読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

偽善の医療

2010年01月28日 22時45分57秒 | 医療 (医療小説含)

里見 清一氏の著書。
里見氏は呼吸器内科学・臨床腫瘍学専門の臨床医師であられます。

本書は、マスコミにより「患者にとつて良いと思はれるもの」を「偽善」として「反論」してゐる(と思ふ)。

「何が偽善」なのかと見ると
1.患者様
2.セカンドオピニオン
3.有力者の紹介
4.安楽死に殺人罪適用
5.末期医療
6.ホスピス
7.最期
8.「病院ランキング」
9.「告知」
10.「++すると癌になる」
11.癌闘病記
12.インフォームド・コンセント
13.癌治療
14.癌の最先端治療
15.贈り物(謝礼) - これは、偽善とは少し違ふかもと思つた

拝読してゐる時に再三思つたのは、
「この本の主張を分からない人はわからないだらうな」といふことであるのと同時に、
「うるせーなー、人間いつかは死ぬんだよ!」といふことである。

先に感想を投稿した、「医療の限界」でも「人間は生まれたときから死ぬことが決まつてゐる」のを忘れた人たちの問題を書いてゐた。この本も同じであり、あたくしはこれらの本の内容に同意見である。

こんなことを医療の素人がホザゐて、怒られるかもしれないが 「医療は死ぬまでの気休め手段」と割り切つたはうがよいのではないだらうか?と思ふ。

それはさておき、本書で知らなかつたことを学んだ。
セカンドオピニオン、ホスピス、インフォームド・コンセントについては医師の見解と正しい意味がわかり、為になつた。

また、「五年生存率」「治癒率、術後生存率 何%」等の数字のからくりもわかつた。
マスコミの報道の仕方には、多々不満と疑問があるりゐべであるがここでもマスコミの報道姿勢に疑問をもつた。だいたい、世界中の人が同体質・同血液型・同遺伝子等々すべて同じでもないのに同病名といふだけで他人のデエタを公開して当て嵌めやうとする姿勢が問題なのである。
マスコミはどこまで無責任なのであらう?

このマスコミの無責任な報道姿勢は、安楽死、末期医療、最期について記述した章に特に、
そしてランキング、闘病記、「++は良い / 有害である」にも表はれてゐる。

マスコミだけの責任ではないな、とも思ふ。

マスコミの影響は大きいが、最終的に医師の説明がだうであるか、その説明を患者(家族含)がきちんと聞いてゐるのかによるのであらう。聞いてないやつは何度言つても人の説明を聞かずに自己主張を続けるものだ。
さうして最後には、自己決定をせずに医師にだう治療するかを決めて貰ひ、何かあつたら医師のせい(人のせい)にするのでは・・・・?と思ふ。

マスコミだけなく、医療現場をわかつてゐない厚労省の政策にも問題がありさうである。

さうやつて考えていくと、現在勤務医をしておられる方々のご苦労と精神的負担は如何ほどなのかと思ふ。

医療の限界

2010年01月28日 13時44分50秒 | 医療 (医療小説含)

小松 秀樹氏の著書。
小松氏は東京大学医学部卒業後、大学病院助教授などを経て現在虎ノ門病院泌尿器科部長
であられます。
本作品は2006年に発表された「医療崩壊『立ち去り型サボタージュ』」の続編です。
「医療崩壊」はまだ読んでゐませんが、病院医療の危機を克明に描いたことで注目を浴び
たと聞いてをります。

本書は、 7つの章にわたり現在の医療の問題点をあげ崩壊の危機にある医療制度について
言及されてゐます。
7章にわたつて述べられてゐる事柄をまとめると、次の事になると思ひます。
1.死生観の喪失による問題点(世論の変化)
2.司法の視点と医療の視点
3.医療現場での取組
4.医療に関する問題点
5.医療費のありかた
6.医療崩壊を防ぐために必要な国民的議論の必要性

上記の6点をさらにまとめると、小松氏は以下の問題により現在医療現場が疲弊し、医師や
看護師の離職が増え国民が必要なときに必要な医療行為を受けられないといふ問題が続出
すると懸念されてゐる、と理解ゐたしました。 (すでに、病院閉鎖や診療科の閉鎖で崩壊が始まつてゐると認識します)

