アンドリュー・キンブレル氏の著書。
キンブレル氏は弁護士、市民運動家、執筆者としておよそ4世紀半にわたり活躍中であり、1997年には食品安全センター(本拠:ワシントンD.C)を創設、事務局長を務めてゐる。環境保護、持続可能な農業のあり方を訴えてゐる。おもな著書に" Your Right to Know" (邦題:それでも遺伝子組み換え食品を食べますか)がある。
この本の訳者は福岡伸一氏といふ、生物学者、京都大学卒、ハーバード大学研究員、京都大学助教授などを経て青山学院大学教授である。
福岡氏が「訳者あとがき」(p432-445)でこの本との出会い、翻訳に至つた経緯、本書に関する福岡氏の考えを書かれてゐる。本書に関する考えは全く同感で、福岡氏が本書の翻訳を引き受けて発刊にこぎつけてくださつたことに深く感謝したい。
読んでゐる最中から、慄然とすることが何度もあつた。
医学の発達、それによる治療法の増加、代理母の問題、臓器移植手術などのおにゅーすをテレビなどでちらちら見てゐたが、医学の発達といふか科学の発達がここまで来てゐるとは思ひもせづにゐたのである。 「研究対象」がとてつもなく拡がり、人間の要素を持つもの、生物の要素をもつものならなんでも対象になり(研究=実験となる対象)、研究者の思考がここまで来てゐることそして研究の「成果」をおぞましいとも思はづに「利益になる」として「販売」する方法を模索し、実践していく製薬会社・・・・
正直、おぞましい
しかし、この事実を「アメリカで起こつてゐること」として他人事と捉えるのは誤りである。何故なら、日本で臓器移植が出来ない人たちが臓器移植手術を求めて渡米し、代理母を求めて渡米してゐるからである。
今この瞬間も、病院で医師に「日本ではできないが、アメリカでは・・・・・といふことが認められてをり」と説明を受け、渡米を考えたり決意してゐる人たちがゐるかもしれないのである。また、それは明日の自分や自分の身内に起こることかもしれないのである。
それを考えると、日本はこの本に書かれてゐる「発展してきたアメリカの医療」の恩恵を大いに受けてをり、安易に批判できるものなのか・・・と考えるのである。
本書は「人間の何が『部品』として売られてきたか」を時代を遡つて検証する。
最初は血液である。「売血」といふ行為が貧しい人たちの間で行なはれ、健康を損なつても血を売るしかない人たちの行為が最初の「人間部品」の産業であつた。
血の次には臓器である。第参世界では腎臓を売る人たちが多く、その問題が取り上げられてゐる。
臓器の次は、胎児である。胎児は人間になりきる前の段階なので、胎児の臓器といふのは移植した際に拒絶反応が起きないのださうである。それが発見されてから、米国で中絶を行なふ病院に通ふ業者が表れ、胎児の臓器を販売するやうになつてきた・・・・また、胎児が死んでしまふと臓器の「新鮮さ」が落ちるため、「生きたまま」中絶する方法が編み出され実践されてゐるさうである・・・・ (日本でも起きてゐるかもしれない)
臓器に関しては胎児だけでなく、脳死した人の臓器に関するおぞましいこともある。胎児を生きたまま取り出すのと同様、「死体」から臓器を取り出すより「新鮮」な臓器を得るために「人体」を「臓器保管庫」として扱ふ発想である。
ここまで来ると、もふ、その発想にただ驚く。確かに「死ぬ人」よりは「生きる人」「生きる可能性のある人」を救うのが医療であらうがここまでやつてよひのだらうか? 不謹慎だが、脳死した人の身体を「臓器保管庫」として「生かして」をく場合の維持費などだうなるのか?全部移植される患者が手術費用として払ふのか?
生きるのも大変である。
さらに驚いたのは代理母を越えた「不妊治療」の現状である。
そして、「人間ッて欲張りなんだな」と思つたのは、「遺伝子操作」のところである。生まれてくる子供の遺伝子検査を行なひ、病気がある可能性が高いと告知し中絶するかだうかの判断をゆだねるのは聞いたことがあつた。しかし、現在は遺伝子操作により親と似つかない子供を作ることが可能なところまで来てゐるやうである。成長過程の子供に「背が高くなる薬」を与え続けてゐる家庭があるのはアメリカでは普通のことになつてゐるやうだ。しかし、生まれる前に「背が高くなる」やうに遺伝子を操作すれば、子供は自動的に背が高くなる・・・らしい。
遺伝子操作に関する薬や操作を促進する製薬会社らは、いひことしか言はない。しかし、弊害が次々に現れてゐる。それらについても本書では詳細に書かれてゐる。
また「生命に特許はあるか」といふアメリカで起きた裁判例も検証されてゐる。
クローンに関しても記述がある。「自分のコピイ」を作つてをけば事故や病気の際に移植治療が必要であつたら、即座に「問題のない臓器提供者」がゐる、といふわけである・・・・
クローンッてのは、何なの? 人間の形をした「生ける人形」なのか、それとも自分とそつくりの生命体なのか・・・・・・ 生命体とすると、それまでその生命体はどこに「保管」されてゐるべきなのか? 臓器提供の出番がくるまで檻の中にゐるのだらうか? そんな不健康な生活をしてゐる臓器は効果があるのか、とまで言ひすぎだが、臓器提供としか捉えないのは倫理観として全く欠落した発想である。動物のクローンも、なぜ作る必要があるのかわからない。
遺伝子研究には必づと言つていひほど「優生学」が出てくる。遺伝子操作が可能なら、「優生」な生物を作らうといふことなのであるが・・・ 「優生」と「劣生」の基準が何なのか?個人的には区分わけをする発想が十分「劣性」に思へるが、優生学を推奨する輩ほど差別主義者だと思ふ。ちなみに、ナチスが優生学他をあの時代に行なつたがそれはアメリカの優生学の流れを汲んだものださうだ。
訳者あとがきで、福岡氏も書いてゐるが本書のすごいところは「人間が売血から始まつて自身の部品を売る」やうになつた背景と時代の流れ、「自由市場」市場化により「売るはづのものではなかつたものを売るやうになつた」ところにあると深く考察してゐることである。 ここまで考えたことはなかつたので「成程」とうなづくところがあつた。
キンブレル氏は本書の最後で「部品」と化しつつある人間の売買をやめるにはだうすればよひかをまとめてゐる。 氏が主張するやうに、「臓器提供」「献血」などは善意でするもので販売するものではない。また「買ふ」人の心の問題でもあるだらう・・・