読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

「南京大虐殺」のまぼろし

2013年04月20日 17時10分11秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

鈴木 明氏の著書。

鈴木氏は1929年東京生まれ。1955年より民間放送局に勤務。1973年に本書で第四回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。本書は昭和47年1月より取材を初め、12月に刊行。2003年没。

本書はまず「あとがき」「文庫版のためのあとがき」を読んでから本文を読んだはうがいいかもしれない。いかに、ざっと要旨を書いてみる。

鈴木氏が本書、といふより南京に出兵された方々をたずねて、「真相」を追求されるお気持ちになつたのは、昭和46年夏ごろから本多勝一「中国の旅」が連載され、それを読み「南京攻略戦」に参加した人ならばその記事についてかなりの「真相」を語ってくれるに違いないと、ふらりと訪ねていく。しかしその人は「南京攻略のアウトラインとその時の心理状態」は細かく語ってくれたが、「私の見聞した範囲では、東京裁判などで伝えられている暴行については、見たことも聞いたこともないので、なんともいいようがない」とだけ言はれる。

鈴木氏は幾人かに訊いてみるも、返ってきた答えは同じようなものであった。そこで鈴木氏は「南京事件についてある種の疑問」を持つようになる。「南京大虐殺」のやうな歴史的事件に対して、「いつ」「どこで」「どのように」「どういう理由で」起きたのかを調べてみるが、鈴木氏が読んだどの本にもこの4つの疑問符に対して鈴木氏を納得させるようなものはなかった。逆にいろいろな文献を読み進むほどに、鈴木氏の疑問は大きくなる一方であり、「初めて、当時の日本のマスコミに対してある怒りを感ずるようになった」(P301)

鈴木氏は「素人が当然感ずる疑問」だけをとりあげ、「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を「諸君!」昭和47年4月号に発表する。その一文に対して、「南京大虐殺の真犯人」と世上伝えられてきた「百人斬り」の少尉の未亡人から投書をもらひ、「関係者を歴訪したい衝動にかられた。それは、僕が真相を知りたいという興味のほかに、マスコミが当然伝えなければならないことを知らせていない、という抗議の意味の方が強かったかもしれない」 (P302)

以上が「あとがき」からの引用を含めた要旨である。しかし、「文庫版あとがき」を読むと、「昭和47年」といふ時代がだういふ時代だつたのかが大変意味を持つてくることと考へられるのである。本文の中に、取材先の相手から「田中首相が日中国交回復に動いてゐるのに」と言はれる場面が出てくるのだが、それに対することも書いてある。

「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を「諸君!」昭和47年4月号に発表したときは、第31回世界卓球選手権大会が名古屋で開かれ、「シナ卓球選手団」が羽田に降り立つ。「『友好第一、勝敗は第二』というスローガンとはうらはらに、シナ選手団は歓迎パーティにすら姿を見せなかった。 大会運営費一億二千万のうち、朝日新聞社だけが1500万もの協力費を出していたのも異常であった。念のためにきいてみると、地元最大の企業であるトヨタ自動車ですら、協力費は150万円であるとのことであった」(P307)

「11年前、僕は全く何気なく、偶然、『南京大虐殺』に飛び込んでいった。今思えばそれは『日中国交回復』という大きな政治的な動きの中に、突如舞い込んだとんでもない厄介者であったかもしれない。しかし僕は政治の世界に全く無色であり、他に考慮する何物もなかったからこの仕事を続けたのである」(P312)

読み進むと、この本が各方面から厳しい批判にさらされたことも書いてある。 秦賢助といふ人物の書いた「架空の南京回想録」を自身の本「南京事件」 に引用した洞富雄氏は改めて「南京大虐殺―『まぼろし』化工作批判」という本を出版し、本書の手紙の内容とか細かいところを持ち出して批判してゐるらしい。手紙の文章よりも、ありもしない架空の話を事実を検証せずに本にしてゐるはうが問題だと思ふのだが、工作する人間といふのは自分がやつたことを人がやるものと考へ、このやうな批判となるのであらう。