問題点その壱 : 医師を取り巻く周囲の環境(世間)の変化により、医師の士気が低下する、医師が萎縮する
問題点その弐 : 医師の労働時間・労働内容に比較して、勤務医の給与が安い=士気低下に繋がる
問題点その参 : 医療事故により発生した死亡事故等の医師への処分に医師の視点から見て問題がある
問題点その四 : 医師を取り巻く環境(教育・評価・人事に関する)に問題があり、医師個人の能力を伸ばす環境がそろつてゐない。
問題点その五 : 医療は公的保険の適用範囲で行なはれてきたが、現状は医療現場の超多忙・人手不足となつてをり、現在の医療費では国民の要望する水準の医療が保てない。

本書を拝読して、現在の医療の問題は上記と理解ゐたしました。本書は諸外国の例や歴史に関しても記述されてゐるので、少し難解なところがありました。著者の述べられてゐる問題点や主張が正しく理解されてゐなかつた場合には、当方に責があります。

さて、ここでは「当方の理解」を前提として感想を述べます。

まづ、日本人の死生観が失はれ、生きるための覚悟がなくなり、不安が心を支配した結果
不確実なことをそのまま受け入れる大人の余裕と諦観が失はれた(P3) の記述は同意見です。
責任感の欠如につながり、自分で責任をとることよりも他人のせいにして言ひ訳をする人が増えたと思ひます。
「人間は必づ死ぬ」といふ考えがどこかに飛んでしまひ、医師に対する敬意もなくなつたと思ひます。

「病気は必ず治る」となぜか勝手に信じてをり、死亡や悪化すると原因に関する事情説明も聞かずに一方的に医師を責める人は居ると思ふ。
病院などで「いつまで待たせるんだ!」などと怒鳴る人はこのたぐいであらう。
また、医療の素人でありながら診断を下した医師が、病名とされた科の専門医ではないからと医師の診断に「++科の専門医ではない。誤診ではないか」と文句をつける人。 
これなど、最もな極みの例でせう。

「日本人の死生観」に関して、「現代と全然違ふ=今がいかに恵まれた時代なのか」を感じるときは、歌舞伎を拝観してゐて、「死」の場面が出てきたときです。
江戸時代に書かれた歌舞伎の脚本には、切腹以前に武士に切り捨てられる町人や、登場人物が自らの命を捨てて誰かを救うとか、怪我で苦しんでゐる人を斬り「楽にする」場面も多々あります。

さのやうな場面を見ると、「江戸時代には死は常に日常的にあり、人が死ぬことは当然と感じてゐるな」としみじみ思ひます。
現代は、医学の発展により昔なら死ぬ病気が治るやうになつてきた。それとともに、医学=無敵と過信するやうになつたのだと思ひます。
そして、世間が「医学=無敵」と過信するにつれて、「病院で死ぬこと」「病院で診て貰つたのに死ぬこと」が医師の悪行と言はれるやうになつてきた。しかし、医療は「100%の安全」ではない。ここを患者の側がきちんと認識してゐないので、医療行為に苦情が出始めたといふ現状だと思ひます。

上記段落「さのやうな」から「現状だと思ひます」までは、あたくしの個人的見解ですがこの見解は小松氏のご主張とも一致すると思ふ - P40「第二章「無謬からの脱却」で述べられてゐるのはこのことであらう。

さて、ここでもふ1つ問題とされてゐるのは「人々が病院での死に関して苦情を申したて始めたことに対するマスコミの対応」であらう。

あたくしが問題と思ふのは、小松氏が述べられてゐる
「医師の労働時間・労働内容に比較して、勤務医の給与が安い」
「医師を取り巻く環境(教育・評価・人事に関する)に問題があり、医師個人の能力を伸ばす環境がそろつてゐない」
「医療は公的保険の適用範囲で行なはれてきたが、現状は医療現場の超多忙・人手不足となつてをり、現在の医療費では国民の要望する水準の医療が保てない」
の点について、マスコミが起きた医療事故に関し取材をし、改善のための働きかけのきつかけになる行動をせづに一方的に医師側を批判することです。

そりや、確かに上記問題点があればそれを把握し改善に努めるべくことをしてゐなかつた病院にも非はあると思ひますが、一連の報道を見ると「あのときああすれば」とか「放つておかれた」とか「批判的」なことばかりを遺族の画像とともに何度も出してくる。

これが果たして世の中全体を「医療の改善」に向けて動かせるのかだうか。
ここにかなりの疑問があります。

「人の失敗」を悪く言はうと思へばいくらでも言へるだらう。マスコミの報道は「報道」といふよりも「人の失敗」をあげつらつてゐるやうに聞こえて仕方がない。
攻撃対象は他にあるのでは? とまで思ふ。

