる素性に起因するものだ。これはすなわち、命とりにもつながりかねない安倍の弱点ともいえる。 言語能力と封殺はまさに表裏のものだと考える。
高村薫が指摘する安倍の「あやうさ」
猜疑心という言葉は、たとえば「猜疑心が強い」というように、もちろん積極的意味では使われない。スターリンは、その執ってきた政治もあいまって猜疑心の塊の代名詞のようにいわれ、私もそのように受け取ってきた。
一方で、「疑う」という行為は、たとえば科学には不可欠だろう。そこから出発しないと、おそらく思考は始まらず、認識が発展することもまた望めない。科学とまではいわなくても、われわれが日常生活で認識を深めるためには、まず物事を疑ってみることが必要であるにちがいない。
この「疑う」ということについて、小説家・高村薫が考察している。それはまたしても、第90代首相に任命されるであろう安倍晋三の言説、主には『美しい国へ』にふれてである。
保守・革新にかかわらず、戦後政治の多くの矛盾と世界の激動を目の当たりにし、たくさんの懐疑を抱きながら大人になったはずだが、本著には一切の懐疑のあとがない。一人の青年として岸信介の満州時代を精査した形跡もなく、大臣秘書官として90年代に至る自民党凋落の原因を真剣に省みたふしもない。かくして祖父や父親の教えをあれもこれもそのまま純化して、きわめて強固な保守となった安倍晋三に、同世代の臭いがないのは無理もない。 |
高村は、時代と格闘してきた足跡もみえないため、「保守の臭い」すらないという。そして、「臭いも懐疑もない人間が権力を手にして『闘う』というのは、ほとんど『近づくな、キケン』のレベルだと同時代の鼻は言っている」と指摘する。
たしかに、事あるごとにたちどまり、懐疑し、育ってきた世代のなかで、他のものとはちがって育ってきた安倍が、権力を手にしたいま、この高村の指摘する危険性の前にわれわれはさらされているといえそうだ。しかし、『近づくな、キケン』だとつきはなしてはならないだろう。
これまでのエントリーで、香山リカを参照しながら私も「疑うことのない」安倍についてのべてきた。そこにあるのは、祖父や父親への一種のエディプス・コンプッレクスともいえるような精神性であった。それはまた、二項対立で物事を考え、そして自らの物差しにそぐわないものは排除するという危険性をもはらむ思考であった。
まさにこれは、安倍がほとんど自民党総裁に選出されるであろうと予測されるここ数日間の短い期間でさえ、われわれの前にいみじくも明らかになったといえる。安倍が、「不注意」にも、また高村が指摘するように「軽々に言い切る」という不用意な対応にもそれは象徴的に表れているのではないか。
疑わない危うさ。高村があらためて強調するこのことは、極論すれば日本の前途を左右する大きな問題だともいえると私は考えている。
付記;高村薫は安倍晋三の異質についてつぎのようにのべている。
同世代として一番大きい困惑は、たとえば「自由を担保するのは国家」だと軽々に言い切る安倍氏の感性かもしれない。国家からの自由と国家への自由。権利としての自由と、よき国民たる徳としての自由。国家と個人の関係をめぐる先人たちの省察を少しでも振り返るなら、本著のような単純な断定はできないはずだ。また、仮に『リヴァイアサン』を引用するなら、慎重にヒュームやバーク、J・S・ミルにも目配りしなければ落ち着かないというのが、同世代の一般的な政治の感覚だと思うが、政治家安倍晋三は違う。(『論座』10月号)
閑話休題 -3 安倍丸の船出
「ポスト安倍はどうなるか、これをいま考えなければならないだろう。」
-こんなこと、頭の片隅で誰かがささやいてるヨ。
安倍総理が誕生したばかりなのに不謹慎な、という批判も当然あるにちがいない。けれど、自民党内からは不協和音がもれ聞こえてくるし、何はさておき21日の「日の丸・君が代」強制は違憲とした東京地裁判決を無視するわけにはいかないではないか。この判決は文字どおり安倍政権のよい餞になったことはたしかだ。
なるほど、今後、紆余曲折は十分考えられるだろう。そして、自民党はいずれにせよ政権党なのだから、その維持のために安倍新総理も動くことであろう。
しかし、いまの時点ではっきりしているのは、安倍がいかに外見上、首相然としていても底がみえすいているということである。
自民党内が表面上とはちがって一枚岩でないことがすでに明らかになった。何よりもそれは総裁選の安倍の獲得票に示されているようだ。7割は固いと豪語した安倍と安部の取り巻きであったが結果、思ったほどではなかった。
その上、高くなった鼻を低くすることのできない不器用な安倍は、参議院候補見直し発言までついやらかしてしまう始末だ。片山同党参院幹事長の言葉をまつまでもなく、「安倍君もあまりいい気になっちゃいかんよ」-この言葉の重みを、安倍クンは背負うことは結果的にできなかったといえるわけだ。
安倍の「総幹分離」発言も物議をかもしている。安倍は、自民党総裁と幹事長は別派閥から選ぶといういわば慣例を否定し、こうのべてきたのだ。それもつまるところ幹事長を同じ森派の中川秀直氏に据えようという思惑がみえみえで、それをマスメディアからすっぱ抜かれてしまったわけだ。
まだ内閣も組閣されていないのにこのありさま。安倍はやっぱり軽すぎる。頭も。
だから、安倍丸の船出、波高し。
安倍総理はミスター・チルドレン?!
