読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

チェリー・イングラム 日本の桜を救ったイギリス人

2016年04月30日 17時14分50秒 | 人物伝、評伝 (自伝含)

阿部 菜穂子氏の著書。
阿部氏は1981年国際基督教大学を卒業、毎日新聞社記者を経て2001年8月から
イギリス・ロンドン在住。
2014年春から1年間毎日新聞紙上で「花の文化史」に関するコラムを執筆するなど
近年はエッセイストとしても活動といふ経歴をお持ち。

一言で言へば、当時欧州で起きてゐた「ジャポニズム」に影響され旅の途中で日本
立ち寄りを希望し、そこで日本文化と日本の自然、桜を目にした英国人が桜に没頭する
人生を過ごしたといふ話であるが、これが中々興味深い。

まづ、このコリングウツド・イングラムと言ふ人の生い立ちといふか、家柄である。
一言で言ふと、英国の富裕階級の家の出なので、子供の頃から続けてゐた鳥類の研究
をそのまま継続し、研究者としての道をずつと歩んでいくことが出来るといふ、かなり恵まれた
人である。 

仕事らしい仕事に就いてゐるやうすがなく、祖父と父の起こした事業により多数の不動産を持ち
自身で仕事をして日銭を稼ぐことなく研究に没頭できるといふこの環境だからこそ、出来た桜の
保護活動と研究であらう。

イングラムの日記や手紙からの引用が面白ゐ。 初来日した際の日記
「日本の女性は本当に魅力的だ。髪を美しくまとめあげ、身に着けた派手な着物と帯が色彩的によく
マツチしていてまるで絵みたいだ」「恥しがるでもなく彼女たちは私の機嫌を取りにきた。日本の女性は
人を喜ばせることを極上の喜びとしてゐるかのようだ」

浮世絵の世界がほんたうにあつたのだと実感させてくれる記述。
イングラムは初来日で桜を見るが、当時のジャポニズムのブウムにより日本の桜が欧州に輸出され
始める。 

日本では今や「染井吉野」一色となつてゐる桜だが、実はすごく多様多種なのが桜であり、江戸時代に
武家おかかへの植木職人たちが競つて桜を交配させ、新種の美しい桜を創り上げてゐた。また、
山にある山桜は自然交配し、色々な種類があつた。 それらの多様な桜が日本から欧州に輸出されて
ゐたので、イギリスには多くの桜がある。

その桜を広める役割を果たしてくれたのがコリングウツド・イングラムであり、本書はその活躍を
紹介してゐる本であり、日本人の桜守や植木職人との交流やイングラムが作り名づけた新種の桜
など様々な桜があることを紹介してくれてゐる。

同時に多種多様な桜があつた日本でなぜ染井吉野一色の風潮になつたのか、その結果「桜の風景」
が今と昔では異なつてゐること、「昔の日本の桜の風景」が今イギリスにあることなどもわかり
面白ゐ。

大正15年桜に憧れ、再来日したイングラムの日本の印象が興味深い。
「近代化」「文明化」を目指した日本の風景は「東洋の街並は消滅しその同じ場所に超西洋的な恐ろしく
巨大で醜いビルが建ち並んでいる。
私の目には日本が西洋の文明をあまりにも速く大量に、ひと息に飲み込もうとしているかに見える。
この国は美的感覚を失い猛烈な消化不良を起こしている」 (P44)

日本人が文化や芸術の発展に力を入れていた時代西洋からは野蛮人だと言われた、といふ
外交官の言葉を引用し「この外交官の言う野蛮な時代を懐かしむ。その頃並外れた芸術・園芸文化があり」(P80)
といふ英国人の意見を見ると今政府が行つてゐる「外国人の意見を取入れ、日本を国際化」する事は日本を失くす事では
ないかと思ふ。

そもそも、国際化を声高に叫び繰り返す連中は外国人が何を観に日本に来るのかを無視してゐる。
「外交」を主張し海外に行きまくり東京にブロオド・ウエイを作るなどとホザゐた舛添といふ人間は外国人が
世界文化遺産である歌舞伎の1幕を4等席で観るために1時間以上並んでゐる事実を無視してゐる。

ブロウド・ウエイなどより日本独自の文化継承と発展に税金を使ふべきである。それを観に外国人が来れば
外国人観光客など自然に増えるのである。

イングラムが美しさに感嘆した時代は「島国日本が長期間にわたって平和と繁栄を享受し芸術と伝統美を
追求した徳川時代」(P47)だそうで、政府や舛添が言ふ外国人観光客を増やす為の今後の予定がいかに
見当違いであるかを教えてくれてゐる。西洋文化増やさう政策の奴は要注意だ。
 