本多勝一の諸君!掲載文に呆れた。自分は支那人の言うままに検証もせず書いた事を反論されると「死刑になった兵士が生きていたら当人達の口から詳細が聞けたのに」と書いている。共産主義者が虐殺して嘘を蔓延させる根本思想はこれか。

「南京大虐殺」の発端になる百人斬り競争の記事を創作した東京日日新聞浅海記者の遺族って恥ずかしいだろう。色々な本で創作を指摘されている、と思つたが戦後浅海本人は唯ひたすら毛一辺倒、文化大革命礼讃内容の本を書き自身の創作については否定しているそうで、共産主義者に恥は無いやうである。

本書には、秦賢助という作家が日本週報に書いた南京部隊の2万の捕虜を連れた入城を書いている話が紹介されてをり、この捕虜を虐殺したか否かについても推測で「虐殺」と書いてゐる本を読み、鈴木氏は秦氏を訪ねるうち、この人を知る人に会つて話を聞くことができる。それによると、秦氏はS14年に初めて支那へ行ったのでS12年の南京入城を見てないと明らかになっている。また、秦氏は人から聞いた話を自分のインタビュー記事のように書き新聞の切り抜きででっち上げた本を出した経歴がある。

秦氏の架空の南京回想録は、数多くの「南京事件」関係の本に引用されており河出書房「日中戦争史」にも資料として入り、洞富雄「南京事件」に引用され捕虜全員虐殺との推測記述がある。

しかし、この捕虜達は揚子江対岸に解放すべく連行していたことが鈴木氏の取材でわかつてゐる。輸送する折り暴発から撃ち合いになったのではないか?真っ暗闇の中、いったい何が起きたのかを見てゐる人には会へなかつた。夜が明けて、そこで捕虜と日本兵の死者が確認されてゐる。

鈴木氏は、ティン・パーリーの書や当時南京のやうすを書いた英語新聞の記事、日本兵がシナ人を殺す写真、それを引用したエドガー・スノー等の紹介もしてゐるが、それらの書や写真に対しても疑問を投げかけてゐる。昭和47年当時は明らかになつてゐなかつたが、ティン・パーリーの書は共産党の宣伝本であつたし、写真もその後の検証により南京のものではないことなどが明らかになつてゐる。

だが未だにシナはこれらの「虚構」を大々的に扱ひ、そして日本の新聞(特に朝日と毎日)はその嘘を糾弾しないし明るみにもせず、嘘に加担してゐる。

昭和47年当時、鈴木氏はかう書いた。

「僕がどうしても『南京事件』について記述しなければならないとしたら、僕はおそらく、次の数行だけを書いて筆を止めるだらう。
『(南京事件) 昭和12年12月、日本軍が国民政府の首都南京を攻め落としたときに起きた。この時、中国側に軍民合せて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、その伝えられ方が当初からあまりに政治的であったため、真実が埋もれ、今日に至るもまだ、事件の真相はだれにも知らされていない・・・』 (P297-298)

日本の政治屋と外務省は、その後明らかにされてゐることをきちんと日本と世界に公表し、正しい事を周知させるべきである。


南京「百人斬り競争」の真実

2013年04月13日 12時26分26秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

東中野 修道氏の著書。

東中野氏は亜細亜大学教授、文学博士であり日本「南京」学会会員であられる。大阪大学大学院博士課程修了。西ワシントン大学各員教授、ハンブルグ大学各員研究員を経て現職。編著書に「『南京虐殺』の徹底検証」「1937南京攻略戦の真実」「南京事件『証拠写真』を検証する」など多数。

本書は、野田毅少尉と向井敏明少尉の2人の元陸軍少尉は、「創作された事件」で死刑になった! 南京事件の第一人者が、斬新な切り口から徹底検証した、書き下ろし決定版、と銘うつてゐるやうに、東中野氏が当時の新聞記事と上官らの陣中日誌、野田・向井少尉らの上告書を検証した