結論を先にいえば、香山と佐高の定義にしたがい、ミスター・チルドレンの仲間に私は安倍晋三を加えたい。勘違いはしないでほしい。あの桜井和寿の人気バンド・ミスターチルドレンとはちがうのだ。
つまり、香山がいうような、「幼稚園チックなこの社会で、一緒に『わーい、楽しいな』と遊んでいるだけではやはりマズい」。「楽しくないことも、自分に得がないことも、時にはしなければならない。それがオトナってやつ」-この言葉をだれに投げつけるのか。もちろん、安倍晋三にたいしてだ。お前はミスター・チルドレン!
香山と佐高のこの本の主張にふれて、あらためてそう思った。
われわれの首相をチルドレンとよぶのは、なんとも不謹慎で、またなんとも気恥ずかしいが、いたしかたない。嗚呼、あわれな日本社会と日本国民。
「楽しくないことも、自分に得がないことも、時にはしなければならない。それがオトナってやつ」。この言葉の響きはともかく重たいと私は思う。なぜなら、安倍がこれからつくろうとする『美しい国』とは、たとえていうのなら、まさにこのようなオトナの世界とは別の世界だと思うからだ。この言葉をぜひ安倍「新首相」にほんとうは受け止めてもらいたいのだ。そして、この大事な時期に日本の国民もまた受け止める必要があると私は思っている。
別に、楽しいこと、あるいは面白くないことや損得の有無を政治家は扱え、または扱うなと私はいっているのではない。
私が注目するのは、「楽しくないことも、自分に得がないこと」もやらないという(チルドレンの)精神性と、安倍のいま説くところが通底しているということである。
昨日のエントリーでも少しふれたが、楽しい/楽しくない、損/得でものごとを考える思考回路はまさに、香山がいうチルドレンの発想だと私は考えるのだ。安倍の思考はこのチルドレンの発想に近い。
また、この思考回路の深刻なところは、たとえば楽しくない、あるいは損なものを毛嫌いすることであろう。それだけではない。毛嫌いするだけではなく、こともあろうに排除してしまうことだ。安倍の周辺で常に発せられる「反日」の言葉をはじめとする言動を思い出せばよく分かる。
香山は-自らの心理状況についてといっているのだが-、こんなこともいっている。
「多数派の尻尾についていたつもりだったのに、いつのまにやら少数派の先頭集団になっていて、何ともいえない居心地悪さと『ま、やるしかないか』というあきらめとがごちゃ混ぜの日々を送っている」。
そして香山は「孤立無援を恐れず」といってこの日本社会に警鐘を鳴らしている。
「反日」の烙印を捺されたであろう人たちはすでにこんな心境、心理状況かもしれないが、しかし、安倍になびくように今回ついていった自民党の国会議員たち、そして安倍の内実にふれることなく、「安倍さん、いいんじゃないの」と考えている人はみな、あらためてよく噛みしめるべき言葉ではないか。
あえてマルチン・ニーメラー(注)をひかなくても、歴史はこのことを教えている。しらないうちに「少数派」、それが結局は切り捨てられてしまい、排除された「多数派」ということになりかねないのだ。
こんな「美しい国」が実現しないように、戦後生まれのもっとも若い首相にはもっとも短命の首相に是非なってもらいたい、これが私の願うところだ。安倍がいちばんの狙い目としている憲法改悪と教育基本法改悪までの道のりは、透かしてみれば、実はこんなチルドレンをたくさんつくる過程にほかならない。
注;Martin Niemoller(ドイツのプロテスタント、ルター派神学者。1892.1.14~1984.3.6)
ナチスが行った数々の弾圧を傍観し、自分たち神学者にその手が伸びるまで行動を起こさなかった事を悔やみ、下記の有名な言葉を残している。
やつらは共産主義者に襲いかかったが、私は共産主義者ではなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらは社会主義者と労働組合員に襲いかかったが、私はそのどちらでもなかったから声をあげなかった。
つぎにやつらはユダヤ人に襲いかかったが、私はユダヤ人ではなかったから声をあげなかった。
