ゲバラ本人がのちに監修したのであらう、前書きのやうな「以下の事をご了承ください」といふ断り書きが一番最初にある。
1951年から52年といふ半年以上にわたり、2人はアルゼンチンからチリ・ペルー・コロンビア等南米を旅行していくのである。(面白いのは、南米の人たちにとつては「ラテンアメリカ」が「アメリカ大陸」であつて、北米はアメリカと思つてゐないことだ。なので、日記には「アメリカ」と言ふ記述が出てくるがこれは、ラテンアメリカのことで北米のことではないのである。北米はヤンキーとかその他の言葉で表記されてゐる)
この日記をゲバラが「チェ・ゲバラ」と呼ばれるやうになつてから書いた著書を読んだあとに読むと、「若さと未熟さ」が非常に感ぢられるが(23歳と30歳過ぎての著作なので感ぢられなければまた問題なのだが)、この旅を通じてゲバラが見たものが後のゲバラ本人を作る土台になつたのはよくわかる。
ゲバラは当時医学生で、医師免許をとるために帰国しその後再び旅に出るのであるが、医学を学んでゐた人ならではの地元の人たちの観察の記述もある。医学に関はらづ、ゲバラといふ人は観察力の鋭い人だと思ふ。
ゲバラは二度目の南米の旅に出た際の日記か母親への手紙で「アルベルトが一緒でないことを残念に思ふ」心情を書いてゐるが、この本を読む限りアルベルトとゲバラは価値観が同ぢで一緒に行動するのに一心同体のやうな気持ちで行動してゐたのであらうと思はれる。アルベルトの性格に関する記述は出てきても、価値観に関する記述は出てこないからである。これは、性格の違いは認識してゐても根底が一緒なのでわざわざ記述することがなかつたからだと思はれる。
しかし
ゲバラの家は裕福であつたのに、この人本人はほとんどお金に執着が無く、お金がなくとも家にせびることもなく無ければ無いで過ごすといふ、「お坊ちゃんの家に生まれたのに変なところお坊ちゃんではない」と言ふ、他人からみたら「あんた家が金あるんだから、こんな旅行の仕方をしなくていひだらう」と思ふ行動をしてゐる。そしてこれは、革命戦争に参加して活動するゲバラに幾度と無く繰り返された質問である。
日記の一番最後に「附記」として書かれてゐること、これが後の「チェ・ゲバラ」の登場を本人自らが予言してゐるやうだ・・・・