読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

問題は、躁なんです 正常と異常の間

2009年11月30日 15時14分22秒 | 医療 (医療小説含)
春日 武彦氏の著書。

春日氏が「鬱病」はいまや知らない人はゐないであらう、病名となつてゐる。
あたくしが目にした中には「プチ鬱」などとふざけた言葉を記載してゐるマスゴミもあるくらいだ。
対して「躁鬱病」「躁病」といふのはあまり聞かない。

年間「鬱」で自殺する人、など「鬱」は暗く重い病気といふイメージがあるが、「ハイ状態」の「躁」はだふなのか?
むしろ「躁病」のはうが恐ろしい、といふのがこの著書である。

では「躁」とはどんなものなのか?
これをこの著書で分かりやすく説明してくださつてゐます。

読むと驚きます。
まづ、「鬱」は周囲から「病気か」「具合悪いのか」といふ注意を引きやすいが「躁」はさうした注意はあまり引かない。「明るい」「気分いい」「気前いい」などプラスのイメージを起こすのである。あまりに度がすぎると、「どふしちやつたの?」とびつくりするが、「病気か」と思ふことはほとんどない。また「鬱」と違つて本人も「病気かもしれない」と病院に行くこともない。

では「躁」の病による典型的な行動とはどのやうなものなのか?
著書10ページから12ページによると

女性の場合:
化粧がどぎつくなる、服装が極端に派手になる、ブランド物を買いあさり「さりげないお洒落」など無縁な下品で金ぴか状態となり、ホストクラブで豪遊する。
男性の場合:
尊大となり、声も態度も大きくなる、金遣いが荒くなる、常識や良識もわきまえづ、セクハラなどしたいはうだいとなる。

ううむ。
普段でも、かのやうな人たち居ますね・・・・ さういふ性格なのか好みなのか知らんが、特定地域にかなりこのやうな人たちがゐるところがある。(都道府県名は言はないが)

それから、かなり酔つ払つた状態が一種の「躁」状態であるとも言へる。 やたら気が大きくなりしらふでは買はないやうなものを買つたりして、正気になつた後に「なんだこれ」となるが、「躁」から回復した人たちも同様の状態となるらしい。しかしやつてゐることが「一晩の酔つ払ひ」の比ではないので大変なこととなる・・・・

ほんたうに病気で重症になれば、世間に大変な迷惑をかけるのでは??と思ふが、
実際に起きた事件の中で「躁病」を疑ふものが結構あるやうだ。
しかし、回りは病気とは認識しなかつた・・・ (本人は当然病気と思はない)
著書にはさうした事例もあります。

人間、やなことがあつて気分が沈む・・・ 暫くして立ち直ればよいが、沈んだ状態がかなり長く続いた後に突如として「明るくなる」ことがある。これが著者の言ふ「問題は、躁」の部分である。

確かにさうだ。
ガアンとシヨツクを受けて、沈む・・・
だうしたら良いだらうと考える・・・ 状態が改善されない・・・ 沈む・・・
そのうち、ヤケになつて何もかも投げ出し好き放題にしだすことは無いだらうか?
きつとこれが、「躁」の一歩なのだ。

人間といふものは、誰しも心の中に 「可能性」を秘めてゐるのであらう。

シリーズ歌舞伎 DVDBook 「勧進帳・紅葉狩」

2009年11月28日 17時26分15秒 | 文化
小学館DVDBook 「シリーズ歌舞伎」のうちの一刊、「勧進帳・紅葉狩」です。

このDVDには、市川團十郎、市川海老蔵 巴里オペラ座公演の様子が収録されてゐます。

市川宗家に関する書物をいくつか拝読し、歌舞伎に関する書物もいくつか拝読し
十二代目團十郎丈の著書、解説も拝読してから観たこのDVDに収録されてゐる「勧進帳」はこれまでの歌舞伎拝観と違ふ気持ちで観ることが出来たのと、「歌舞伎そのもの」を純粋に観る気持ちで観られたのと両方の気持ちで観られたのが新鮮でした。