そして、やつらが私に襲いかかったとき、私のために声をあげてくれる人はもう誰もいなかった。
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香山リカ・佐高 信『チルドレンな日本』(七つ森書館 )
香山リカが語る安倍晋三のエディプス・コンプレックス
『美しい国へ』を読むと、最初に「私の原点」という章がある。
安倍の政治家としての出発点がかかれている。このくだりから、安倍の尋常ではないエディプス・コンプレックスについて香山リカがのべている。(『論座』10月号)
香山は、「子ども、とくに少年であれば一度は父や祖父に反発を覚え、まったく別の道を歩もうとするのではないか」という。たしかに、自意識が芽生えてくると、おやじの一挙手一投足がわけもなくいやになり、このようにはなりたくない、と考えたものであった。香山は安倍にそれが読み取れないというのである。
香山の指摘に関連する部分をあげてみると、
「父、そして祖父も政治家だったので、わたしも子供のころは素朴に父のようになりたいと思っていた。そして大学時代には父の選挙を本格的に手伝うようになり、政治の道の厳しさも知ることができた」
「祖父は、幼いころからわたしの目には、国の将来をどうすべきか、そればかりを考えていた真摯な政治家としか映っていない。それどころか、世間のごうごうたる非難を向こうに回して、その泰然とした態度には、身内ながら誇らしく思うようになっていった。 |
など、この章「私の原点」には祖父・岸信介や父・安倍晋太郎によせる自分の信頼の強さが多々描かれている。
香山はここに着目している。たとえば、祖父・岸信介の真摯な人物に惹かれるのはまだしも、そのことと祖父の主張が正しいのかどうかは別物だというのだ。安倍はそれを問うことなく、先にあげたように「間違っているのは、安保反対を叫ぶかれらのほうではないか」と判断してしまうのである。
この章にはむろん、安部が政治家になる、政治家を志す決定的なシーンが語られている箇所がある。少々長いが引用する。
わたしが職業として政治にかかわることになるのは、1982年、父の晋太郎が、中曽根内閣の外務大臣に任命されたときである。当時わたしは東京・八重洲の本社にある輸出部に転勤していた。父は、出社前のわたしをつかまえて、 「オレの秘書官になれ」 「いつからですか」 「あしたからだ」 自分では、この充実したサラリーマン生活をもうしばらく続けたいと思っていたから、寝耳に水だった。 「わたしも会社があります。これでも年間数十億ぐらいの仕事はしているんです」 父は続けた。 「オレが秘書官になったときは、1日で新聞社をやめた」 急な話だったが、もともとは考えていたことだし、これも運命だと思って決断した。 |
とこんな具合だ。香山は自らの置かれた状況をまったく疑うことのない安倍の「異常さ」を指摘しているのだ。
安倍の主張に色濃く押し出されている国家主義だけれど、ことアメリカの前ではどうしようもない、隷従ともいうべき態度をとるのをとらえて私はゆがんだナショナリズムとよんだが、安倍のこのような思考は、祖父や父を信じて疑わない思考とおそらく無縁ではないだろう。
ようするに安倍に欠如しているのは想像力である。懐疑しないということは、香山も指摘しているが、内と外、おまえとオレ、身内と他人という二項対立をそのまま引きずるだろう。そして勝ち負けでくくってしまう。だから安倍の世界は、たとえば社会的な弱者に心を寄せるということはありえない世界といえる。
このように考えれば、安倍の今日主張するところ-ナショナリズムも、社会的格差にたいする態度も読み解くことができるのではないか。
安倍総理が誕生 -その主張をいま一度ふりかえる
自民党は安倍晋三を新総裁に選んだ。全体の6割超える得票を安倍は得たという。
総裁選のなかで、憲法改悪は5年スパンでということを安倍は明らかにしたが、改憲を強く主張する政治家をわれわれは首相にむかえる結果になった。いよいよ安倍の「美しい国」づくりにノンをつきつけ、抗わなければならない。
