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反「人権」宣言

2012年05月29日 16時08分41秒 | 社会・報道・警察・教育

八木 秀次氏の著書。

過激と思へる書名だが、一読の価値がある、といふよりも必読すべきであらう。

最近、やたらに 「人権人権」と言ふ言葉を耳目する。 いかにも聞こへのいい言葉であるが、反面これを乱用してゐると思はれる人たちもゐる。

ここに、ツイツタアで見た小学生の秀逸な絵がある。まさに、その「乱用」してゐる人たちの本質を突いてゐる。この絵をみた教師はこの生徒を罵倒といふかすごい勢いで叱つたらしいが、なぜ叱るのであらう?

それはまさに、本質を「洗脳しやうとしてゐたはずの子供に暴かれた」からであらう。人権などと喚く人間の本質なんてそんなものだ。

今、大変危険で法律の名称と中身が全く違ふ法案の国会提出がささやかれてゐる。今までも散々廃案になつてきたその法案は、廃案になるたびに名称が変はつて復活してくる。

人権擁護法案、人権救済設置機関法案 ・・・ このいかにも「人のため」になりさうな名称の法案の中身は、実は人権弾圧と人権侵害の内容である。しかも、外国人が日本人を弾圧・侵害する内容なのである。  是非この法案名で検索し、その中身とそれを解説してゐるブログがいくつかあるので一読をお願ひしたい。

生活保護不正受給として会見した芸人の所属事務所が、「プライバシイの侵害で重大な人権侵害」と不正の追及を非難するやうな声明文を出したが、この件が「人権」と言ふ言葉を振り回す人たちの本質をよくあらわしたのではあるまいか?

不正をしてゐないのなら、きちんと出てきて説明すればいいのにいきなり「人権侵害」と言ふ言葉を持ち出して追及者を悪に仕立て、相手を戸惑はせ黙らせると言ふ手段に「人権」と言ふ言葉を利用したのだな、といふ印象を持つたのはあたくしだけではあるまい。

多くのツイツタアが「この件で人権擁護法案(人権救済機関設置法案)の危険性がわかつた。この法案が通つたら不正行為の追及も出来なくなる」とつぶやいてゐたが、同感である。

また、その目的でこの法案を通そうとしてゐる輩がゐるのだといふことを日本人は認識し、やたらに「人権」といふ言葉にへりくだらないやうにすべきである。

本書は、その助けをしてくれる良書である。

「はじめに」で八木氏は次のやうに述べる。 

「日本人の多くは、『人権』という言葉を極めて好意的に理解している。たとえば、『山川草木悉有仏性』『一寸の虫にも五分の魂』という表現に象徴されるような、『生きとし生けるものに対する深い慈愛の念』くらいに理解している。日本人の宗教観に基づいた生命対する慈しみの情を『人権』に重ね合わせようとしているのである。また天皇が国民のことを『大御宝』と呼び、国民相互にも一人一人を大切にしてきた歴史を反映して、その思いを『人権』という言葉の中に読み取ろうとしている」 (P11-12)

「しかし、それは”麗しい誤解”と言うべきものである。『人権』は本来、そのような日本人的感覚とは全く異質のものなのである。何より我々は『人権』がもともと西洋出自の翻訳語であることに改めて思いを致す必要がある」 (P12)

 「つまり『人権』という言葉が示しているのは、いかなる共同体にも属さず、歴史も文化も持たない、また宗教も持たない、全くのアトム(原子)としての『個人』という人間観、人間像なのである。(中略)その意味では『生きとし生けるものに対する深い慈愛』という日本的な『人権』理解は、まったくもって”麗しい誤解”というほかはない。」 (P13)

「私がこれから明らかにしたいのは『人権』という概念のイデオロギー性についてである。
 『人権』という言葉が本来持つているイデオロギー性が理解されれば、多くの人々が率直なところ『人権』に覚えている違和感も根拠のあることが分かってくるだらう」(P13)

として、第一部で「人間の権利としての『人権』」の概念が誕生するまでの歴史をたどり第二部で「八木氏が『人権』に違和感を覚えた具体的な問題」について詳細な検討を加へてゐる。「具体的な問題」とは「子供の人権」に振り回される教育現場、少年法性、「家族と人権」、「女性の人権」である。

第二部だけ読んでも、自分が体験していることが多いのですごく勉強になる。「人権」という言葉を「援用(と八木氏は言ふが、実際「乱用」だと思ふ)」してよくまあ、こんなこぢつけといふかむちやくちやを論述するものだと思ふ。