それから、大変な病気をなさつた團十郎丈が、病がそれとわかるまで舞台に立たれてゐたといふのも、物凄く大変なことだつたのだなあと覗いしれました。

團十郎丈演じる弁慶が、酒を振舞われながらも義経を関守から逃がすところから、跳び六方での引込みには感動して涙が溢れてしまひました・・・ 
自分でもびつくりしました・・・・
DVDでこんな感動してしまふとは・・・

それから、口上。
團十郎丈が最初は日本語で、次におふらんす語でご挨拶され海老様他の役者さんたちもおふらんす語でご挨拶されます。驚いたのは亀治郎丈の流暢なおふらんす語です。専攻されてゐたのでせうか?
存じませんでした。 

そして新歌舞伎十八番の内 「紅葉狩」
團十郎丈も仰つてゐたやうに、ヨーロッパには紅葉なるものが無い。したがつて、「紅葉(こうようの季節)」なる習慣も無い。
しかしながら、「日本文化」の一面を観る感覚でヨーロッパの人は興味深く観るのではないかなと思ひました。実際、だふなのか聞いてないのでわかりませんが・・・・・・

紅葉狩は、海老様演じる更科姫が実は鬼神であり團十郎丈演じる維茂の持つ小烏丸(こがらすまる)により本体を表し、食わんとするのですが維茂に討ち取られるといふお話です。

この演目のみどころは、それぞれの舞だと思ひます。
そして鬼神となつた海老様の迫力のある立ち回りが後半のみどころと思ひます。
立ち回りと言ひますが、すごい迫力で市川宗家の御家芸「荒事」に近い(のかな?)と思ひました。

前半の更科姫の舞の最中にも「顔が鬼神の本性」になる変化(へんげ)の場面があるのですが、そのときの演技から鬼神の演技と画面にずつと引き込まれました。

観るたびに思ふのは
十二代目までの團十郎、十一代目までの海老蔵による「荒事」「和事」の継承の素晴らしさです。
芸を身に着けるためのお稽古から始まつて、芸を磨くための身体創りへと、きつと継承者の方々は大変な努力をされてゐると思ひます。継承だけでなく、「変化」への挑戦もしつつ(これも色々考える必要があるものだし・・・・)。
大変なお仕事といふか、運命と言ふか・・・・ 

一言、凄い・・・・・・ です。 ほんたうに頭が下がります。

本には、團十郎丈と海老蔵丈のインタビューがあります。
海老様が仏蘭西の文化観と日本の文化観の違いについて「仏蘭西では古いものでも守るべきものは守り新しいもので攻めるべきところは攻めてゐる」と答へられてゐたのは同じ意見です。
その後の例をあげて答へられてゐる部分は、同じことを感じました。

文部科学省の教育に対する考えおよびその他関連省庁が考えを変えて一歩踏み出すことが必要だと思ひます。

團十郎の歌舞伎案内 / 歌舞伎十八番

2009年11月28日 15時07分38秒 | 文化
團十郎の歌舞伎案内 /  歌舞伎十八番 はそれぞれ別の著書ですが、双方とも
十二代目市川 團十郎の著作です。

まづは 「團十郎の歌舞伎案内」から~

十二代目團十郎丈が青山学院大学文学部日本文学科(十二代目團十郎丈は
小学校から高等部まで青山学院)にて客員教授として「歌舞伎の伝統と美学」の
テーマで集中講義されたときの様子を本にしたもの。

講義なので、口語体で書かれてをりまた「歌舞伎の素人」に解説してくださつてゐるので大変にわかりやすい。
歌舞伎の演目には能からきてゐるもの、歌舞伎の長唄が浄瑠璃と結びつきが深いことから能、狂言、人形浄瑠璃という伝統日本文化にも触れて説明してくださり、歌舞伎だけでなく日本独特の和楽器・音楽・演劇という芸能を感じることができ、大変素晴らしい一冊だと思ひます。

明治時代以降、「西洋文化」を善しとした政府の意向で洋楽・洋楽器・洋風演劇が日本でも奨励された結果、現代の形になり歌舞伎は「過去の時代のものを一部の人たちが楽しむ」やうな芸能になつてしまつたやうに思ひます。