「美しい国」とはどんな国をさすのか。安倍の著書を参照して安倍の主張を繰り返しこのブログでもとりあげてきたが、その主張は、単にナショナリズムをうたうだけではなく、戦前への回帰をも説いていることに注目しなければならなかった。
要するに、その著『美しい国へ』で説くのは、改憲であり、教育基本法の「改正」である。安倍は、アメリカの世界戦略のなかに日本の役割を位置づけ組み込もうという意図を隠そうともしていない。9条改定と集団的自衛権を認め、そのためにもといえるだろうが、教育基本法を改悪することは不可欠の課題なのである。いいかえれば「美しい国」とは「戦争をする国」づくりといえる。
小泉のこの5年半、「構造改革」によって経済格差にみられるように日本の社会に亀裂が生み出された。新自由主義は人のこころのなかにも容赦なく踏み込み、「勝ち組・負け組」の言葉に象徴されるような国民の分断をももたらしている。だから、われわれにとってみれば、「格差社会」が今後も拡大していくのか、そうでないのか、大きな関心を寄せざるをえない。
この点では、格差が現にあることを認め、「競争がフェアにおこなわれなければならない。構造改革がめざしてきたのはそういう社会である。既得権益をもつ者が得をするのではなく、フェアな競争がおこなわれ、それが正当に評価される社会」といいきる安倍なのである。この言葉をそのまま引き受ければ、格差はさらに拡大するだろうと私は思う。
そうすればまた、つぎのことも明らかになるだろう。
安倍は「闘う政治家」を自認しているとみえるが、その説くところを以上のように一つひとつつぶさに確認をしていくと、彼が闘おうとしているのが何であるかもみえてくる。
それは、改憲に反対したり、教育基本法を守ろうとしたり、また、現状の社会的格差の拡大に反対をする勢力にむけられている。彼にいわせると「反日勢力」にたいしてである。だから抗わなければならない。
それだけではない。総裁選を前にして、靖国神社参拝について自らの姿勢を明確にすることはなかった。本音を語らなかった。「偏狭なナショナリズム」という言葉で中国や韓国を安倍が語るとき、いったい「闘う政治家」とは何か、この点でも考えてみる必要がある。国際社会のなかで安倍が問われるのはこれからである。
注;安倍の著書『美しい国へ』にはゴーストライターがいるという噂が広がっている。これについて政治学者・大嶽秀夫はつぎのようにのべている。
「政治家の著書の多くは本人の手によるものではない。ゴーストライターがいるか、本人の断片的な言葉をアレンジしなおしたものも少なくない。本書は「聞き書き」といいうのが一般的な見方である」。(「論座」10月号)
閑話休題 -2 太田光の想像力とローマ法王発言
ローマ法王ベネディクト16世の発言が物議をかもしている。
訪問先の母国ドイツの大学で行った講義で、東ローマ帝国皇帝によるイスラム批判に触れ、「(イスラム教開祖の)預言者ムハンマドが新たにもたらしたものを見せてほしい。それは邪悪と残酷だけだ」などと指摘したことが事の発端。法王はその上でイスラムの教えるジハードの概念を批判したらしい。
法王はその後、遺憾の意を表明したが、いまだに釈明に忙しそうだ。
法王の発言を聞いて太田光のある発言を思い出した。
「笑いが人を殺すこともある」という見出しで、太田がこういっている(『憲法九条を世界遺産に』)。(太田;太田光、中沢;中沢新一)
太田 まるで見分けがつかないほど似た者同士なのに、そこまでぶつかるかという血の紛争が世界の至るところで起きていますね。日蓮宗のお坊さんと浄土宗のお坊さんが、はっと気づいて笑えるような空気がなくなってしまうのは、すごく残酷なことだと思います。古典落語にあるような相手を許す笑いがなくなって、徹底的に相手を否定するという空気が充満しています。インターネットの書き込みなんて、「太田死ね」の連続ですから。 |
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