日本人が読むべき書

である。

そして、ここには「アサヒる」おなぢみ 本多勝一 の創作に捏造加担した 「中国の旅」(朝日新聞に連載、その後単行本化)への疑問点も書いてある。東中野氏は独自の調査を進める中で、本多勝一が新聞記者といふ立場にありながら全く当時の史料を検証することなく記事を書き、しかも朝日新聞は掲載し単行本化してゐることにつき、下記のやうに疑問を呈してゐる。

「第一章でも少し触れたことだが、本多勝一氏は朝日新聞に連載した『中国の旅』に中国人のキョウ氏の次の話を載せていた。 
《AとBの二人の少尉に対して、ある日上官が殺人ゲームをけしかけた。南京郊外の旬容から湯山までの約10キロの間に、100人中国人を先に殺した方に賞を出そう・・・・二人はゲームを開始した。》 

(中略)

本多氏は記者という立場からも、当時の東京日日新聞の記事をすぐに求めて読めたはずである。それを読めば、第一報にも、その後の第二報、第三報、第四報にも「上官が殺人ゲームをけしかけた」などという記述のないことは、一目瞭然であった。そしてまた「百人斬り競争」の記事を書いた記者の一人である浅海記者が、南京へ送った証言の手紙を見ようとすればできたはずであった。浅海記者は《両氏の行為は、決して住民あるいは俘虜等に対する残虐行為ではありません》と証言していたのではなかったか。

(中略)

ところが、本多氏はキョウ氏の話の間違っている点を指摘しなかった。それどころか、《この区間は城壁に近く、人口が多い。結果ははっきりしないが、二人は多分目標を達した可能性が高いとキョウさんはみている》と書いている。 」(P44-46)

 ついでに、本多勝一は1980年代に「据えもの斬り」の新しい解釈を朝日文庫版「中国の旅」(注P264)に記していた。そこで

「すでに明らかなように、捕虜を裁判もなしに据えもの斬りにすることなど当時の将校には『ありふれた現象』(鵜野晋太郎氏)にすぎなかった。日本刀を持って中国に行った将兵が、据えもの斬りを一度もしなかった例はむしろ稀であろう。たまたま派手に新聞記事になったことから死刑になった点に関してだけは両少尉の不運であった。

このように、実は「百人斬り競争」は「据えもの斬り競争」だつたのだと解釈したのである。しかも野田少尉、向井少尉だけでなく、「据えもの斬り」は当時の将校には《ありふれた現象にすぎなかった》とさらに敷衍されている」 (P62-63)

本多勝一は、戦争に関するいろいろな事で 「アサヒ」ッてをり、それを幾人かから指摘されてゐる。 本多勝一の著書をこれまでに読み、内容を信じてゐた方々は認識を改めることをお勧めする。

本多勝一の悪質なところは、さすがマスゴミであるが 「デマ屋」のごとく聞いた内容を検証することもなく広め、そしてそれに何やらもっともらしい自分の解釈を加え(つまり尾びれや背びれとつけて)公表することである。 こんな内容をそのまま掲載し、発行・出版する朝日の体質が伺いしれるといふものだ。

まだ朝日など購読してゐる人は、何人なのであらう?