歌舞伎だけでなく、和楽器や雅楽、浄瑠璃など日本独自の音楽も同様です。

しかし、日本に日本人として生まれて育っていくと、「江戸時代の文化」といふものは潜在的遺伝子として自分に残つてゐるな、と感じることがあります。
自分は20代初めにオーストラリアへ単身渡り、オーストラリアで働き旅行をするという経験をした後ヨーロッパ単身旅行など日本を単身で離れるという経験をして参りました。

その結果、海外では自分が意識してゐる以上に「日本人であること」を認識されられるのです。
それは何故か

海外の人たちは私が日本人であると知ると、日本について色々尋ねます。
それは文化のことだけでなく、仕事の習慣、生活習慣等々思ひもよらない質問が続きます。
そして一番痛感したのが、「海外で一番と言つていいくらい知られてゐる江戸の文化の数々(歌舞伎、浮世絵、芸妓(芸者))」について自分がきちんと説明できない、といふことでした。

「はじめに」で團十郎丈が10ページで仰つてゐる駐在員さんたちの言葉「歌舞伎について何も知らなかつた。これはやはり恥ずかしいことだと痛切に感じました」は全くあたくしの当時の心境であります。

あたくしが拝読しながら思つたのは、「日本政府が小学校から必修科目として大学まで「日本文化」の授業を確立させ、教育を行なうことが重要」といふことです。
一体、歴代の方々は何を考えてをられたのか。

そして初代から十一代目までの市川 團十郎についての講義。こちらも中々興味深い。
現在演じられてゐる演目で、初代が発表し二代目が「御家の芸」と大きく発展させ、代々が受け継ぎ七代目が歌舞伎十八番を制定される。

市川宗家の御家芸は、何故か子供のころから「漠然と知つてゐた」ものがあり、「暫」「助六」「勧進帳」は團十郎丈が演じてこられた衣装が非常に記憶に残つてをりました。なぜ記憶に残つたかと申せば見た瞬間「格好いいなあ」と思つたからだと思ひます。
ただその頃、自分が劇場に行き拝観するとは思ひませんでしたが・・・・

十二代目團十郎丈も申され、江戸歌舞伎に関する諸処の評論でも記述されてゐることですが、「助六には江戸が詰つてゐる」のは非常によくわかるところです。
「助六」は元々上方で起きた心中事件が元で上方で演じられたのが最初のやうですが、それを江戸っ子の好みに併せて変更したのが、江戸歌舞伎の「助六」ださうです。

あたくしの家も代々江戸者ですので、気性が「助六」に似てゐるところがあります。
なので、「助六には江戸が詰つてゐる」といふのは非常~によくわかる。
ちなみに、「橋向こう」は江戸ではないと思ひます。

「助六」を演じる際には、ご挨拶に伺ふ方々がいらつしやりその方々が出演を快諾なさると上演決定といふ江戸時代からのしきたりも大切に感じます。
「助六」上演に際し、魚河岸の旦那衆とのしきたりも感心すると同時に「人がきちんと顔を合わせて挨拶」といふ、人間の基本が大事にされてゐていいなと思ひます。

江戸時代つて基本人間で機械も何も無いわけだから、お互いが助けあふのが当たり前のことだつたと思ひます。だからかのやうなしきたりが出来たのではないかと思ふのですが・・・
いい時代だなあと思ひます。

そんな、現代人が忘れてしまつたやうなしきたりを「歌舞伎を知る」ことで取り戻せて行けたらいいなあなんて読みながら思ひました。
学校の授業で「歌舞伎・能を始めとした日本芸能にみるしきたり」として教へてはいかがでせうか?

