加藤 康男氏の著書。
加藤氏は1941年生まれの編集者・近現代史研究家であられる。早稲田大学政治経済学部中退、集英社に入社し「週刊プレイボーイ」創刊から編集に携りその後「日本版PLAYBOY」編集部、集英社文庫編集長、文芸誌「すばる」編集長、出版部長などを歴任したのちに退社。恒文社専務取締役として出版活動に従事、2004年退任。以後、編集者、作家として主に近現代史をテーマに執筆活動を行つてをられる。
「あとがき」で加藤氏は「張作霖爆殺事件は関東軍の謀略だった、と軒並み記されている。そこで冒頭にも述べたが、関連史料をあらためて渉猟しつつ新史料の発掘と提示に極力努め、事実を明確に彫り上げたいというのが本書の目的」(P245)と記述されてゐる。
記述されたとおり、加藤氏はロシアやブルガリアなどの古書店を回られたりイギリス公文書館所蔵の当時のイギリスの諜報資料など日本だけでなく海外の文献も取材され、検討されてゐる。
本書は第一章で関東軍の「河本大作首謀説」を検討、第二章で「コミンテルン説」「張学良説」を検討、第三章で「謎の解明」とし「河本首謀説の絶対矛盾」といふ構成となつてゐる。
驚いたのは、列車が爆発したその瞬間の写真があつたといふことだ。山形県に住む元陸軍特務機関員が保管してゐたもので、爆発前、爆発の瞬間、その直後、現場検証の模様から張作霖の葬儀まで61枚もあつた。本書にもP78-79に爆発の瞬間の写真が掲載されてゐる。
この写真だけでも、「河本首謀説」とされる河本氏の自白による爆薬をしかけた場所と爆発の状況に矛盾があることがわかる。
加藤氏はまづ、河本首謀説を様々な史料で紹介し、次に1991年12月のソ連崩壊により明らかになつた重要な機密文書が明らかになり、2005年に出版された「MAO(邦題 マオ-誰も知らなかつた毛沢東)」第十六章 西安事件の中で「実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エテインゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」といふ部分を紹介する。そして、MAOの参考文献とされた書を検証して行く。
ソ連説の検証には、イギリスの情報活動の文書も検証し引用してゐる。それによると、イギリスはなぜ日本が十分に調査せず事件を認めたのかを奇異に思つてゐたことが明らかになる。同時に、当時の日本の諜報活動がお粗末であると諸外国から思はれてゐたことも明らかになる。
(余談だが、お粗末な諜報活動で戦争は勝てない。あの戦争はすべてが間違つてゐたやうに思ふ)
また張作霖の息子である、張学良首謀説の記述もあるのだがこの息子の行動も中々すごい。狡猾な性格といふ言葉がぴつたり、といふ印象をもつた。ここでもまた、イギリス情報部の見解と調査結果が出てくる。このイギリスの調査結果がまた興味深い。イギリス公文書館には、詳細な手書きの現場見取り図(日本人が書いたと思はれる)も保管されてゐたが、その見取り図および写真の状況から河本氏らがしかけた爆薬では絶対に起きない被害状況が明確となつてをり、なぜ当時の日本政府がきちんと調査しなかつたのか全くわからない。
加藤氏は最後に「GRU百科事典」といふ2008年モスクワで刊行された百科事典の記述を紹介してゐる。
「フリストフォル・サルヌイニの諜報機関におけるもっとも困難でリスクの高い作戦は、北京の事実上の支配者張作霖将軍を1928年に殺害したことである。張作霖は1927年以降も明確に反ソ、親日政策を実行していた。ソ連官史に対する絶え間ない兆発行為のため、東清鉄道の運営はおびやかされていた。将軍の処分は日本軍に疑いがかかるように行なわれることが決定されたのである。そのために、サルヌイニのもとにテロ作戦の偉大な専門家であるナウム・エイチンゴンが派遣された。(中略)
1928年6月4日、張作霖は北京-ハルビン間を行く特別列車で爆死した。そして張作霖殺害の罪は、当初の目論見どおり日本の特殊部隊に着せられた」(P242-243)
今後、クレムリンや他国から新史料が公開されるとこれ以外にどんなことが明らかになるのか?
思ふに、日本の教科書はきちんとした事実調査がなされなかつた当時のままで嘘ばかりが書いてある。中国のプロパガンダの新聞記事をそのまま引用したやうな記述や参考資料もある。全体的にきちんと内容を見直し、教科書記述の参考文献も明らかにすべきと思ふ。