では、今何が必要なのか・・・? 
それは、小松氏が「第七章 医療崩壊を防げるか」 「あとがき」に記述されてゐる・・と思ふ。
これを放置すると、日本もアメリカのやうに「高額な医療費を払へる人のみが治療を受けられる」世の中に変はるのであらう。

ジャーナリストの作法

2010年01月27日 09時28分46秒 | 政治関連・評論・歴史・外交
田勢 康弘氏の著書。

田勢氏はこの著書が出版された当時(1998年)、日本経済新聞論説副主幹兼編集委員の肩書きであられました。

本書は田勢氏の生い立ちからジヤアナリストとして歩みだしたきつかけ、日経入社後のご経歴等半生をつづられてゐると同時に、ジャーナリストとしての活動についての考察、指導者についての考察も記述されてをります。
またワシントン市局長として赴任中のアメリカに関する考察に関する記述も大変興味深いものがあります。

上記の田勢氏の考察の中で、大変面白いのは1998年当時と現在の「政治」のあり方、マスコミの状況が全く変はつてゐないことです。変つてゐないどころか、退化してゐるとあたくしは思ひます。

ここ2,3日、9時より国会中継を見てゐますが、呆れるやりとりや答弁中(発言中)の野次など、
「人が話してゐるときには、相手の話をきちんと聞く」といふ基本の基本すら出来てない輩が「国会議員」として国会に居るといふ、大変情けない事態を目の当たりにゐたしました。

「人の話をきちんと聞いていない」せいなのかしりませんが、答弁が質問の論点にきちんと合致してをらづ、「論点を外して逃げの一手」としか思へない不誠実なものが目立ちます。

また、少子化に対する質問に対する答弁では鳩山氏が「私の生まれる前からこの問題があつたのだな、けふ初めて聞いたこともありました」と堂々と発言されましたが、内閣総理大臣たる立場に於いて政局の最高指揮者でありながら、国の対応が早急に求められてゐる「少子化」に対して「初めて聞いたことがある」とは何事なのでせうか?

唖然とゐたしました。

この2,3日の国会中継に見られる一連の状況は、田勢氏が本書「第8章指導者のこと」(P208-P234)で指摘されてゐることを映像で示してゐるやうに思ひます。

民主党は「政治主導、脱官僚」と掲げてをりましたが、昨日の舛添氏の質疑において菅氏の答弁は
「役人の作成した答弁」と指摘をされました。
脱官僚ではなかつたのでせうか?
本書P219 以降の「凡庸さらけだす内閣」はまさに、今の鳩山政権と言つても差し支えありません。

それから、国会答弁で与党の答弁で大変不愉快な気分にさせられるのが「前政権において作られた赤字」「前政権において放置されてゐた」として、前政権の非難に走り自分達がいまやその状況で何をするかといふ、前向きな答弁が無いことです。

民主党は、バカなのでせうか?
自民・公明の与党時代に積み上げられた問題点が何かは、総選挙前にわかつてゐたはづです。わかつてゐて、それが問題だと思つたから「政権交代」と名を打つて「国民の生活が第一」とまで公言し「マニフェスト」なるものを作成したのではないのでせうか?

さのやうな前提をひつくり返すかのやうな、「前政権により」で始まる非難=言ひ訳を聞かされるのは
1.民主党が出来ないことをわかつてゐてマニフェストに記載し、前政権を言ひ訳にする作戦だつた
のか
2.前政権による問題点をきちんと把握せづに、「マニフェスト」なるものを作成した=出来ないことを考えも無く発表した
のか、はつきりしてゐただきたいと思ひます。

P236以降に記述の「第9章 ジャーナリストであるということ」 : 成程と思ひながら読みました。
田勢氏は、「『記者』と『ジャーナリスト』といふ言葉をぼくは自分の解釈で使いわけている」(P236)と記述されてゐますが、使ひわけられることに同意見です。

また、P244 に記述されてゐる「義理と人情に頼った取材は限界がある」に大賛成です。これはジャーナリストだけでなく、すべての「ビジネス」に言へることだと思ひます。
しかし「義理と人情」で情報を得る手法を取つてゐる人は、一体だのやうな記事を書くのか疑問がでてきます。
昨今のニュースなど見てゐると、まるで申しあはせたかのやうに「同内容」が放送されてをり、「真実報道」に疑問が出ることがあります。

