本間 九介氏が1894年4月17日から6月16日にかけて「二六新報(にろくしんぽう)」といふ
日刊新聞に掲載してゐたもの。連載が終了した直後に書籍として出版された。
有名なイザベラ・バードの「朝鮮紀行」より4年早く刊行されてゐる。
本書を監修したのはクリストファー・W・A・スピルマンといふ1951年生まれのポーランド人。
2005年から2015年まで九州産業大学教授、ロンドン大学アジア・アフリカ研究院(SOAS)
日本学科卒、エール大学大学院歴史学研究科博士課程修了、博士。(PhD,日本史)
専門分野は近代日本政治思想史、とくに国家社会主義やアジア主義の研究に定評がある方。
巻末の「解説」はスピルマン氏が書いてゐるが、解説から先に読むとこの本の内容や
背景が理解しやすい。 表紙裏にある氏の解説の抜粋が興味深い。
「当時、アジア主義という思想を抱いていた一人の若い日本人が、国家の近代化とか何か、
欧米の帝国主義とアジアの関係はいかにあるべきかといった、壮大な問題について思索を
めぐらせながら生み出した作品でもある。そうした点にこそ、今日、『朝鮮雑記』が再出版される
意義があるのではないかと思われる。
監修者としては、この書籍が広く一般の日本人に読まれ、いままでほとんど語られることの
なかった歴史への新たな議論が起こることを願ってやまない」
なぜ日本人の学者でこのやうな考へをする人がゐないのであらう?
勿論、歴史の事実を追求し研究してきた人達はゐるがほんの少数であり、反日思想の
マスゴミはほとんど取り上げず、支那・朝鮮の歴史捏造にばかり加担してゐる。
本書は日刊紙の連載記事なので、長い記事も時にはあるがほとんどが短編のものである。
本書を読むと朝鮮人が日本の併合時代にあれこれ被害に遭つたと主張することが
嘘だとすぐにわかる。
まづ、作者の本間九介がかなり朝鮮語を勉強した旨が解説にあるが、朝鮮人の主張通り
朝鮮語禁止され日本語強制されたなら、本間氏が朝鮮語勉強する必要はない。
P74娼妓に驚く事が書いてある。
「彼の国の娼妓は全て人の妻妾である。中略 夫は自ら妻の客を引きまた自ら馬となつて
揚げ代の請求に来る。これは彼の国の社会の通常である」
慰安婦強制連行があつたなら朝鮮の男は黙って見てたのかとの疑問があるが、強制連行どころか
自ら差し出してた事があつたやうである。 像を世界に建て被害を叫んでゐることがとんでもない
恥さらしになるのではないか?
P85「朝鮮全土至る所男色が流行しない場所はない。ソウルに至っては良家の子供たちといっても
美しい服をつけて市街を横行し公然とその尻を売る。あっけらかんとして恥じる様子もない」
TVが二丁目やオネエだの取り上げてゐた意味がわかつた。 今声高にあれこれ主張する
「性的マイノリティ」にも怪しい団体が結構あるが、日本で「差別」を叫ぶ集団は根柢でつながつてゐる。
これもその根幹が同ぢ民族ではないかと疑ふ。
朝鮮人はよく豊臣秀吉の朝鮮出兵を非難してゐるが、そのおかげで田植えの技術を学んだとの事。
それ迄は籾種を直に水田に蒔いてゐたらしい。(P101)
P202-209に市街と料理店、旅館について書いてあるが日本人なら卒倒する不潔さ。
新大久保が糞尿臭いのは今も朝鮮人が変はらないといふ証拠だらう。これを読み認識した上で
旅行や朝鮮人経営の店に行つたはうがよい。マスゴミは報道しない自由を行使するな。
P211から記述されてゐる「漁民保護」の主張を読むと竹島襲撃・漁民殺傷誘拐の前から日本人漁民が
朝鮮人の被害に遭つてゐた事がわかる。本当に関はつてはゐけないし友好の虚言の下に迎合するな。
入国・滞在させるのは日本人を危険に晒すだけ。
この本を読み進む程、朝鮮には関はつてはゐけなかつたし今後も関はるべきではないとよくわかる。
西洋が朝鮮に出て行かなかつたのは投資する価値がないと知つてゐるからと書いてあるが、
本当に我が国も放置しておくべきだつた。
本間 九介氏は時として、朝鮮人が気概がないことを嘆き日本がなんとかしてやらなくてはと
記述してゐるが今、朝鮮人には関はらづに放置して勝手にしておくべきだつたと心から思ふ。
朝鮮人に関する表記を読むと、今も昔も全く変らない民族性がよくわかる。そして日本人とは
決して相容れない民族だともよくわかる。 断交するのがお互ひのためである。