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My lucky life ありがとう武士道 

2011年01月19日 17時45分28秒 | 人物伝、評伝 (自伝含)

サム・フォール氏の自身の人生の回想。

サム・フォール氏は1919年イギリスジャージー島に生まれ、1937年英国海軍に入隊、39年海軍中尉に任官され42年第二次大戦のジャワ沖海戦において、乗艦「エンカウンター」が日本軍に撃沈され、一昼夜漂流ののち海軍少佐(当時)工藤俊作艦長率いる駆逐艦「雷(いかづち)」に救助され、日本軍の捕虜として3年間の生活ののち45年無事帰国。2年間ドイツの英国占領地区民間管理局・管理委員会に勤務後外交官に転じ、中東・マレーシア勤務を経てクゥエート大使、スゥエーデン大使、シンガポールおよびナイジェリアの高等弁務官を歴任し、「サー」の称号を与えられた経歴の方である。

フォール氏自身の生まれたときからの回想録であるが、寄宿舎での学生生活から海軍に入隊するまで、海軍での生活、捕虜生活、その後の外交官としての生活が描かれてゐて興味深いことが多い。

フォール氏はイギリス人でありイギリス政府の役人といふ立場なので、その視点から見た中東情勢、英国植民地であつた東南アジアの見方が興味深い。

また、フォール氏自身が書いてゐるやうに「イギリス人は北欧の区別がついてない」といふエピソードがイギリス政府の関係者の実名とともに紹介されてゐる。スゥエーデンでのスゥエーデン政府関係者との会合での挨拶において「ノルウエーの皆さんに乾杯」と言つたといふエピソードが堂々と書かれてをり、かなり驚く。逆に、イギリス人のかのやうな面を頭に入れておけば、日本において同様のことをしたときに「イギリス人といふのは、世界の国々の区別がつかないんだ」と思つてをけば、いひのだらう。

フォール氏自身の回想で興味深いのは「第四章 ジャワ沖海戦」「第五章 戦争捕虜」である。日本軍への見方は勿論、驚いたのは捕虜としての生活のやうすが「捕虜」とは思へない記述があるからである。東京裁判にて、日本軍の捕虜虐待に関してBC級戦犯といふ犯罪が起訴され裁かれたが、かのやうな生活もあつたのかと驚く。

東京裁判では、日本の行為は「侵略戦争」として裁かれたがフォール氏の記述によるオランダ領であつたインドネシアでは「われわれは上陸し日本国旗で飾られ、野次を飛ばすインドネシア人たちが立ち並ぶ道路を通り、なんとか収容所まで行進した。インドネシアは勝負のあの時点では、日本人を、ヨーロッパの抑圧からのアジアの解放者として見ていたのである」(P88)。

フォール氏は脱走を企てインドネシア人の船でオーストラリアへ向かふ計画を立てる。その際にフォール氏は「インドネシア人は日本人に優しく、われわれには敵意をもっているようだった、と口を挟んだ。ヴァン・オルフェン(脱走を一緒に企てた者)は気にしなかった。彼は、勿論住民は身の安全を考えて日本軍を歓迎している風だが、その船長はオランダ人を裏切らないといった。私は当時どれほどインドネシア人がオランダ人を嫌っていたのか知らなかったので、彼の自信に満ちた言葉をそのまま受け取った。(中略)ところが突然大騒ぎが起こり、日本兵が怒鳴り声をあげ金切り声で何か命令していた。(中略)オランダ人数人が脱走を計ったのだ。(中略)彼等は収容所を脱走して数分も経たないうちにインドネシア人が裏切って日本人に売り渡したのだ。」(P89-90)

この部分は、興味深いものであつた。同時に、「植民地政策を長年続けてきた側の視点」と「植民地にされてきた側の視点」の隔たりがわかる。このほかにもフォール氏が赴任した中東で現地の政府にあれこれ発言することは、「イギリス帝国主義」として捉へる立場があり国内で対立があり情勢が安定しない事情の話もあつた。

これらを読んで、以前読んだインドのパル判事の東京裁判の判決の主張が、東京裁判の検事を務めた「帝国主義」国とは違つてゐたことをなんとなく理解した。(パル判決書をすべて読んだわけではないので、これから読む必要があるが)

戦争捕虜となる前に、乗つてゐた艦船が撃沈され一昼夜漂流するのであるがその後日本の駆逐艦に救助された場面、その後の日本軍の対応に対してフォール氏は記述してをり、本書の扉の部分には「私の人生を幸運に恵まれたものにしてくれた妻メレテ、わが子のスティナ、サム、アンナ・キャサリーナ、ヘレナにまた私の命の恩人である大日本帝国海軍少佐、故工藤俊作に本書を捧げる」と書いてゐる。

フォール氏は海外赴任を重ねる中でも工藤少佐の消息を探し続け死去してゐることが判明した後も墓所を探し2008年に来日墓前に参じし献花を行なつてゐる。(P313に写真あり)



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