本書P38以降に記述されてゐる「第1章「書く」ということ」の中の「ジャーナリストと功名心」にありますが、「新聞記事を読んでいると、ああ、これは嘘だな、と思う記事に出合うことがよくある。記事の内容そのものがすべて嘘、というわけではなく、表現の中に嘘、もしくは思い込みが入り込んでいるものは意外に多いのだ。」は、テレビ報道にも言へると思ひます。

例として、捕まつた犯人の留置場でのやうすの記述があげられてゐる。「ふてぶてしい表情」とか朝食のメニューまで発表して「出された朝食をペロリと平らげ」といふ表現が例としてあげられてゐる。
田勢氏は「おそらく警察が『朝食は全部食べた』と発表したのだろう」と推測され、警察の発表に対して「ペロリと平らげ」等定型化した内容の「嘘」があり、「形容の嘘が積み重なると真実からかなりかけ離れたものが結晶としてできあがってしまうのである」(P38-39)と主張されているが、全く大賛成である。

ニュースでも、「あーたそれ直に見たの?」と聞きたくなる表現といふか報道が時々ある。
さうなると見る・読むこちらとしては「この報道の中で事実部分はどこか」と考えながら見ることとなる。

国会中継を見ながら、またこの著書を読み思つたのは、
「日本人が子供化してゐる」といふことである。

不況で職が無い、家が無い、大変だ、だから政府がなんとかしろ
といふやりとりが見えるが、生活といふものはある程度、個人の責任だと思ふ。個人それぞれの人生を政府が面倒見ろ・面倒見ますと捉えかねられない質疑応答を見てゐると、「バカか?」と首をかしげざるをえない。

一番生活が大変だつた時代はいつなのか?
戦前・終戦直後が一番大変だつたのでは? きつと、今など比較も出来ないほどの時代だつたと思ふ。
さのやうな時に、諸外国の助けもあつただらうが「日本人」は「日本国内」で何を行つてきたのだらうか?

「国のせい」と人のせいにしてきたことは無いと思ふ。
「なんとか」と知恵を絞つて自分達で出来ることはしてきたと思ふ。それが、戦後の発展に繋がつたのではないかと思ふ。

今さうした「人生への責任感」といふか「各人の人生に責任をもつ感覚」を忘れてゐるやうに思ふ。
「モンスターペアレント」など「モンスター」に始まる横暴な人たちの出現や「自分で生活して行けない人」の出現は、その産物だと思ふ。

これをもたらしたのは何なのか?
そこを一度考えて政策と生活を見直していく必要があるのではないかと思ふ。

複雑な彼

2010年01月25日 17時29分19秒 | 小説
三島 由紀夫氏の作品。

恋愛小説、なのですが三島由紀夫らしさがありません。
「三島 由紀夫らしさ」とは何かと言ひますと・・・・ 

文学的匂ひと言ひますか、「純粋に文学」の匂ひがなく「世俗的」な雰囲気に
満ち溢れてゐる作品なのです。

最初の数ペエジで、さう感じたのですが同時に「女性週刊誌に連載してゐたのかな?」
とも思ひました。何故なら、三島は軽く読みやすい文章を女性週刊誌にいくつか連載してをりその文章の雰囲気と大変似てゐたからです。

果たして、「女性セブン」に連載してゐたのだと「あとがき : 安倍譲二」で知りました。

「純文学的匂ひ」が無くても、「三島」であることは変はりありません。
あとがきを読めばわかりますが、この小説のモデルは安倍譲二さん・・・ 
「塀の中の懲りない面々」で作家デビユウされた安倍さんの半生はかのやうなことだつたのですね・・・・・・
と思つたのと同時に「よくここまで書いたなあ」と感心。

それはともかくとして、

遊び人だつた男が、本気で一人の女を好きになつたときに、待つてゐた運命は・・・・・・

昭和40年に書かれた作品なので、当時の社会情勢の描写も興味深い。
最後の場面は、「やはり三島」と思はせた綺麗な描写でした。

ネットで暴走する医師たち(医療崩壊)の深部で何が起きているか

2010年01月25日 12時28分49秒 | 医療 (医療小説含)

鳥集(とりだまり)徹氏の著書。
鳥集氏は、同志社大学文学部社会学科新聞学専攻卒業され2004年からジヤアナリストとして
活動を開始され医療分野を中心に週刊誌・月刊誌等に執筆されてをります。

