多和田 葉子さんのエッセイ。
多和田さんは、1982年よりドイツ・ハンブルクに在住されドイツ語でのご著書もあり、ドイツで自作を演劇にしたりドイツ語での著作でドイツで受賞されたりとご活躍されてをります。
多和田さんは、独特の感性をお持ちで日本語著作にもその感性が生かされた「独自の世界」が繰り広げられた作品が多いです。
それと同時に、ご旅行の経験も多々おありのやうで、短いながら昔ヨーロッパ何カ国かを旅行した自分と、同等の感覚といふか感じ方をお持ちと思はれるエッセイや作品もあり、なんか親しみを感じさせてくださる一面もあります。
このエッセイで同感したのは、第一章の「遊園地は嘘つきの天国」のそれぞれの文章ですね・・・・
多和田さんはドイツの「シャミッソー賞」を受賞されたらしく、その賞を紹介されてゐるのだが、これは、「ドイツ語が母国語でない人がドイツ語で小説や詩を書いてゐる小説家や詩人に与へられる賞」なのださうです。
かういふ賞がある(この賞を発想する)ドイツ人といふのは、だういふ人たちなのか考へ方とドイツ人の性質を鑑みると、正反対のやうで興味深いです。フランス人がこの賞を考へるのならわかるのですけどね・・・・ (ちなみにシャミッソーといふのは、仏蘭西革命でフランスからドイツへ移住した人の名前から取つたさうです)
自分の場合を考へても同じですが、同じ内容を日本語で書く場合と英語やドイツ語で書く場合には全然表現が違ひます。
表現が違ふのは、「言い回し」など言語に基づくものではなく「だう説明していくか」と考へていくことがあるか無いかだと思ひます。
例へば
日本にしかない「炬燵」にあたる文章を書くとき、日本語なら「炬燵に入り」で終わつてしまふ。
しかし、ドイツ語や英語ではまづ「炬燵」が何なのかわかるやうに書いていかないと、ドイツ人や英語圏の人には伝わりません。
といふわけで、44ページ記載の「ドイツ語だと書きながらじつくり物を考へることができる」といふのはよくわかります。
「ふと」と「思わず」、「ゆずる物腰ものほしげ」なども、共感しました。
作家といふ職業柄、多和田さんは言葉に敏感なのだなあと感じました。
個人の感性に頼るところですが、「何かに対する感性」は大事だと思ひます。その対象が何であれ・・・
多和田さんは、1982年よりドイツ・ハンブルクに在住されドイツ語でのご著書もあり、ドイツで自作を演劇にしたりドイツ語での著作でドイツで受賞されたりとご活躍されてをります。
多和田さんは、独特の感性をお持ちで日本語著作にもその感性が生かされた「独自の世界」が繰り広げられた作品が多いです。
それと同時に、ご旅行の経験も多々おありのやうで、短いながら昔ヨーロッパ何カ国かを旅行した自分と、同等の感覚といふか感じ方をお持ちと思はれるエッセイや作品もあり、なんか親しみを感じさせてくださる一面もあります。
このエッセイで同感したのは、第一章の「遊園地は嘘つきの天国」のそれぞれの文章ですね・・・・
多和田さんはドイツの「シャミッソー賞」を受賞されたらしく、その賞を紹介されてゐるのだが、これは、「ドイツ語が母国語でない人がドイツ語で小説や詩を書いてゐる小説家や詩人に与へられる賞」なのださうです。
かういふ賞がある(この賞を発想する)ドイツ人といふのは、だういふ人たちなのか考へ方とドイツ人の性質を鑑みると、正反対のやうで興味深いです。フランス人がこの賞を考へるのならわかるのですけどね・・・・ (ちなみにシャミッソーといふのは、仏蘭西革命でフランスからドイツへ移住した人の名前から取つたさうです)
自分の場合を考へても同じですが、同じ内容を日本語で書く場合と英語やドイツ語で書く場合には全然表現が違ひます。
表現が違ふのは、「言い回し」など言語に基づくものではなく「だう説明していくか」と考へていくことがあるか無いかだと思ひます。
例へば
日本にしかない「炬燵」にあたる文章を書くとき、日本語なら「炬燵に入り」で終わつてしまふ。
しかし、ドイツ語や英語ではまづ「炬燵」が何なのかわかるやうに書いていかないと、ドイツ人や英語圏の人には伝わりません。
といふわけで、44ページ記載の「ドイツ語だと書きながらじつくり物を考へることができる」といふのはよくわかります。
「ふと」と「思わず」、「ゆずる物腰ものほしげ」なども、共感しました。
作家といふ職業柄、多和田さんは言葉に敏感なのだなあと感じました。
個人の感性に頼るところですが、「何かに対する感性」は大事だと思ひます。その対象が何であれ・・・