読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

予兆とインテリジェンス

2011年07月29日 14時31分41秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

佐藤 優氏の著書。 東京新聞のコラム、雑誌「現代」「エコノミスト臨時増刊」「ユリイカ」等に奇稿したもののまとめ。
第一章は「霞ヶ関と永田町」、第二章は「外交について」第三章は「自らと社会について」とそれぞれの原稿をまとめてゐる。

佐藤氏は元外務官僚なので、外務省の諸事情や現役官僚の人となりについての記述がありそれも面白ひ。
とくに、鈴木宗男氏とともに「犯罪者」として起訴・収監されたが佐藤氏の原稿を通した鈴木氏の言動を見ると、鈴木氏がなぜ収監されるのかわからなくなつてくる。鈴木氏のほかに収監されるべきはT中真紀子とかほかの外務官僚とか、税金で給金をもらひながら全く国のために尽力してゐない、税金泥棒ではないかと思へてくる。

日本固有の領土を「問題」としたのは、外務省の怠慢であり政治家の怠慢だといふことがよくわかつた。尖閣諸島同様、竹島にも「問題」など存在しない。日本のものなのだから毅然と対処すべきところをせづに放置して「問題」にしただけの話だ。

特に、竹島に関しては「え、韓国のものぢやないの?」などとホザくバカがゐたり(在の可能性が大だが)、きちんと外務省が抗議しないことが許せない。半島自体が、竹島が自国のものではないと記述してゐるものがある。 ↓
朝日新聞が報道した「日韓併合」の真実 韓国が主張する「七奪」は日本の「七恩」だった

http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/39a47b33632f16cabc00de791ad2075a
「竹島は日本領」を示す、韓国の古地図。
「韓国人歴史家の玄采が監修し、光武3(1899)年に作られた地理書「大韓地誌」。これはまだ韓国が日本の保護国になっていなかった時代に作られた地理書であり、当時、学校教育でも使用されていた ”準公式文書”である。(中略)この「大韓地誌」を見ると日露戦争以前から、韓国が竹島を日本領として認識していた事実が確認できる。 第一編 <第一課 位置 幅員 海岸>では、『わが大韓民国の位置はアジアの東部に在り、支那の東北部から日本海と黄海・渤海の間に突出した半島国で、北緯33度15分より42度25分に至り、東経124度30分より130度35分に至り、東は日本海を界とし、西は黄海に浜し、南は日本海と黄海を臨み、東南は一海峡を隔てて日本の対馬と相対し・・・』と記載されてゐる。竹島の位置は東経131度52分であり、ここに記載されている『わが大韓民国』には含まれていない」(P212) 

そして、佐藤氏の著書には1951年9月に署名されたサンフランシスコ平和条約の米国の半島南への意見書を引用し(この意見書は『竹島問題を理解するための10のポイント』P10-11に使用されてゐる)、「ドク島または竹島ないしリアンクール岩として知られる島に関しては、この通常無人である岩島は我々(米国)の情報によれば、朝鮮の一部として取り扱われたことが決してなく、1905年頃から日本の島根県隠岐島支庁の管轄下にある。この島はかつて朝鮮によって領有権の主張がなされたとは見られない」 (P191)

これらをもつて、外務省がきちんと嘘つき民族に抗議し世界に向けて領有権を主張しないのは絶対に許せない。こいつらこそ、収監されるべきだ。

佐藤氏がもと外務官僚なので、第一章から第二章までは外務省の対応を基準とした記事が多いが、外務官僚は自己保身のためのくだらない工作をするくらいなら領有権その他日本の国益のために工作すべきだ。

総体的に読んでゐてイライラすることが多かつたが、佐藤氏の心中を考えるとあまりある。


交渉術

2011年07月27日 19時41分13秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

佐藤 優氏の著書。

佐藤氏は同志社大学神学部卒業後、外務省に入省し「ノンキヤリア」として在英国日本国大使館、在ロシア連邦日本国大使館に勤務後背任と偽計業務妨害容疑として逮捕され東京拘置所に拘留されるが作家としての活動も行なつてをり、その内容は自身の外交官僚としての体験を主とした貴重なものばかりだ。