本書は「医療事故」として報道された事例に対して、「医師専用掲示板・ブログ」に書き込まれた医師たちの「コメント」「ブログ」について記述したものである。

まづ、そのサイトの特徴であるが:(P16)
1.医師専用掲示板サイトには、掲示板に投稿された書き込み(記事)が「不適切」か「推薦」かを1回だけ閲覧者が投票できるボタンがある。
2.「不適切」のボタンが一定数以上押された記事や書き込みは自動的に削除される。
といふ仕組みがある。

そして、ここに投稿される記事が「遺族に対する誹謗・中傷」と思はれるものが多く、さうした記事に対して「推薦」ボタンを押してゐる閲覧者のはうが「不適切」ボタンを押してゐる閲覧者よりも多く、「医師」としての職業についてゐる人たちの「認識」があまりに一般人とかけはなれてゐるのではないかと問題提起している。(実際、この掲示板に書き込んだ内容が「侮辱罪」にあたり、遺族に謝罪した事例もある)

勿論、医師全員が 「遺族に対する誹謗・中傷を行つている」とは考えてゐないし、きちんとその旨も記述されてゐる。
が、この掲示板には下記のやうな記事が記載されてゐた事実があり、その内容といふよりも「だうして投稿されたやうな内容が出回つたのか?」のはうが、個人的に気になつた。 

1.医療事故の際の内部情報の流出(P33-P47 )
2.1.にて投稿された内部情報とともに記述された「医療事故現場の様子」には事実でないことも記述されてゐた(P33-P47 )
3.2.の事実とは異なる「現場の様子」により、新聞報道と現実が違ひすぎるといふ認識の下、マスコミ批判となる

「医師専用掲示板」は、ある医療事故が起きると1.-3.の流れにより「マスコミ批判」に留まらづ、遺族批判、記事に対して異論を唱えた医師への批判と拡がつて行く。 本書は、3つの実際に起きた医療事故で同様の事が起きた「医師専用掲示板」から見られる、「医師のモラル(と思ふ)」について言及してゐる・・・・と思はれる。

なぜ、『「医師専用掲示板」から見られる、「医師のモラル(と思ふ)」について言及してゐる・・・・と思はれる。』と記述したかと言ふと、本書の狙いといふか主張がイマイチ分からないからだ。

著者は、「書き込みした医師たちの主張の中にもわからなくはない」と記載してゐるが、本書は全体として掲示板を通じて起きた医師の行動に批判的なものであり(と私は思ふ)、ネットで「すべきではない」と思はれる医師の行動がどんなものなのかの記述を続けてゐる・・・・

P203 以降の「第5章 ネット医師たちはなぜ暴走するのか」に、ネットに誹謗中傷を書き込み、それが医師専用掲示板を離れて一般人の目に触れるときに、医療の信頼が崩壊すると理解できる内容が著述されてゐる。
そして、それを避けるには患者と医師のコミュニケーシヨンが必要であり、コミュニケーション不全症候群(P220)をもつ医師が問題と考えてゐると思はれる。
 
著者は患者ときちんとコミュニケーションが取れる医師は「インフォームドコンセントやセカンド・オピニオンなどを活用して十分に納得してから治療を受けてほしい」と言いきる(P224)し、さうした医師はネット上の誹謗中傷記事を快く思つてゐない・・・と言ひたいのであらう。

ここから先は自分個人の意見であるが、医師が100%患者を治せるといふことはないと思ふ。
別に医師を否定してゐるわけではない。患者の運もあるであらう。
医師が説明してもその説明をきちんと聞いてゐない患者もゐるだらう。
さういふ患者に限つて「医師だからなんとか出来る=治せる」と信じてゐるふうもある。
かういふ患者が、医師をイライラさせ果ては「ネット医師」にさせてゐる可能性もゼロではないと思ふ。

それから、医療現場の問題。医師に精神的ゆとりのある勤務形態が組まれてゐる仕組みになつてゐるのか?
随分前に読んだ医療関係の本では、厚生労働省が「医師が余る」として人数を減らす政策を取つた結果医師不足のきつかけを作つたと書いてあつた。
他にも、厚生労働省による政策で現場の医師に負担が発生し続けてゐる例が記述されてゐる本も読んだ。

この2点を考えると、医師は
1.自分勝手(といふ表現が相応しいかしらんが)な患者に振り回されてイライラする
2.1.に加えて気分転換を適宜はかり、精神的にゆとりのある診察時間を持てないやうな環境に居る→イライラする
といふことになつてゐるのではないかと予測する。

さう考えると
医師の元々の性格はさておいて、ほんたうに悪いのは誰なのかなあと・・・・・・思ひます。