読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

反「人権」宣言

2012年05月29日 16時08分41秒 | 社会・報道・警察・教育

八木 秀次氏の著書。

過激と思へる書名だが、一読の価値がある、といふよりも必読すべきであらう。

最近、やたらに 「人権人権」と言ふ言葉を耳目する。 いかにも聞こへのいい言葉であるが、反面これを乱用してゐると思はれる人たちもゐる。

ここに、ツイツタアで見た小学生の秀逸な絵がある。まさに、その「乱用」してゐる人たちの本質を突いてゐる。この絵をみた教師はこの生徒を罵倒といふかすごい勢いで叱つたらしいが、なぜ叱るのであらう?

それはまさに、本質を「洗脳しやうとしてゐたはずの子供に暴かれた」からであらう。人権などと喚く人間の本質なんてそんなものだ。

今、大変危険で法律の名称と中身が全く違ふ法案の国会提出がささやかれてゐる。今までも散々廃案になつてきたその法案は、廃案になるたびに名称が変はつて復活してくる。

人権擁護法案、人権救済設置機関法案 ・・・ このいかにも「人のため」になりさうな名称の法案の中身は、実は人権弾圧と人権侵害の内容である。しかも、外国人が日本人を弾圧・侵害する内容なのである。  是非この法案名で検索し、その中身とそれを解説してゐるブログがいくつかあるので一読をお願ひしたい。

生活保護不正受給として会見した芸人の所属事務所が、「プライバシイの侵害で重大な人権侵害」と不正の追及を非難するやうな声明文を出したが、この件が「人権」と言ふ言葉を振り回す人たちの本質をよくあらわしたのではあるまいか?

不正をしてゐないのなら、きちんと出てきて説明すればいいのにいきなり「人権侵害」と言ふ言葉を持ち出して追及者を悪に仕立て、相手を戸惑はせ黙らせると言ふ手段に「人権」と言ふ言葉を利用したのだな、といふ印象を持つたのはあたくしだけではあるまい。

多くのツイツタアが「この件で人権擁護法案(人権救済機関設置法案)の危険性がわかつた。この法案が通つたら不正行為の追及も出来なくなる」とつぶやいてゐたが、同感である。

また、その目的でこの法案を通そうとしてゐる輩がゐるのだといふことを日本人は認識し、やたらに「人権」といふ言葉にへりくだらないやうにすべきである。

本書は、その助けをしてくれる良書である。

「はじめに」で八木氏は次のやうに述べる。 

「日本人の多くは、『人権』という言葉を極めて好意的に理解している。たとえば、『山川草木悉有仏性』『一寸の虫にも五分の魂』という表現に象徴されるような、『生きとし生けるものに対する深い慈愛の念』くらいに理解している。日本人の宗教観に基づいた生命対する慈しみの情を『人権』に重ね合わせようとしているのである。また天皇が国民のことを『大御宝』と呼び、国民相互にも一人一人を大切にしてきた歴史を反映して、その思いを『人権』という言葉の中に読み取ろうとしている」 (P11-12)

「しかし、それは”麗しい誤解”と言うべきものである。『人権』は本来、そのような日本人的感覚とは全く異質のものなのである。何より我々は『人権』がもともと西洋出自の翻訳語であることに改めて思いを致す必要がある」 (P12)

 「つまり『人権』という言葉が示しているのは、いかなる共同体にも属さず、歴史も文化も持たない、また宗教も持たない、全くのアトム(原子)としての『個人』という人間観、人間像なのである。(中略)その意味では『生きとし生けるものに対する深い慈愛』という日本的な『人権』理解は、まったくもって”麗しい誤解”というほかはない。」 (P13)

「私がこれから明らかにしたいのは『人権』という概念のイデオロギー性についてである。
 『人権』という言葉が本来持つているイデオロギー性が理解されれば、多くの人々が率直なところ『人権』に覚えている違和感も根拠のあることが分かってくるだらう」(P13)

として、第一部で「人間の権利としての『人権』」の概念が誕生するまでの歴史をたどり第二部で「八木氏が『人権』に違和感を覚えた具体的な問題」について詳細な検討を加へてゐる。「具体的な問題」とは「子供の人権」に振り回される教育現場、少年法性、「家族と人権」、「女性の人権」である。

第二部だけ読んでも、自分が体験していることが多いのですごく勉強になる。「人権」という言葉を「援用(と八木氏は言ふが、実際「乱用」だと思ふ)」してよくまあ、こんなこぢつけといふかむちやくちやを論述するものだと思ふ。