次、歌舞伎十八番

これは七代目市川團十郎が「市川宗家の御家芸」として制定した十八の演目を簡単に説明してくださつてゐると同時にどのやうに演じられてゐるか、衣装の説明や化粧(かお)の説明をしてくださつてゐる一冊です。
お写真もあり、「粂寺弾正七つの見得」など大変わかりやすい。

ご子息の海老蔵丈が「毛抜」を上演された際に拝観しましたが、かのやうな知識があつて見ればなおよかつたなあと自分の不勉強さを恥じました。
テレビ等で役者さんを拝見して、「舞台が観たい」として劇場に行くのもいいが「歌舞伎の知識」をつけていくと大変楽しめると思ひます。

ああ、これが「弾正の七つの見得なのね!!」と感激する事間違ひなし

海老様の初春公演の演目を資料を探してお勉強してから行かふと思ひます。

十二代目團十郎丈、著作を有り難う御座ゐました。

江戸っ子と助六

2009年11月26日 17時00分46秒 | 文化
赤坂 治績氏の著書。

江戸つ子 は皆さんご存知のとおり江戸生まれの江戸育ちの江戸生まれ親もちで御座ゐます。

助六 とは・・・・
歌舞伎の「花川戸助六」 歌舞伎十八番の一つとして市川宗家の御家芸でありますが助六のモデルと言つてゐるのは鎌倉時代に生存したと言はれる 曽我五郎 である。

助六劇は市川宗家が演じるときには 「助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)」と名題(なだい)される。他家が演じる際には市川宗家へ挨拶し、別の名題となる(らしい)

歌舞伎は江戸時代に始まつた文化であるが、助六は江戸つ子にもつとも好まれた演目らしい。

そこで赤坂氏は、助六論を一冊の本にまとめた。それがこの著書である。

いろいろ驚く豆知識!

現代もすし屋では醤油を「紫」と言つてゐる。江戸時代は「助六」と言つたらしい。
これは助六が紫の鉢巻をしてゐることによる。鉢巻の色と似てゐる醤油を洒落として「助六」と言ふやうになつたらしい。(江戸時代の人たちは、感覚が鋭いといふか、粋ぢやありませんか、現代人が「文明」で失つた美意識を持つてゐる)

巻き寿司と揚げ寿司(稲荷)を組み合わせた寿司を「助六寿司」と言ふ。
巻き寿司の海苔を助六の鉢巻に見立て、揚げと巻きを助六の恋人である太夫
(高級遊女)揚巻にかけたらしい。

ううむ。

なんか鋭い観察力と表現力ぢやありませんか
ひたすら感心
江戸時代に浮世絵、文学、音楽の文化が色々と花開いたのがわかりますね。。。
これは現代人のやうに「汚染」されてゐると発想が乏しくて、とても江戸時代の人たちに敵わない・・・・

それから現代で使はれてゐる言葉の数々
粋、伊達、やくざ、通 などなどその語源も江戸時代の文化・生活習慣からだつたのか!!

ここまで調べた赤坂氏も凄いし
江戸時代の人たちの「機転」と「発想」に感心。

人間は、変に「文明」など無いはうが本来の能力を発揮するものかも知れません・・・・・・
その点で、江戸時代の人たちに見る日本人はとても頭がよかつたと思ひます・・・


災厄

2009年11月24日 19時45分46秒 | 小説

永嶋 恵美さんの作品。

永嶋さんは福岡生まれ、広島大学文学部哲学科卒業の経歴をお持ちで、これまでに
サスペンスもの(と思はれる)作品をいくつか発表してをられます。

本作品、「災厄」は未成年が妊婦を狙つて連続殺人を起こした事件を巡り、諸処の人間関係を描くという内容です。

高校生の直彦は一人で薬物を楽しんでゐる際に、妊娠中の女性からとがめられその女性が通学校の関係者と知つて、殺してしまふ。
それを皮切りに、彼は妊婦をターゲットとして殺すやうになつた。

やがて彼は逮捕される・・・

彼の弁護を引き受ける弁護士。
その弁護士の元には、世間からの様々な手紙等が舞い込む。
弁護士の家族に対しての世間の対応は・・・・・・

未成年の事件が実際に起き、弁護士の中でも「突拍子も無い」証言を最高裁で出してくるやうな人がゐる中、この作品は「ただの物語」ではないであらう。

弁護士の家族に対する世間の対応の真実はいささか的外れなところにあつた。
しかしかういふことも無きにしも非ず。

この人のほかの作品も図書館で借りる手配をゐたしました。