鈴木 明氏の著書。
鈴木氏は1929年東京生まれ。1955年より民間放送局に勤務。1973年に本書で第四回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。本書は昭和47年1月より取材を初め、12月に刊行。2003年没。
本書はまず「あとがき」「文庫版のためのあとがき」を読んでから本文を読んだはうがいいかもしれない。いかに、ざっと要旨を書いてみる。
鈴木氏が本書、といふより南京に出兵された方々をたずねて、「真相」を追求されるお気持ちになつたのは、昭和46年夏ごろから本多勝一「中国の旅」が連載され、それを読み「南京攻略戦」に参加した人ならばその記事についてかなりの「真相」を語ってくれるに違いないと、ふらりと訪ねていく。しかしその人は「南京攻略のアウトラインとその時の心理状態」は細かく語ってくれたが、「私の見聞した範囲では、東京裁判などで伝えられている暴行については、見たことも聞いたこともないので、なんともいいようがない」とだけ言はれる。
鈴木氏は幾人かに訊いてみるも、返ってきた答えは同じようなものであった。そこで鈴木氏は「南京事件についてある種の疑問」を持つようになる。「南京大虐殺」のやうな歴史的事件に対して、「いつ」「どこで」「どのように」「どういう理由で」起きたのかを調べてみるが、鈴木氏が読んだどの本にもこの4つの疑問符に対して鈴木氏を納得させるようなものはなかった。逆にいろいろな文献を読み進むほどに、鈴木氏の疑問は大きくなる一方であり、「初めて、当時の日本のマスコミに対してある怒りを感ずるようになった」(P301)
鈴木氏は「素人が当然感ずる疑問」だけをとりあげ、「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を「諸君!」昭和47年4月号に発表する。その一文に対して、「南京大虐殺の真犯人」と世上伝えられてきた「百人斬り」の少尉の未亡人から投書をもらひ、「関係者を歴訪したい衝動にかられた。それは、僕が真相を知りたいという興味のほかに、マスコミが当然伝えなければならないことを知らせていない、という抗議の意味の方が強かったかもしれない」 (P302)
以上が「あとがき」からの引用を含めた要旨である。しかし、「文庫版あとがき」を読むと、「昭和47年」といふ時代がだういふ時代だつたのかが大変意味を持つてくることと考へられるのである。本文の中に、取材先の相手から「田中首相が日中国交回復に動いてゐるのに」と言はれる場面が出てくるのだが、それに対することも書いてある。
「『南京大虐殺』のまぼろし」なる一文を「諸君!」昭和47年4月号に発表したときは、第31回世界卓球選手権大会が名古屋で開かれ、「シナ卓球選手団」が羽田に降り立つ。「『友好第一、勝敗は第二』というスローガンとはうらはらに、シナ選手団は歓迎パーティにすら姿を見せなかった。 大会運営費一億二千万のうち、朝日新聞社だけが1500万もの協力費を出していたのも異常であった。念のためにきいてみると、地元最大の企業であるトヨタ自動車ですら、協力費は150万円であるとのことであった」(P307)
「11年前、僕は全く何気なく、偶然、『南京大虐殺』に飛び込んでいった。今思えばそれは『日中国交回復』という大きな政治的な動きの中に、突如舞い込んだとんでもない厄介者であったかもしれない。しかし僕は政治の世界に全く無色であり、他に考慮する何物もなかったからこの仕事を続けたのである」(P312)
読み進むと、この本が各方面から厳しい批判にさらされたことも書いてある。 秦賢助といふ人物の書いた「架空の南京回想録」を自身の本「南京事件」 に引用した洞富雄氏は改めて「南京大虐殺―『まぼろし』化工作批判」という本を出版し、本書の手紙の内容とか細かいところを持ち出して批判してゐるらしい。手紙の文章よりも、ありもしない架空の話を事実を検証せずに本にしてゐるはうが問題だと思ふのだが、工作する人間といふのは自分がやつたことを人がやるものと考へ、このやうな批判となるのであらう。
本多勝一の諸君!掲載文に呆れた。自分は支那人の言うままに検証もせず書いた事を反論されると「死刑になった兵士が生きていたら当人達の口から詳細が聞けたのに」と書いている。共産主義者が虐殺して嘘を蔓延させる根本思想はこれか。
「南京大虐殺」の発端になる百人斬り競争の記事を創作した東京日日新聞浅海記者の遺族って恥ずかしいだろう。色々な本で創作を指摘されている、と思つたが戦後浅海本人は唯ひたすら毛一辺倒、文化大革命礼讃内容の本を書き自身の創作については否定しているそうで、共産主義者に恥は無いやうである。
本書には、秦賢助という作家が日本週報に書いた南京部隊の2万の捕虜を連れた入城を書いている話が紹介されてをり、この捕虜を虐殺したか否かについても推測で「虐殺」と書いてゐる本を読み、鈴木氏は秦氏を訪ねるうち、この人を知る人に会つて話を聞くことができる。それによると、秦氏はS14年に初めて支那へ行ったのでS12年の南京入城を見てないと明らかになっている。また、秦氏は人から聞いた話を自分のインタビュー記事のように書き新聞の切り抜きででっち上げた本を出した経歴がある。
秦氏の架空の南京回想録は、数多くの「南京事件」関係の本に引用されており河出書房「日中戦争史」にも資料として入り、洞富雄「南京事件」に引用され捕虜全員虐殺との推測記述がある。
しかし、この捕虜達は揚子江対岸に解放すべく連行していたことが鈴木氏の取材でわかつてゐる。輸送する折り暴発から撃ち合いになったのではないか?真っ暗闇の中、いったい何が起きたのかを見てゐる人には会へなかつた。夜が明けて、そこで捕虜と日本兵の死者が確認されてゐる。
鈴木氏は、ティン・パーリーの書や当時南京のやうすを書いた英語新聞の記事、日本兵がシナ人を殺す写真、それを引用したエドガー・スノー等の紹介もしてゐるが、それらの書や写真に対しても疑問を投げかけてゐる。昭和47年当時は明らかになつてゐなかつたが、ティン・パーリーの書は共産党の宣伝本であつたし、写真もその後の検証により南京のものではないことなどが明らかになつてゐる。
だが未だにシナはこれらの「虚構」を大々的に扱ひ、そして日本の新聞(特に朝日と毎日)はその嘘を糾弾しないし明るみにもせず、嘘に加担してゐる。
昭和47年当時、鈴木氏はかう書いた。
「僕がどうしても『南京事件』について記述しなければならないとしたら、僕はおそらく、次の数行だけを書いて筆を止めるだらう。
『(南京事件) 昭和12年12月、日本軍が国民政府の首都南京を攻め落としたときに起きた。この時、中国側に軍民合せて数万人の犠牲者が出たと推定されるが、その伝えられ方が当初からあまりに政治的であったため、真実が埋もれ、今日に至るもまだ、事件の真相はだれにも知らされていない・・・』 (P297-298)
日本の政治屋と外務省は、その後明らかにされてゐることをきちんと日本と世界に公表し、正しい事を周知させるべきである。