個人的に違和感を最も感じるのは「男女平等」を謳う「男女共同参画社会」とやらである。いわゆる「ジェンダー・フリー」のことである。
「ジェンダー・フリー」とは「男らしさ」「女らしさ」、そこから派生した「父性」「母性」を否定する(フリーにする)ことであり、「男女の区別自体を『差別』であると否定し、男女の区別をする意識、男女の区別に基づいたあらゆる制度・慣行を敵視して、その解消・解体なくしては『真の男女平等』はできないとする発想」(P183)らしいのだが。

なぜそんなことをする必要があるのか不思議である。 そして、わかりやすい例として千葉市の男女共同参画課が発行する広報誌「ハーモニーちば」(平成12年8月号)に「カタツムリは雌雄同体。”結婚”すると、両方の個体が土の中に白くて小さな卵を産みます。同じ一匹で雄の気持ちも雌の気持ちもよくわかるなんて、ちょっぴりうらやましいような・・・」を紹介している。(P183)

うらやましくもなんともない。カタツムリはさういふ生物なのである。なんで人間とかたつむりを比べるのであらう? そもそも、かたつむりは双方の気持ちんかないと思ふぞ。ただ、生物学的に生殖器が一緒なだけで、双方の役割を個体で行ふだけの話である。
人間は雄雌別個の生き物であり、それぞれの特徴がある生き物であり生殖器は各個体に別に存在してをり、各個体が所有する機能を使用して繁殖する生物なのである。わざわざ雌雄同体の生き物と比べる必要はない。

ここからして、異常である。

このカタツムリのねらいは、八木氏曰く「従来の男女の性別意識を取り払い、世の中を改変してしまおうという発想」らしい。

すごいな、これ。 それでゐてこの人たちは「個人」を尊重しやうとか言ひだすが、そもそも「男女の区別」を否定してゐることから「個人」を否定してゐるのではないの? カタツムリといふ、人間と全く異なる生物を引き合いにだし、人間を否定してカタツムリのやうに男女は一緒になりたいですね、と言ふ発想は、自分個人の受ける印象として「個人を尊重するどころか個人の否定」に思へる。この発想で行くと、生物学的に生じる男女の肉体的な差異にだう対応していくのであらう?

そして「家族否定」につながり、夫婦別姓だのにつながつて行く。 この背景はマルクス・エンゲルスの主張に基づくのだが、それを実践してすでに「失敗して政策を見直し、家族の強化策を取つた」ソ連の例がP167-181に書いてある。

とどのつまり、失敗例があるのに、しかも自分たちが大好きな社会主義の失敗例があるのに、現実を見ずに理想(妄想?)を述べ「人権」と言ふ体のいい言葉で日本を破壊に導いてゐる・・・と思へてならない。

日本の教育現場でのこの思想の実例がP187-192に書いてあるが、はつきり言つて余計なお世話である。

「男の子は手芸クラブに入らないほうがいいと思う」「重いものを運ぶ仕事は男の子に任せたほうがいいと思う」「裁縫や料理は女の子に向いていると思う」等々、「はい」「いいえ」に〇をつけ「固定的な性別役割意識」にとらわれた「コダワリ度」として否定させ、生活の具体的なレベルで性差の意識を解消させようと誘導してゐるらしい。 

あの、これ、何をだう思はうと人の勝手ですよね?とどのつまり、社会主義者が大好きな「個人」の勝手ですよ。なんでそんなことをいちいち「是正」させやうとするの? ここでも「個人の尊重」をするのではなく、「自分たちの物差に合はない個人の否定」だと思ふ。 

基本的に社会共産主義は、建前をよくしていかに「個人を統一させるか」に終始してゐるやうだ。だから、独裁者が出てくると国民を弾圧したり情報を閉鎖したりして、「自分の思ひどおり」にさせやうとするのであらう。 

日本国憲法の改正案として自民党が出した案をざッとみると。

物すごく、違和感を感じる。社会主義丸出しの条文があつたりする。 それでなくても、日本国憲法はスターリン憲法やらフランス人権宣言、アメリカ人権宣言等社会主義の色が濃い書物を引用して作成したものである。

日本人は、教科書と学校、それに関連する日教組の団体から派生する市町村のパンフレツトや広報誌、マスゴミの言ふことを全面的に疑ひ、破棄し「反論」を読むべきだ。 また、相手の言ふことや書いてあることをなんでも鵜呑みにしないで、「反対の意見」を探してみるべきだ。

八木氏が指摘してくれてゐるやうに、「日本人の”麗しい誤解”」のとおりの意味なのか自分でよく精査し考へるべきだ。  

そのためには「社会主義の思想がどんなものか」を知つてをく必要がある。社会主義の思想、は耳触りの良い言葉ばかりが並んでゐる。しかしその裏に隠れたものがだういふものか。フランス人権宣言の後に実際どんな政治が行なはれてゐたのか、歴史があるのだから知つてをくべきだ。

