本ブログも4年目に入ったので、タイトルを思いつきで変えてみた。
アニカ ソレンスタムの言葉をもじった副題(Face the Strength !!)のダサいところが気に入っていたのだが、長くなるのではずしたら、ふざけた名前だけが残った。(--〆)
このブログを書くようになって、その物言いに惹かれ、影響を受けたのが内田 樹(うちだ たつる)先生。
もっともポピュラーな著書である「日本辺境論」のなかで述べられていたが、
「ぼく」という物言いでは連れてゆけない場所があるのだという。
「私」という、より強い言葉を使わないと、上がれないステージがあると。
実用的で直接的に役立つことは無いかもしれないが、
人工的な日常の延長線上ではないセカイを持つように心がけるべきだと思う。そのほうが面白いから。
平野 啓一郎氏と菅野昭正(かんの あきまさ)氏との対談を引用しておきます。
(菅野氏は1930年生まれ、片や平野氏は1975年生まれ、
親子以上の歳の差があるのだが、そこで交わされる対談は実に深いところでまじわっているようで面白い。
日常生活が人工的なシステムのうえに成り立っていることは分かっていても、意外に気がつかず、それがすべてだと思いがちだ。)
日常生活を、そのまま写し取ったようなものには興味が持てません。
日常というものを生きていて僕がつくづく感じるのは、一見非常に心地よく造られてはいるけれど、それが極めて人工的なものであるということで、人間は絶えずそこから解放される瞬間を欲しているのではないでしょうか。
しかし、そのような瞬間の体験というのは、決して持続し続けるわけではないということです。
人間は、飢え死にしないためには、好むと好まざるにかかわらず現実に戻ってこなくてはならない。
そうなのだ、飢え死にしないことだけが目的ではないはずだ。
現実に戻りつつ、心的現実を大切にしながら、
反対の方向を持った二つが、同時に依存しあい、二重螺旋(らせん)のような構造となって精神を発達させていく。
(心的現実性こそが重要である)
(螺旋の旅路 ~自分を求め 自分を手放す ~ Let it be♪)
ディアローグ | |
平野 啓一郎 | |
講談社 |
内田先生の書く文体に憧れる。
一見シリアスで退屈に思えるテーマであっても、本質的な部分を鮮やかに切り取って、おもしろく劇化して表現できる。
喪に服していると、ある面、人工的な現代の社会システムから切り離されてしまっている場所に身を置かざるをえないようなところがある。
「死とはなにか」、なんて日常会話ではまず出てこないフレーズだが、そのあたりの知見の薄っぺらなこと甚だしいのを身につまされる。
" 教育の甲斐あって"、私たちは世間を泳いでゆく技を身につけるのだが、そこで止まってしまっているのではないか。
教育の甲斐あって、私たちはみんな死を怖れるようになる。
でも、成熟のある段階に来たら、死とのかかわり方を「元」に戻さないといけない。
「元」というのは、死者はすぐそばにいる、という感覚を取り戻すことだ。
別にオカルトの話をしているのではない。これが本来人類の「常識」なのだ。
ただ、その常識を段階的に教える教育制度がもう存在しなくなってしまったというだけのことである。
武道と文学と哲学はそのための回路なのだけれど、
「そういうふうに」武道の稽古をしたり哲学書を訳したり小説を読んだりしている人は、もうあまりいない。
「死ぬ」ということが、「隣の家に行く」ような感じになること、それが武道においてはとても大切なことだ。
それは武道の稽古をして胆力を練ったから死をも恐れぬ精神に鍛え上がったということではない。
(そんなことは残念ながら起こらない)。
話は逆で、「生死のあわい」におけるふるまい方について集中的に探究する人間は、自分がどのくらいその振る舞い方」に習熟したのかを武道を通じてチェックすることができる、ということなのだ。
社会学者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは、「生きている人間」の世界にしか興味がないからである。
霊能者の書いたものがあまり面白くないのは、あの人たちは平気で「あっち側」のことを実体めかして語るからだ。
「こっち側」と「あっち側」の「あわい」でどう振る舞うかということを正しく主題化する人はほんとうに少ない。
(内田 樹)
こういうテーマがあることを明確に教えてくれる人はいないものだ。
内田先生は、村上春樹と司馬遼太郎を引き合いに出して、
生死の「あわい」だけでなく、広い意味での「あわい」について、上手く説明してくださる。
そこに踏み込もうとすると、「何かベタっとして気持ち悪いもの」に触ってしまうのである。困った。
この世界の人々の困惑を解決したのが村上春樹である。
彼ら(村上春樹と司馬遼太郎)は、私たちの社会の深層に伏流している、邪悪で不健康なマグマのようなものについて意識的である点で共通している。
これを根絶することは不可能である。
集団が成立する程度に熱狂的であり、暴力的・排他的に機能することを自制できる程度には謙抑的である「許容範囲」にこれをコントロールするのが、さしあたり大人の仕事である。
そのためにはこの「どろどろして不健康で暗いもの」の生態と統御についての技術的知が必要である。
でも、そういうことを考えている人はあまり多くない(というか、たいへん少ない)。
もういちど 村上春樹にご用心 | |
内田 樹 | |
アルテスパブリッシング |
ミイラ取りがミイラにならぬよう前方に注意しながら、あわいを掬いとってゆくことが豊潤さにつながるのだ。
(「詩人」という生き方 ~ Junk ♪」)
4年目になるが書き続けよう、どんなに馬鹿げているように見えても。
However Absurd
大阪はラテンな感じですかなー
売店のおばちゃんとか、初見でも会話交わすのが当たり前みたいな大阪で生まれ育ったので、東京に出てきた時、Kioaskのおばちゃんに電車の行き方聞いたら、路線図のほうを指さされて面喰いました。
今では大阪に行く度、エスカレーターの乗る方向に戸惑ってます。(・。・;
大阪から関東にいらして20年なのですね!
