松藤 竹二郎氏の編集による、三島 由紀夫と楯の会の憲法改正論議の書。巻末に資料として三島氏の書簡、遺書等がある。
三島 由紀夫と楯の会、聞いたことはあつたが実際どのやうなことを目的とした団体でどんな活動をしてゐたのか皆無であつた。
三島 由紀夫は、楯の会の会員4名と自衛隊市ヶ谷駐屯地へと向かひ、陸相を監禁、バルコニーにて演説を行なつた後、割腹自殺を遂げた。一名の楯の会の会員、森田氏も三島の介錯を行なつた後に割腹した。
この事実が世にクロオズ・アツプされ、楯の会のイメエジといふものは、「軍国主義の復活」とか「極右」などマイナスのイメエジが大きいやうに思はれる。
本書では楯の会が組織してゐた、「憲法研究会」の下に現行憲法の問題点(と楯の会が認識する事)および憲法改正案を討議したやうすが公開されてゐる。
現在でも現行憲法の争点となつてゐるのは、第九条と自衛隊であるが楯の会はこの条文だけでなく、天皇に関する規定も討議してゐる。
といふのは、大日本国憲法は天皇の存在と権限を絶対的なものとして規定し、これを利用(といふべきだらうか)した軍部が権力を握つたといふ歴史を鑑み、その失敗を繰り返さないやう、しかし天皇の位置を現行憲法とは違ふものとして規定しやうと討議をしていくやうすが公開されてをり、中々興味深い。
この討議がなされてゐた時代は、昭和43年から44年である。楯の会は「天皇」の存在が国民の間で薄れてゐるやうな時代と認識してゐたやうである。
「天皇」の存在といふのは、今までずつと忘れ去られてきたやうに感ぢてゐたが、突如として天皇の存在を思ひ起こさせまた、一人一人の中の天皇の存在がどんなものだつたのかを認識させるやうな事が最近起きた。 震災により、天皇陛下がメツセエジを出したり、避難所を訪問したり、御用邸のお風呂を使用させてくれたりといふことがあつた。それらのニュースを見聞きし、天皇の姿を拝謁したときの国民一人一人の気持ちがどんなものなのかは、きつと避難所で陛下ご夫妻を迎へた人たちと同ぢ感情をテレビを観た人が抱いたのではないか・・・・・・ そんな気がしてゐる。
その感情を踏まへて楯の会の「天皇に関する規定」の討議を読んでいくと、今までとは違つた気持ちで天皇の規定に関して考えてゐた・・・・・・・ 現行憲法は神道を無視した、非神道民族が作つたものなので、神道に沿つた大日本国憲法までの天皇の行為がなくなつてゐるとのことで、これは違和感を覚えた。同時に、「国」として重要なことをきちんと主張しなかつた当時の政権(吉田茂?)はおかしい。
主張すべきことはきちんと主張すべきであつた。
第一章は三島 由紀夫による(と思はれる)「新憲法に於ける<日本>の欠落」と題された主張であるが、共感する部分が多い。 極東裁判で「文明が裁く」といふやうな思想を前提に裁判を行なつた連合国(の一員)による、現行憲法は楯の会の討議を読んでいくと、「非文明国に憲法を教えてやる」的な発想のもとに条文を変えたのではないかと思はれるやうな部分があるんだと思つた。
テレビで、憲法創案したアメリカの担当者を出演させて現行憲法はかうやつて出来た、と紹介する番組を観たが、楯の会の討議を読みながら当該番組を思ひだすと、マスゴミは日本国の「国」と言ふものを踏まえた上での憲法討議は毛頭考えに無く、ただ手放しで現行憲法は素晴らしいと思はせるやうな構成にしてゐるのかと思はざるをえない。(いつもの結論、マスゴミはどこまで行つても害だ)
現在、領海侵犯行為や北方領土不法占拠の問題などが起きてきたがすべて「憲法9条」により自国の領土も積極的に守れない状況となつてゐる。
いつもいつも「反対」「憲法擁護」「護憲」を唱えながら、防衛に関して現実的に何も提起しない共産社民その他の団体(政党といふレベルではないだらう)は、問題が起きてゐる現実的な部分から、自分たちのしてゐることが間違つてゐると素直に認めるべきである。 今回の震災で自衛隊が物凄く活躍してゐる。 災害派遣すら「違憲」とホザゐてゐた集団は、もふ少しまぢめに物事を考えるべきである。 (災害派遣と防衛とは話が違ふが、自衛隊そのものの位置づけをもふ一度考え直すべきでは?)
この人たちの矛盾に関しては三島氏が本書で指摘してゐるので、嬉しい。