わかりやすいのは、テレビや新聞が連呼する耳触りのいいキイワアド、これに要注意であらう。


憲法の常識 常識の憲法

2012年05月16日 16時48分09秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

百地 章氏の著書。

百地氏は昭和21年静岡県生まれ。京都大学大学院法学研究科修士課程修了。愛媛大学教授を経て、平成6年より日本大学法学部教授(憲法学)。著書に「靖国と憲法」「政教分離とは何か」「憲法と政教分離」「国家を見失った日本人」「新教育基本法の提言」など多数。趣味はジョーク、といふ経歴の持ち主である。

先に投稿した八木秀次氏の憲法に関する著書を読んでゐたので、多少専門的な内容に偏つた感のある本書をスムウズに理解することが出来た。本書は良書であるが、先に一通りのベイスがあつて読むはうが理解を深めると言へやう。

本書の目次を先に出す。最初の部分は八木氏の著書と内容が重なるやうにも見えるが、百地氏の著書は憲法学者の説の記述があり、学界の見方など法曹界の動向がわかり、八木氏とは別の事柄を知ることが出来る。

第一章 国家と憲法
1 「国家」とは何か?
2 憲法とは何か?

第二章 占領下に作られた日本国憲法
1 日本国憲法の成立過程
2 日本国憲法の正統性をめぐって

第三章 象徴天皇制と国民主権
1 象徴天皇制について
2 「女帝論」への疑問

第四章 憲法九条をめぐって
1 成立過程
2 第九条の解釈と問題点

第五章 「公共の福祉」と人権の限界

第六章 外国人の人権

第七章 政教分離について
1 政教分離とは何か?
2 首相の靖国参拝をめぐって

第八章 憲法改正問題について

八木氏の著書と内容が重なる部分は省き、ここではまたもや左翼日教組が大嘘を吐いてをりマスゴミがきちんと真実を報道してゐないことを百地氏が本書に記述してくださつてゐるので、それを抜粋していく。 

この抜粋を流し読みするだけでも、学校の授業が大嘘、教科書が大嘘とわかるはずだ。民主党政権になつてからさらに嘘に拍車がかかつてゐるさうなので、教科書やマスゴミは信用せず騙されないやうに自分で調べることが重要である。その手助けになればと思ふ。

「現在の憲法学界において、今なおきわめて大きな影響力を持ちつづけている学者と言えば東大の宮沢俊義教授や芦部信善教授(いずれも故人)であらう。 (中略) 芦部教授によれば、
①日本国憲法の自律性はもともとポツダム宣言による条件つきのものであったこと、
②そのポツダム宣言は、日本国民による民主的で平和的な政治形態の樹立、つまり国民主権や基本的人権の尊重を求めるものであったから、この原理にもとづいて憲法を制定することは必要不可欠であった。にも関わらず、
③当時の日本国政府はポツダム宣言の歴史的な意味を十分に理解することができず、自分の手で近代憲法をつくることができなかった。 一方
④当時公表された民間の憲法草案や世論調査から判断すると、かなり多くの国民がマッカーサー草案の価値観に近い憲法草案をもっていたといえること、さらに
⑤完全な普通選挙によって、憲法改正案を審議するための特別議会が国民によって直接選挙され、「審議の自由に対する法的な拘束のない状況の下で草案が審議され可決された」ことを総合して考えると、日本国憲法の制定は不十分ながらも自律性の原則に反しない、と考えることができるのではないか」 (P46-47)

この点を 48頁から69頁にわたり百地氏が詳しく「実態」を説明してゐる。
かいつまんで記述すると

ポツダム宣言は「条件降伏」を要求するものであるが占領が開始されると、アメリカ本国より通達が9月6日に届く。それは以後日本の占領統治を「無条件降伏」の立場で行うというものであった。これは一方的な条約内容の変更であって、明らかにポツダム宣言違反とみなされなければならない。

教科書の嘘が一つ明らかになりました。

またポツダム宣言はその八つの条件の中に憲法改正など明記していない。マッカーサーが憲法改正を初めて取り上げたのは昭和20年10月4日のこと。相手は近衛文麿国務大臣であった。マッカーサーは10月11日に幣原喜重郎首相に憲法改正を示唆するが、幣原は消極的であった。

幣原首相はその後政府内に憲法改正の必要性があるかどうか調査するために憲法問題調査委員会を設置。松本烝治国務大臣は12月8日議会で憲法改正の大綱(松本四原則)を発表。
① 天皇は統治権の総攬者であること  ② 議会主義の強化  ③ 国務大臣の議会に対する責任の拡大(議員内閣制の明記) ④国民の自由、権利保障の強化
の原則をふまえて松本案を作成するがGHQは全面的に拒否しマッカーサー草案を出してくる。