この本は確かにいいが、いきなり終章に英国人捕虜問題が出てきて償いの桜を送る話とか日本だけが悪いと
いふ「いつもの風潮」が終盤出てくるのは残念。戦後補償で話がついてゐるのに蒸し返すなら自国の植民地政策
の横暴虐殺差別をまづ謝罪賠償したらと言ひたくなる。元毎日記者と岩波のタッグ怪しんで読んでゐたのだが、
最後の最後に「やはり」といふ気持ちでほんたうに岩波の本は残念だ。(毎日新聞のいい加減さは朝日と殆ど
変らないのは既に判明してゐるが)
 
本書に出てくる聞きなれない桜は、一部がこちらに植えられてゐる。 あまり綺麗に撮れなかつたけど・・・
浜離宮恩賜庭園 http://liebekdino.exblog.jp/13461207/

クロイツァーの肖像 日本の音楽界を育てたピアニスト

2016年04月29日 16時40分54秒 | 人物伝、評伝 (自伝含)

萩谷 由喜子氏の著書。
萩谷氏は音楽ジャーナリスト・評論家。東京都文京区生まれ。日舞、邦楽とピアノを学び
立教大学を卒業後音楽教室を主宰する傍ら、音楽評論を志鳥 栄八郎に師事。
専門研究分野は、女性音楽史、日本のクラシック音楽受容史。

新刊コーナーで見つけ、手に取つてみた。 クロイツァーといふ名前は全く知らなかつたので
あるが、ピアノを聴くのが好きなので表紙の葉巻を咥えたピアノを弾く写真と「日本の音楽界を
育てたピアニスト」といふ但書に気を魅かれて手に取つてみたのである。

口絵に並ぶ写真で「昭和19年6月14日付けのレオニード・クロイツァーの滞在許可証。
『國籍』の欄に『無国籍』と記載されている。1941年12月25日にナチスが発令した
『ライヒ市民法に関する第二命令』は、外国に居住するユダヤ系ドイツ人からドイツ国籍を
問答無用で剥奪した」といふ解説があり、日本に来るまでそして来てからの生活に興味が
湧いた。
さらに口絵をめくると、日本人女性と結婚してゐる。 

どんな人生なのかと読み進めて行くと、ロシアで生まれた方であるとわかつた。
この人は 「ある音楽家の美学的告白」といふ自伝を残してゐて、本書はそこから少し引用をしてゐる。
それによると、「両親は音楽家ではなかつたが高度な審美眼をそなえた音楽愛好家であつたこと、
息子のレオニードを幼いころから、ごく自然に良い音楽に耳を傾けることのできる環境で育てた」(P35)

音楽を聞かせるだけでなくピアノのレツスンも受けさせ、クロイツァー氏はめきめきと上達したらしい。

ロシアで暮らしてゐたが、ロシアのユダヤ人政策がユダヤ人に理解のあったアレクサンドル二世から
アレクサンドル三世に代はるとユダヤ人は居住場所や職業選択の自由をせばめられることとなつた。
クロイツァーはロシアを離れるが、そのうち1917年にロシア革命が勃発する。

本書ではこのロシア革命により日本に逃げてきた「白系ロシア人」についても少し触れてゐる。
白系ロシア人とは「ロシア革命とその後の内戦に際して、赤軍である革命政権を受容できずに
国を出たロシア人をアカに対する白の意味合いから『白系ロシア人』と呼んだ」(P64)人たちのことで
日本にも多くの人達がやつてきた。
白系ロシア人は中でも音楽関係者が多く、数々の日本人ピアニストを育てたといふ記述がされてゐる。

話をクロイツァー氏に戻すと、クロイツァー氏はドイツに渡り、ベルリン国立高等音楽学校の教授を
勤めてゐるが、ナチスの政策で職を追はれることとなる。それまでの間に来日し、演奏会などを
開催し成功を納め、当時の日本の音楽界と親交を持つやうになる。

ここで当時日本で活躍してゐる音楽家や音楽を学んでゐる人たちの紹介や貢献が書かれてゐるのだが
それも興味深い。

大正時代から昭和初期に、ピアノを習つてゐる家系はやはりそれなりの家柄の方々で今姿を消して
しまつたやうに思はれる華族の生活は平民の生活とは違つたものなのだなあ、としみぢみ実感しながら
読んだ。

ナチス政策が進められるドイツを離れて日本に再び来るのであるが、クロイツァー氏の出生である
「ユダヤ人」であることが影響し、他の外国人教授のやうに安定した地位が得られない日々を送る
こととなる。当時日本はドイツと同盟を組んでゐたので、ユダヤ人を安定した職に就けることは災い
を招くこととなるため、雇用しても「いつでも職は終了します」的立場となつた。

