1966年11月7日から1967年10月7日までのもの。
チェ・ゲバラがボリビア人民解放軍として、ゲリラ戦争を行つてゐた時の日記と農民、鉱山労働者を始めとした「搾取されてゐる」人民へ宛てた文書、前線のゲリラ隊を支援する都市の基幹隊員宛の文書を含む。
また、フィデル・カストロの「なくてはならない序文」が冒頭にあり、日記を読む前にゲバラを理解する手助けとなつてゐる。
時代が40年前といふことを考慮しても、「ゲリラ戦争」と言ふものは相手と戦う前に自分との闘いだと言ふことがわかる。
荷物(何十キロ?)を背負い、食料の調達・管理(山中では狩をすることを含)、食料が不足すれば食事抜きで何時間も行進、野営と一言で言へば聞こへはいひが、山中ですべてを一から準備して寝る、翌朝起きての支度・・・ と戦闘に加えて雑用がかなり多いやうに思ふ。
信念が無いと、とても続かない。
物に恵まれ、すべてが「有つて当然」と言ふ生活に慣れた人間が出来ることではない・・・・
ゲバラと言ふ人の凄いところは、「革命的インターナショナリズムの真髄」(ボリビア人民へのコミュニケ第4号、P309 )を自身が完全と言つていひほど、身に付けてゐたことであらう。
キューバ革命の際には、彼は「アルゼンチン人」なので言はば外国人であつた。ボリビア戦争の際には、ゲリラ隊はボリビア人とキューバ人(キューバ革命からゲバラと行動を共にしてきた人たち)であつた。
この隊の中で、ボリビア人とキューバ人の「対立」があつたことは日記から伺い知れる。ラテンアメリカはスペイン語が公用語であるが、やはりそれぞれの国の違いといふものがあり集団行動にはさうした「違ひ」の部分が影響してくる。
それを観察し、理解し、隊をまとめて行くと言ふ「かなりシンドイ作業」をこなしてゐたやうだ。
そのほかにも、「小競り合い」が度々起きてゐるやうであつたが、彼の日記には愚痴めいたことは無い。だうやつて解決していくかを常に考えてゐたやうである。時には批判をしたことも書いてある。
日記だけでなく、ボリビア人民へのコミュニケ、前線のゲリラ隊を支援する都市の基幹隊員宛指示書からも伺へるが、ゲバラと言ふ人は「常に現場主義」であつたと思はれる。それは彼が前線にゐたことだけでなく、「前線に借り出されるであらう、立場の人」「現場で働いてゐて一番汗水を流してゐる人」に常に思ひを寄せてゐるからである。
それが顕著に現れてゐるのは、以下の文章である。
「財政の担当者は組織の諸経費の流れを監督する。担当する同志はこの責務の重大性について明確な見解をもつのが肝要である。なぜなら不法裡に任務を遂行している同志たちが多くの危険にさらされ、不明かつ不測の死にいつ見舞われるかもしれない危険を冒しているのが確かである一方で彼らは都市部に居住しており、結果的にゲリラ戦士が強いられている肉体的苦難をいっさい経験しないで済んでいる。したがって彼らは、自分たちの経由する必要物資や金銭の取扱いについてある種の無頓着さをもって狎れてしまう可能性がある」(P294, 「都市の基幹隊員宛の指示書」)
全く、この指示書のこの部分は現在の「多くの会社」に当て嵌まることではないだらうか?所謂、「机の上にばかりゐる経営層」と「現場で仕事をしてゐる社員層」である。
そしてもふ一点。
「われわれは(ボリビア陸軍の)若き補充兵たちに、以下の教訓に従うよう確と呼びかけたい。戦闘が始まったら武器を地面に投げ棄て、両手を頭上に挙げよ。砲撃戦のさなかでも不動の姿勢をとり、戦闘区域の近隣を行進する際は絶対に縦隊の最前列に飛び出てはならない。こうした極めて危険な持ち場こそ、紛争を扇動している士官たちに任せるのだ」(コミュニケ第2号P305)
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企業だけでなくいまや腐敗し切つた日本の政局が、ゲバラのかうした精神の「革命」を受けるべきときではないのか。
さう思つた。