本書は「交渉術」とされてゐるものの、実際は佐藤氏が仕えた政治家とその当時の北方領土にまつわる「秘め事」のやうなものであり、大変興味深い。

佐藤氏が活躍してゐたときにはエリツィン・ゴルバチョフといふ政治家がロシアで活躍してをり現在のプーチンに移行する前のことである。

なのでこの本 ↓

プーチニズム 報道されないロシアの現実

http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/e9fcf9c941fcb261bb24d608a32942f7

を読んだ自分としては、今後の北方領土がいかになつていくのか、民主党といふ非日本人政党の手段が何をやらかすのか大変危惧してゐるところである。

いッそのこと、スタアリン信奉のプウチンに刺されてくれ。

本書を読んだ感想は
人間、見えない部分が多いのだな・・・といふこと。 マスゴミの報道と佐藤氏が見た政治家の面々といかにかけ離れてゐることか。

そして
田中均「外交の力」で「外務省は本来の意味での『国益』を無視してゐる」といふ印象をゐだいたが、佐藤氏はじめとした人たちを追い出した外務省はやはり、「国益」といふ日本語を自分たちの「自己満足」といふ意味にしか捉えてゐないやうである。

 


告白

2011年07月23日 16時34分33秒 | 小説

湊かなえさんの作品。

湊氏は1973年広島生まれ、武庫川女子大学家政学部を卒業され2005年第2回BS-i 新人脚本賞で佳作入選。07年第35回創作ラジオドラマ大賞を受賞。同年「聖職者」で第29回小説推理新人賞を受賞し、同短編を収録した本書でデビュウ。

確か、映画になつたはづなので(松 たか子さん?)映画をご覧になつた方もゐるかと・・・

湊氏の作品は初めて読んだ。本書は「短編」として「小説推理」に掲載されたものが3篇、書き下ろしが3篇の合計6篇からなるものであるが、この短編作品はすべて繋がつてゐる。

中学校のプウルで自分の娘が溺死体となつて発見された教師。警察は事故とみなしたが、教師は犯人を自分の受け持つクラスの中に見つける。

教師を辞めるにあたり、彼女はクラスの全員に「聞いてもらひたい話」として犯人の話をする。それが「聖職者」のあらすじである。残りの短編作品は、生徒・生徒の親らが登場しその心情を明かしていく。

「犯人の話」をクラス全員にしたことで、そのクラスの中に生まれるものとは
「少年法」に守られた14歳以下の人間の「犯罪」を警察や司法を関はらせづに「裁く」こととは
「学校」で子供が孤立してゐるのか否か、他の原因があるのか把握できない親が子供が「ひきこもり」になつた時の心情
「溺愛」を受け成長した子供の心情
「自分を信じきつてゐる」無神経人間(この場合教師)
小さい頃に両親が離婚し母親と離ればなれになつて以来、「母」を求め続けてきた「子」の心情

これらの要素が詰め込まれた作品。

その中でも、「少年法」に守られた14歳以下の人間の「犯罪」、未成年者の犯罪の被害者の心情が「投げかける本当の更生」とは・・・・・・

これがこの作品のテエマなのかな・・・・と思ひつつ読んだ。 


わたしが明日殺されたら

2011年07月17日 09時22分06秒 | 人物伝、評伝 (自伝含)

フォージア・クーフィーの半生記。

フォージア・クーフィーはアフガニスタン次期大統領候補とされる女性。1975年アフガニスタン北部のバタフシャン州生まれ。父親には7人の妻がいて、子供は総勢23人、その19番目にあたる。生まれたとき女児であるため、炎天の屋外に放置され危うく死にかける。
 子供をそんな目に遭わせたことを母親は後悔し以後彼女の教育に熱をいれ、アフガニスタンの女性には極めて珍しい高等教育を施す。
 内戦により父や兄弟を殺され、タリバン支配下で夫も拉致拷問のすえ病におかされ、死亡。彼女自身も幾度も死地を潜り抜けてきた。
 2002年から2004年までユニセフで児童保護担当官として働く。2005年アフガニスタン国会の下院議員選挙に立候補して当選。下院副議長に就任した初めての女性となる。2006年にはアメリカにわたり、当時のファーストレディのローラ・ブッシュやコンドリーサ・ライス氏と会談。

今までに、イスラム教圏内で活動してゐる「団体」に関する本を読んだ。その団体とは世界から「テロリスト」と言はれてゐる団体で、ジハアドといふ考えを持ち、異教徒を追い出し攻撃することに力を注いでゐる。 そして、それらの本の主役は男性であり書き手も男性であつた。イスラム教では、「主役」となる男性である。