戦時中には外国人なので一箇所に収容される生活も送つてゐる。 しかし、クロイツァー氏は戦時中の
ドイツや日本での軟禁生活について「軟禁時代は南京虫に悩まされました」とジョークを飛ばすことは
あつても、不快な体験を話すことはなかつたらしい。

クロイツァー氏はそれからずつと日本に居住し、日本で多くのピアニストを育ててくれるのであるが
その人柄やレツスンのやうすなど、多くの弟子たちの証言が本書で紹介されてゐる。それを読んでゐる
うち、この人の演奏が聴きたくなりCDを探したところ図書館にあつたので聴いた。

あるピアニストに雰囲気が似てゐると思つたら、そのピアニストはクロイツァー氏に従事してた事がわかつた。
本書P206-208に「クロイツァーと批評」とあり1930年代からヨーロッパでは「新即物主義」と言つて
ひたすら楽譜に忠実である演奏を重視し、過度な表情づけを嫌ふ傾向が強まりこの考へが日本に
伝はつてくるとクロイツァー氏の演奏は「テンポが遅すぎる」「過度にロマン主義敵である」と批判される
こととなつてしまつた。

現在日本や世界で活躍してゐるこのピアニストも、同ぢ批判をされてゐる。
音楽や絵画など個人の好みが影響するものなので他人の批判は気にしなくてよいと思ふ。
私はクロイツァー氏の演奏はその雰囲気が好きだし、この人に従事したあるピアニストの演奏も好きだ。

クロイツァー氏はロシアに生まれロシア革命の直前に露からドイツへ移住、ナチスのユダヤ人政策により
国を追はれ日本で過ごすこととなつたが、この人の文化的遺産が今や殆ど日本にしかない。
ナチスの政策で独での功績が全部失くされたからだ。
本質を見ない政策は世界の為になる遺産を潰してしまふ見本を見た。

クロイツァー氏の人柄といふか、夫人と生徒に対する考へ方はこの言葉に表れてゐるのではないか?

「お料理が上手だ。縫物が好きだ。掃除がゆきとどく。子供のために日曜も一日働く。私はただそれだけの
世話女房を望まない。女の人にはもつと知性(インテリジェンス)がなければいけない。インテリジェンスが
あれば、女の人が自ら生活の主になつてすべてを上手に処理していくことができるようになる。私はトヨコ
(夫人)にいつもまず自分が音楽家であることを自覚しなさい、と言つている」(P271)

クロイツァー氏の死後37年間豊子夫人は音楽家として演奏活動を続けてゐる。 クロイツァー氏が亡くなられた
時には大層な悲しみとの証言がいくつもあるが、それを乗り越えて演奏活動を続けて行つたのは
クロイツァー氏の気持ちに添ふことをいつも考へられてゐたのかな、と思ふ。


ストーカー加害者 私から、逃げてください

2016年04月17日 10時31分32秒 | 社会・報道・警察・教育

田淵 俊彦氏、NNNドキュメント取材班の著書。

田淵氏は1964年生まれ、ジャーナリスト、映像作家、演出家、プロデューサー。慶應大学法学部法律学科卒業後、
(株)テレビ東京に入社。20年以上に亘り主に海外フィールドにしたドキュメンタリーを手掛け、訪れた国は
90か国以上を超える。
制作会社 プロテックスのディレクターとしてNNNドキュメントの取材を担当。

NNNドキュメントは1970年1月4日にスタート。日本テレビとネットワーク各局29社が制作に参加し、46年間
続く報道ドキュメンタリー番組。

ストーカー被害者のことはよく取り上げられるが、加害者のことは経歴が放送されたりするだけで殆ど
聞かない。加害者についてどのような事を書いているのか興味が沸いたので立ち読みしてみた。

ストーカー加害者3人に実際に取材し、カウンセリングの場にも立ち会い、子供の教育について取材している。

加害者の3者のタイプがここで取材されており、
執着型  わかっているけどやめられない
求愛型  わかっていないのでやめられない
一方型  わかっているけどやめられない

意外だったのは、ストーカー加害者も「怖い」と感じるらしく、取材を拒否した人達がいるということだ。
自分が怖いと思うのなら相手の恐怖も推察しろと思うのだが、どうもその気持ちがないからストーカーを
するらしい、というのが読んだ感想だった。

わかっていない人が出てくるが、これが一番話が通じないようなので困る。わかっているのにやめられない人も
困るのかもしれないが、話が取敢えずは通じている。でも止めないのでこちらのほうが困るのか?