話は戻るが

東京日日新聞(現毎日新聞)の浅海記者は両少尉が残虐行為をしなかったと証言はしたものの、肝心の「自分たちが百人斬り競争の記事を創作した」という点に言及しなかつた。

これは、何を意味するのか? あたくしは「マスゴミは昔からゴミのデマ屋」体質であつたのだと認識した。

現在もマスゴミの不正確な内容の発信は非常に多い。自分達が公共の電波を使へるからと、おおぴらに嘘を流してゐる。民主党政権を導いたのもマスゴミの工作の一端であり、それに懲りずに嘘がばれてゐるのに、まだ嘘を流してゐる。

そして、嘘を吐いて人にとてつもない迷惑(南京事件に関しては人の命と名誉がかかってゐる)をかけても、自分さえよければいいのである。

「報道しない自由」を現在行使してゐるが、過去も似たやうなことをしてゐたのである。  

東中野氏は、「記事が創作であった」ことを多くの史料から検証し物理的に両少尉が一緒になつて百人斬つていくことは不可能であると本書で発表した。

また、この「百人斬り競争」(のちの南京大虐殺と呼ばれる冤罪)の裏に、田伯烈 (ハロルド・ティンパーリ記者、英マンチェスター・ガーディアン紙のシナ特派員でありとどのつまり共産主義者)が書いた「日軍暴行紀実」があり、これがシナ国民党政府の「対敵(日)宣伝本」があることも指摘してゐる。

「両少尉が『俘虜および非戦闘員の連続』や『据えもの斬り』をしなかつたという明らかな証拠はなかった。両少尉が『俘虜および非戦闘員の』連続』や『据えもの斬り』をしたという明らかな証拠もなかった。しかし「百人斬り競争」の記事は記者たちの創作であったという明らかな証拠は、あったのである」 (P143)

本書だけでなく、先日の国会で取り上げられてゐる動画も必見です。

http://www.youtube.com/watch?v=yjlfazMLo-c   2013.4.10 衆議院予算委員会 自民党:西川京子

http://www.youtube.com/watch?v=lWZ7ZFRGcwo 2013.4.10 衆議院予算委員会 日本維新の会:中山成彬


沖縄戦・渡嘉敷島 「集団自決」の真実 日本軍の住民自決命令はなかった!

2013年04月08日 20時49分33秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

曽野 綾子さんの著書。

本書は1992年PHP文庫より「ある神話の風景」として発刊された改訂新版。

新版まえがき、にあるが本書を曽野氏が書くことになつたきつかけは、「ほんの偶然」のやうなことである。曽野氏は戦後25年目のマスゴミに「無辜の島民を集団自決による死に追いやり、自分達は生き延びた卑怯者、悪人として登場した」渡嘉敷島の集団自決の歴史の中では悪の権化のように描かれてゐる赤松隊長に「本当にそういふ人がゐるなら会ってみたい」と考えた。それがこの作品の出発点ださうである。(P3-4)

もふ一点は聖書の中に出てくる言葉と「この沖縄の人達が体験した集団自決というような異常な空間と時間において、一人の人間の取った行動がどの程度道徳的だつたか、正義に基づいていたか、などということはなかなか明確にできないだらう」と考えてゐた曽野氏が「人間が他者を告発するという行為の必然性」からこの事件を深く知りたいと考えられたことのやうである。(P4-6)

曽野氏は渡嘉敷島の人たちで面会を承諾してくれた人たち、そして赤松隊長とその部下に面会し集団自決とそれにまつわる「赤松氏の命令により殺された」人たちに実際何が起きてゐたのか、を調査していく。

その調査のやりとりと結果のまとめが本書である。

まえがきにあるが「一般に『そのことをした』という証明は物的に出来る場合があるが、『そのことをしていない』という証明はなかなかできにくいと言われる。従って私ができたことにも大きな限界があった。私は『直接の体験から「赤松氏が自決命令を出した」と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった』というより他はない」(P7)と書いてある。

そして次に紀元66年に起こったユダヤ人の対ローマ反乱の最後の拠点となつたマサダの集団自決について触れ、「彼等は辱めを受ける前に妻たちを死なせること、奴隷尾体験をさせる前に子供たちを死なせることを選んだ」マサダの自決を「イスラエルでは非人間性や好戦性の犠牲者として見るどころか、そこで自決した960人の人々をユダヤ人の魂の強さと高貴さを現した人々として高く評価したのであった」とし、「しかし沖縄では集団自決の悲劇は軍や国家の誤った教育によつて強制されたもので、死者たちがその死によつて名誉を願つたとは全く考えてもらえなかった。そう考えるほうが死者たちが喜んだのかどうか、私には結論づける根拠はない」とし(P8-9)この事件に関する日本人の精神構造の問題点を示唆してゐる。