が、女性の考えで書いたものは見たことがなかつた。イスラム教と言ふと、女性はブルカといふ黒い布で全身を覆い、顔も目だけを出して隠し、親戚の男性を伴はないと外出も出来づ、選挙権や発言権も無く教育も望むやうに受けられない・・・といふイメエジがあつた。女性で顔を出してゐるイスラム教の人を観ると、その宗派の違ひが如何なるものなのか興味があつたが、本人にあれこれ訊くことはできづ、不思議な宗教だといふイメエジがあつた。

なので、この本を手にしたのは
 女性がイスラム教圏での生活をだう過ごしてゐるのか
 女性はイスラムの教えをだう捉えてゐるのか
がわかるのではないかと思つたからだ。

本書を読んで、いかにアフガニスタンに対して「誤つた」情報といふかイメエジが伝達されてゐるか・・・といふことであつた。

タリバン支配下に於いて、元の政府下で警官を勤めてゐた筆者の兄は逃亡を図る。しかし、タリバンは筆者の家に訊問に来て(その訊問のやうすも、かなり非人間的)、帰宅してきた夫をいきなり逮捕し連行する。その後、夫は3度ほど逮捕・拷問を受けることとなる。

 その他、タリバンは博物館の略奪アフガニスタンの歴史を反映する多くの遺物を破壊、バーミヤンの大仏を吹き飛ばす。
 次にタリバンは学校や大学を焼き、書物を燃やし、文学作品を発禁にした。一瞬のうちに、カブール市民が当然と思つてゐた生活の多くが失はれる。公共の場での結婚式も禁止し、結婚式が行なはれてゐる場に乗り込み、破壊行為と暴力行為に及ぶ。また、ブルカを着用せづにヘツドスカアフしかかぶつてゐない女性を殴つたり、白を着てゐる人々を殴つた。(白はタリバンの色とするため)

このやうすは「第Ⅱ部 戦う、生きる、生き抜く」(P133-226)に詳細が書かれてゐる。イスラムのイメエジがこのタリバンによつて、かなりゆがめられてゐることがわかつた。筆者は娘たちに手紙を書き、それを収録してゐるがその手紙で興味深い記述がある。 

「わたしたちの信仰は平和で、忍耐強く、愛情にあふれていて、人間すべてに権利や平等を認めるものなの。女性としてわかつていてほしいことがあるの。真のイスラムの教えはあなたたちに政治や社会についての権利を認めています。あなたたちには尊厳と自由が与えられているの。教育を受け、夢を追いかけ、自分なりの人生を生きる自由がね。イスラムの教えはまたあなたたちに、礼儀正しく、つつしみ深く、すべての人に親切にふるまうように求めていますけれど。この教えは地上の世界で正しく生きるための真の手引きなのよ。お母さんは自分をイスラム教徒と呼ぶことを誇らしく思います」(P147) 

ここを読んで、自分のイスラム教の知識がかなり間違つてをりイスラム圏で女性は卑下された存在ではないのか・・・・・と考えた。この人の兄たちも、この人が学校に行くことを反対してゐない。非イスラム教徒から見ると違和感を感ぢることが多いのだが、異教徒があれこれ口出しすることではないのだ、と思ふこととした。

そして別の手紙や筆者の体験でも表れてゐるが、アフガン女性の勇気がすごい。これは、イスラム教の大切な教えの一つ「だれであれ戸口にやってきた人を決して追い払ってはならない、なぜなら、あなた自身がいつ他人の戸口で慈悲を請うことになるかわからないからだ」(P164)に従つてゐることの表れなのだらうか? 筆者の兄がタリバンに追はれてゐたが、「顔見知り」の間柄でも匿ふことを承知する。

タリバンといふ人たちは、一体イスラムの教えの何を理解してゐるのだらう?と本書を読んで思つた。ただ、コーランとイスラムの教えを利用し「神の名」を利用してゐるだけではないのか?としか思へない。

この人の行動がタリバンの気に入らないため、タリバンは筆者を殺さうとしてゐる。今までにも攻撃や脅迫をしかけてゐる。しかし、この人は屈しない。本書の原書の題名は「Letters to  My Daughters」であるが、この人はきつと、いつ自分が死んでもいひやうに子供たちに学んでほしいこと、これからの生き方への道しるべの気持ちで書いたのだらう。この本はこの人の娘さんたちだけでなく、他の人たちの道しるべにもなると思ふ・・・ 