最後のほうに高校生の教育場面が出てくるが、高校生自身が「もう遅い。中学で聞きたかった」という感想を
抱いているのも怖い。

ツイッターなど見ていると、高校生らしいアカウントもあるが自分のことを書き過ぎていてこちらが怖くなる
人たちがいる。どこの誰がみるようなわからないネットで顔と名前をだすのはいかがなものか。
芸能人はそれが仕事で、何か起きれば事務所の人間が対応するだろう。しかし一個人の場合、芸能事務所の
ようなツテもないし、知識もない。芸能人と同様に出すのは危険だと思う。

最初に出てくるストーカー加害者の言葉に注目したい。

「ストーカーから逃げている人が、どうしてフェイスブックやっているんですか。どうして玄関や勝手戸が開いて
いるんですか。そんなセキュリティが甘いこと。フェイスブックとかSNSを逃げてる人がやっちゃいけないじゃない
ですか。それで『逃げてる』なんてよく言うな、っていうふうに思います。だいたい被害者の人ってどっかみんな
LINEがどうたらこうたらとか。私だって”元加害者”なのに、そこを気を付けてネット上に名前なんか、さらさないですよ」

人のせいにしている勝手さを感じなくもないが、自身で気を付けることも必要だと思う。

ここに出てくる人は自分の周りにはいない心理の持ち主ばかりだったので勉強になった。

 


ラーメンの語られざる歴史 世界的なラーメンブームは日本の政治危機から生まれた

2016年04月09日 16時36分01秒 | 飲食

ジョージ・ソルト氏の著書。
ソルト氏はカリフォルニア大学サンディエゴ校にて博士課程修了、現在はニューヨーク大学にて
歴史学の准教授。専門は東アジアで、現代日本や政治経済、食物史などという経歴をお持ちの方。

この本が、出だしから中々面白い。一言でまとめると、米国(GHQ)の日本の戦後占領政策の一環として
日本人の主食である米を否定し、米国の小麦を売付る政策を進めるために小麦を日本に輸出したことから
日本人はパンを食べることよりも、小麦を茹でて食べる麺に加工することを選らんだ結果、麺が食べだされ、
ラーメンがいかに日本食になったかという分析。

外国人だからこそラーメンをこう分析するんだなと視点の違いに感心し、そしてラーメンに焦点を充てる部分が
映画や食生活を取り上げた記事を引用しての日本人の生活全体に焦点をあてているのが、面白い。

ふーん、こんな見方があったのね。。。。という感じ。逆の事を日本人がやるとしたら米国のホットドッグの歴史を
遡るべく、ホットドックがいかにして食べられるようになったのか、ホットドックにより人々の生活がどう変わったのか
を分析しているような感じである。

それにしても、終戦後の米の自国の食糧を日本市場に売込む政策が日本の農業を衰退させた状況がよくわかる。
今米で和食が食べられ成人病が減る一方、日本が欧米食で成人病が増えている事等考えると、日本人は和食中心の食生活に
戻るべきだと思う。

「終戦後の食糧難に助けてあげた米国」という洗脳とでも「それを言えと言わない米国」のやり方でやって「米を食べるとバカになる」
として小麦を輸入しパンを給食等で食べさせ米国による日本の食市場占領に手を貸した官僚や議員の姿が垣間見え、
昔から始末の悪い反日が政治に関っていたんだなと実感する。

第三章インスタントラーメンの食され方について1960年代当時の記事が紹介されてるが、これがまたなかなか面白い。

主婦が時短の為に食卓に出す事につき、その食事を否定する男性のライターが書く記事の内容が紹介されているが
フェミが見たら差別だと発狂しそうな勢いの事が書いてある。現在ではこのような記事はとても出せないか、出したら
たちまち炎上であらう。

しかもメーカーが「インスタントには栄養が添加されていて、手軽に必要な栄養素を取る事ができます」と謳い文句に
していることに対し上記の男性は「時間をかけて栄養バランスを考えた食事を作るのが主婦の仕事」とし「インスタント
ラーメンの正しい食べ方は単身で仕事の時間が不規則な男性だ、手軽に栄養も取れるのだし」というかなり矛盾した
ながれがそこで見られるのがまた面白い。

残念な点は歴史に関する所々の記述に誤りがある。「日本名であっても植民地時代の圧力で改名した」P90等。
然し昔から朝鮮人は犯罪してたとよくわかる。

過去に於いてよく、日本人は他国のものをどんどん取り込んで変えてしまうという「売れるものに改良する」事を
外国が「オリジナルがないくせに」等々日本を批判したが、ラーメンというある意味支那から来たものがここまで
あれこれ色々な種類が出て日本の文化として世界に存在しているさまは、過去の外国の批判を形にしたような
ものであろう。

ある意味、日本人の特徴の凄さが凝縮されたものがラーメンなのかもしれない。