個人的な意見としては:

まず、この事件を取り上げてゐたのは「朝鮮共産左翼」の思想の濃いメデイアと作家であることを指摘したい。しかも、曽野氏の取材で明らかになるが、彼らは「どうしても赤松氏を犯罪人」にしたいやうであつた、故意の創作的内容をバラ撒いてゐたやうである。赤松氏の行為だけでなく氏に愛人がゐたとか住民から食料を没収して頬が垂れ下がるくらいでつぷり太つて食べたいだけ食べてゐたとか、 少し話を聞いただけでも相違が出てくるのである。

さうなると

歴史捏造お得意の朝鮮左翼の出番か? 自分達被害者、日本が悪い、日本人の戦犯を祀り上げ責任を取れと連呼し、日本の犠牲者と仕立てあげ悲劇を創作し「過ちは二度と繰り返しません」と日本が加害してもゐないことをやたらと銅像や碑に刻み残したがる思想の

朝鮮左翼の作為 

を感じるのである。 

朝鮮左翼の集団と一緒になつて反原発を叫んだ「北朝鮮は地上の楽園」とする大江健三郎氏は「沖縄ノート」の中で本事件を「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことであらう。人間としてそれをつぐなうには、あまりに巨きい罪の巨魂のまえで・・・」と書いてゐるさうだが、

これに対して曽野氏は「このような断定は私にはできぬ強いものである。『巨きい罪の巨魂』という最大級の告発の形を使うことは、私には、二つの理由から不可能である。
第一に、一市民として、私はそれほどの確実さで事実の認定をすることができない。なぜなら私はそこにいあわせなかったからである。
第二に、人間として、私は、他人の心理、ことに『罪』をそれほどの明確さで証明することができない。なぜなら私は神ではないからである」 (P295-296)

と述べてゐる。

確かにその通りである。 本書を読むとわかるが「集団自決に至る心理」といふものは、今この「戦争を体験したことない」時代に生きる人があれこれ言へるたぐいのものではない。

米軍が来る、来たらだうなるか。 米軍に殺されるより、辱められるより、この手で殺してやりたい、親族や知つた人に殺してもらひたいといふ心理、その心理が互いに働き住民同士で殺し合ひ、殺してくれるやうに懇願し、殺した者は自決するといふことは今到底想像できないものである。

朝日新聞の本多勝一も、実際戦地のシナにゐたことがないのにシナ人を日本兵が大量虐殺したと書いたがそれについて、山本七平から「この人は戦争に行つたことがないのだな」と言はれてゐる。

沖縄タイムスなど共産左翼はよくまあ平和な時代にエラさうに物を書けるものだと憤りを感じた。そして、「罪」として糾弾するとは何様なのであらうか?戦争を知らない世代は必読すべきである。平和な時代のみ知る世代が「戦争を論じ批判する」ことがいかに愚かで卑怯なことなのかと思ひ知らされる。

この朝鮮左翼の「正義の味方」的な精神論に基づく「軍国主義はゐけません、戦争はゐけません、平和は大事です、9条は護りませう」といふ虚構の教育は止めるべきである。

本書の最後に賛成である。

「赤松隊員の一人がかつて私に言つた。
『曽野さん、私たちはいったい、どうすればよかったのですか。もし隊長を初め我々が島へ全く行かなければ、あれほどの迷惑をかけ、恩をうけておきながら、墓参りにも来ない、線香一本もあげに来ない、と言われたと思います。私たちはいったい、自分達の心をどう表したらいいのですか?』
私は何も答えなかった。それに決定的に答えられる人は、恐らくどこにもいまい。」 (P326)