個人的に違和感を最も感じるのは「男女平等」を謳う「男女共同参画社会」とやらである。いわゆる「ジェンダー・フリー」のことである。
「ジェンダー・フリー」とは「男らしさ」「女らしさ」、そこから派生した「父性」「母性」を否定する(フリーにする)ことであり、「男女の区別自体を『差別』であると否定し、男女の区別をする意識、男女の区別に基づいたあらゆる制度・慣行を敵視して、その解消・解体なくしては『真の男女平等』はできないとする発想」(P183)らしいのだが。

なぜそんなことをする必要があるのか不思議である。 そして、わかりやすい例として千葉市の男女共同参画課が発行する広報誌「ハーモニーちば」(平成12年8月号)に「カタツムリは雌雄同体。”結婚”すると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちもよくわかるなんて、ちょっぴりうらやましいような・・・」を紹介している。(P183)

うらやましくもなんともない。カタツムリはさういふ生物なのである。なんで人間とかたつむりを比べるのであらう? そもそも、かたつむりは双方の気持ちんかないと思ふぞ。ただ、生物学的に生殖器が一緒なだけで、双方の役割を個体で行ふだけの話である。
人間は雄雌別個の生き物であり、それぞれの特徴がある生き物であり生殖器は各個体に別に存在してをり、各個体が所有する機能を使用して繁殖する生物なのである。わざわざ雌雄同体の生き物と比べる必要はない。

ここからして、異常である。

このカタツムリのねらいは、八木氏曰く「従来の男女の性別意識を取り払い、世の中を改変してしまおうという発想」らしい。

すごいな、これ。 それでゐてこの人たちは「個人」を尊重しやうとか言ひだすが、そもそも「男女の区別」を否定してゐることから「個人」を否定してゐるのではないの? カタツムリといふ、人間と全く異なる生物を引き合いにだし、人間を否定してカタツムリのやうに男女は一緒になりたいですね、と言ふ発想は、自分個人の受ける印象として「個人を尊重するどころか個人の否定」に思へる。この発想で行くと、生物学的に生じる男女の肉体的な差異にだう対応していくのであらう?

そして「家族否定」につながり、夫婦別姓だのにつながつて行く。 この背景はマルクス・エンゲルスの主張に基づくのだが、それを実践してすでに「失敗して政策を見直し、家族の強化策を取つた」ソ連の例がP167-181に書いてある。

とどのつまり、失敗例があるのに、しかも自分たちが大好きな社会主義の失敗例があるのに、現実を見ずに理想(妄想?)を述べ「人権」と言ふ体のいい言葉で日本を破壊に導いてゐる・・・と思へてならない。

日本の教育現場でのこの思想の実例がP187-192に書いてあるが、はつきり言つて余計なお世話である。

「男の子は手芸クラブに入らないほうがいいと思う」「重いものを運ぶ仕事は男の子に任せたほうがいいと思う」「裁縫や料理は女の子に向いていると思う」等々、「はい」「いいえ」に〇をつけ「固定的な性別役割意識」にとらわれた「コダワリ度」として否定させ、生活の具体的なレベルで性差の意識を解消させようと誘導してゐるらしい。 

あの、これ、何をだう思はうと人の勝手ですよね?とどのつまり、社会主義者が大好きな「個人」の勝手ですよ。なんでそんなことをいちいち「是正」させやうとするの? ここでも「個人の尊重」をするのではなく、「自分たちの物差に合はない個人の否定」だと思ふ。 

基本的に社会共産主義は、建前をよくしていかに「個人を統一させるか」に終始してゐるやうだ。だから、独裁者が出てくると国民を弾圧したり情報を閉鎖したりして、「自分の思ひどおり」にさせやうとするのであらう。 

日本国憲法の改正案として自民党が出した案をざッとみると。

物すごく、違和感を感じる。社会主義丸出しの条文があつたりする。 それでなくても、日本国憲法はスターリン憲法やらフランス人権宣言、アメリカ人権宣言等社会主義の色が濃い書物を引用して作成したものである。

日本人は、教科書と学校、それに関連する日教組の団体から派生する市町村のパンフレツトや広報誌、マスゴミの言ふことを全面的に疑ひ、破棄し「反論」を読むべきだ。 また、相手の言ふことや書いてあることをなんでも鵜呑みにしないで、「反対の意見」を探してみるべきだ。

八木氏が指摘してくれてゐるやうに、「日本人の”麗しい誤解”」のとおりの意味なのか自分でよく精査し考へるべきだ。  

そのためには「社会主義の思想がどんなものか」を知つてをく必要がある。社会主義の思想、は耳触りの良い言葉ばかりが並んでゐる。しかしその裏に隠れたものがだういふものか。フランス人権宣言の後に実際どんな政治が行なはれてゐたのか、歴史があるのだから知つてをくべきだ。

わかりやすいのは、テレビや新聞が連呼する耳触りのいいキイワアド、これに要注意であらう。



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