ST 警視庁科学特捜班 黄の調査ファイル

2011年07月14日 11時51分01秒 | ミステリー・推理

今野 敏氏の作品。

今野氏は多くの警察関係の作品を発表されてゐるが、本作品は一風変はつた人たちが「警視庁科学特捜班」のメンバアとなつて事件を解明していく作品である。 この一風変はつた人たちのそれぞれが、面白い。

恐ろしい美貌の持ち主で心理学のエキスパアト、筆跡官邸からプロファイリングまでこなす青山 翔。
極度の閉所恐怖症であり、人間の耳には聞こえない音までも聞き取る聴覚の持ち主の結城翠。
法医学専門の赤城左門。
嗅覚が以上に発達し、人間の汗の成分まで嗅ぎ分ける化学事故専門の黒崎勇治。
薬学専門であり、実家が曹洞宗の寺で僧籍をもち作務衣姿で現場に現われる山吹才蔵。

この5人をメンバアとするSTと呼ばれる特捜班をまとめるのが、キヤリアでありながら気の弱い百合根友久。

今回の事件は、マンションで男女4人が七輪を囲んで死んでゐるのが発見されその4人が宗教団体に通つてゐることが明らかになる。捜査を進めるうち、この4人といつも行動をともにしてゐた1人がゐることがわかる。また宗教団体の幹部の「対立」も明らかになり・・・・・

「ST 科学特捜班」シリイズは数冊読んだが、この作品で感想を投稿しやうと思つたのは山吹の寺で座禅を組み、作務を行なひ、僧侶のやうな一日を過ごし「禅」の考えをなぞるやうな場面があり、台詞があり、考えたところがあつたためだ・・・ 

引用すると長くなるが、山吹が一枚の落ち葉を拾い「これが般若だ」と言ふ。なぜ落ち葉が「般若」なのか?

「(前略)新芽から燃えるような夏の緑を経て、やがて色づき、地面に落ちた。つまり、葉としての役割を終えたのかもしれない。あれはブナの木です。ブナの木は、自分の身を守るために葉を落とすのです。厳しい冬に向かい、水分を保ち、養分を蓄えるために葉を落とす。そうした、自然の営みの結果、あの葉は、あそこに落ちていた。しかしそれですべての役割を終えたわけではありません。葉は積もり、地中のバクテリアに分解されて腐葉土となり、木々の栄養分となります。そこにも、自然の営みがある。その営みの瞬間瞬間に、葉は美しさを見せてくれる。これこそ、仏性だと思います。悉有仏性です。さて、今度は、あの葉が散る瞬間のことを考えてください。ブナは冬が近づき、葉を散らす準備に入ります。準備は整ったがいつあの葉が散るかは誰にもわからない。機が熟していく。熟して熟して、熟しきった瞬間にごく自然に葉が落ちる。そのはらりと落ちる瞬間が般若を悟る瞬間です。学び、考え、悩み苦しんでも、なかなか真実は見えてこない。それは、機が熟していない証拠です。本当に機が熟せば、あの葉が自然に散ったように何かが見える。何かを感じる。その瞬間を、私たち(僧侶)は大機と呼んでいます。」(P244)

なんか、この台詞に「人生」を見たやうな気がした・・・・ 人の一生と、その一生のうちで人が過ごす一部の時間が、現れてゐるやうに思つた。 今野氏は、この台詞を思ひついたのだらうか、それとも何か禅の本を参考にされたのだらうか・・・?

そして次の台詞にも・・・・・・
「私は、足もとの一番近くにある葉を拾いました。木から落ちた葉は、風に流されどこに行くかわかりません。また、作務で掃かれてしまっていたかもしれない。私が葉を拾おうとしたその瞬間に、あの葉はあそこに落ちていた。ほかのどの葉でもない。あの葉です。あの瞬間がなければ、私たちはあの葉と出会っていなかった。その出会いもまた尊いものです。縁は一瞬です。その縁をとらえなければ、もう一生出会うことはない。(後略)」(P245)

一生と、その中の時間と、縁 ・・・・・・

上手く言へないが、感動しつつ、考えた・・・・・・