私、生まれも育ちも埼玉なのです!
6年前に埼玉から大阪にやってきました。
ゴルフィーさんと逆だな~と
びっくり奇遇で思わずまた返信してしまいました!
埼玉、私は育って過ごしただけに、大好きですよ~
そして6年目の大阪もとても好きになりました。
最初は“関西”という未知の地がとても不安だったのですけど
大阪が今は大好きで、まだまだ離れたくありません!
大阪出身のゴルフィーさんが埼玉を好きになったという言葉も
埼玉出身の私にはとてもうれしく思います^^
(長瀞、秩父など自然いっぱいでおすすめです☆)
こちらこそ、今後ともよろしくお願いします^^
亭主九分九厘のブログではありますが、どんなひとが、どんなふうに感じてるのか、ときどき気になります。
なので、コメントいただけるとホッと嬉しくなります。
関西にお住まいなのですね、
ぼくは25で大阪から東京にきて20年ほど、すっかり自然豊かな埼玉が好きになりました。
これからもよろしくお願いします。(^ ^)
拙ブログをご紹介頂いた沙於里さんにも感謝してます。m(_ _)m
いつも遊びに行っている沙於里さんブログから飛んでまいりました。
沙於里さんの記事でゴルフィーさんのところで、と紹介されていた、マットさんのPVがあまりにもよくて。。
私も自分のブログに貼って、今日は何度も観てしまいました。
素晴らしいですね。
踊りは人の心を動かすものがあるのだと思います。
記事、とても深い内容が盛りだくさんのようなので、
また拝見させてください^^
ブログ4年目、おめでとうございます~
いつも遊びに行っている沙於里さんブログから飛んでまいりました。
沙於里さんの記事でゴルフィーさんのところで、と紹介されていた、マットさんのPVがあまりにもよくて。。
私も自分のブログに貼って、今日は何度も観てしまいました。
素晴らしいですね。
踊りは人の心を動かすものがあるのだと思います。
記事、とても深い内容が盛りだくさんのようなので、
また拝見させてください^^
ブログ4年目、おめでとうございます~
七七日のカウントからはじまるような辛気臭いブログにいらっしゃる方は少ないだろ、と思ってますし。
メトロに、前向きなのはいいけど後ろにも気をつけよう、ってポスターがありまして、なるほど、タイムリーに自分のこと言われてるように思いました。
ベタっとした気持ち悪いもの、のくだりがありますが、岡本太郎さんのことを言ってるようでもあり‥
重いですか、どしてだろ?
もっとライトにいけ、ってことかな?
ここではジメジメしてたいんですけど(・・?)
ブログは拝読しつつも、お悔やみのことばもお伝えできずにおりましたが・・
私もこの2ヶ月の間にそばで「生」をいくつか見送ったことで、この日の記事の生と死についてのお話、考えさせられました。
4年目を迎えられたとのこと、時にはっとさせたれるようなテーマに、助けられたり元気をもらっています。
今日も、以前ご紹介されてたWhere the Hell is Matt? の動画拝借しました。
あれ、いいですね♪ ありがとうございます。
ところで、最近ゴルフィーさんのブログ重たい・・って、その・・なかなかスクロールできないんですけど、なんでかな。。
私のPCの問題にしては、他の人のブログはすーっと行くんですよねぇ
会話やつぶやきのフォーマットにそぐわない言葉というのはありますね‥
強がりだったり、照れ隠しだったり、口から発することはしないような言葉とか。
えてして、そういう類いのことは、沈黙は金なり、だったりして、あんまり言ってもトクはしない、みたいな。
このようなコメントを頂けるのは、バッバワトソンで400IPの訪問があることなんかより、わかる人がいた、みたいで遥かに嬉しいです。
満中陰明けには、自粛気味のコメントも再開しよかな、と思ってます。拝見はしてますよ。(*^_^*)
ゴルフィーさんと違って極端に文字数も少ないし(笑)
中身も底浅なんで(苦笑)
同等には語れませんが・・・
流れるように過ぎゆく日常の中で
忘れてしまいたくない事柄をひとつひとつ文字化して
パズルをつなげる作業の如く
日々の思索の輪郭を明瞭化させるツールとしてのブログは有益だと、
ある社会学者が言ってました。
これからも一読者でいさせてくださいね