教科書やマスゴミは松本案があまりに保守的すぎ国民の意識とかけはなれてゐたので拒否したと言ふが、昭和20年末ごろから21年の初めにかけて各政党が憲法改正案を発表してゐる。その内容は日本自由党「天皇を統治権の総攬者」、日本進歩党「天皇を統治権者」、日本社会党が「主権は国家(天皇を含む国民共同体)」であり、国民の意識とかけはなれてゐたといふのは事実と反する。

教科書の嘘、マスゴミの嘘はだうしてこんなに次々と出てくるのでせう? 左翼と日教組が大嘘吐きといふいい証拠ですね。

最近顕著に 「人権」と連呼する輩が目立つてきた。 人権擁護法案、人権救済機関設置法案等々「人権侵害をなくさう!」的なことを装ッてゐるが、実はこの法案そのものが「日本人に対する人権侵害」法であることはネツト検索をするとすぐにわかる。条文の発表も出てゐる。

百地氏は第五章で 「公共の福祉」と人権の限界 として、最近「人権」と騒ぐ輩の主張を検証されてゐる。 個人的には 「人権」ッて主張するのは勝手だが、人に迷惑かけるなよと思ふ。 人権人権と主張する輩に限って、自分の人権ばかり主張し他人の迷惑など考えない。自分の要求ばかりを「人権」の言葉を乱用して主張する。 大抵の人は避けるかその場を我慢してやり過ごすかもしれないが、これは迷惑をかけられてゐるはうには「立派な人権侵害」だ。

それに気づかず、人権人権と主張する輩は信用できない。お互いに譲り合ふと言ふ発想もない。大抵日本人の発想にはないので民族的に違ふ傾向が大変強い。 人権人権と主張して他人に不快な思ひをばらまくのは、憲法の「公共の福祉」に反すると思ふ。 

ところで自民党が憲法改正案を発表したが、あらうことか「公共の福祉」といふ文言を削除してだらだらとした言葉に置き換へてゐる。 自民党は最初から陰に隠れたとんでもない民主以上の売国だが、こんなところでぽつぽつと売国が出てゐる。 

第六章 外国人の人権では、売国政党が必死こいてやらうとしてゐる「外国人参政権」についての解説がある。一読をおすすめしたい。
結論 : 外国人参政権は、憲法違反

賛成派は納税を根拠にあげるが、納税の有無や納税額に関わらずすべての青年男女に選挙権を与えるのが普通選挙権制度。外国人は納税の見返りとして警察、消防、水道などさまざまな公共サービスを受けており、納税と参政権は別。しかし、別のおぶろぐで「実は税金を払つてない外国人」といふことが明らかになつた。 リンク先を参照されたい。参政権などとんでもない。まず税金を払へ。

在日外国人は母国に住む親戚まで扶養控除に取り所得税を0にできることを日本人は知るべき
http://ameblo.jp/hourousya0907/entry-11125315013.html

百地氏はほかの根拠の検証もあげてをられるのだが、ここでは賛成論者たちが「最高裁判決で認められた」と大騒ぎする判決の検証もP157-160にあげてをられるのでざッと紹介したい。

平成7年2月28日の最高裁判決で「永住外国人に対して、地方自治体レベルに限り選挙権を付与することは憲法上禁止されていない」と主張してゐるらしいのだが。
肝心なことは、この主張の根拠が「傍論」つまり判決の結論とは直接関係のない、たんなる裁判所の意見表明にすぎず判例としての効力はもたないことである。それをねじまげて「最高裁判決が認めた!」とやつてゐるのである。

嘘吐き民族といふのは、現実をきちんと検証せずに自分たちの都合の良いやうに事実をねじまげて大騒ぎし、既成事実を作つてごり押ししやうといふ傾向があるやうだ。ゆへに、ウジテレビをはじめとして日本各地そして世界でもごり押しが嫌はれてゐる。

話がずれたが。この判決は「本論」の部分では選挙権が「権利の性質上日本国民のみ」を対象とし、「外国人には及ばない」こと、そして「国民主権の原理およびこれに基づく憲法15条1項の規定の趣旨に鑑み地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素をなすものであることをも併せ考える」と憲法93条2項の「住民」とは「日本国民」を意味するとしたうえで、同条は「外国人に対して、(略)選挙の権利を保障したものということはできない」と明言してゐる。だが、先にあげた「傍論」が「本論」と矛盾してゐるといふ問題があるのだ。

しかし、判決そのものを無視して何を騒いでゐるのかと思ふが朝鮮人は「最高裁が認めた」と言ひつづけるであらうから、百地氏の解説を思ひだして騙されないやうにしませう。

第七章 政教分離について、ここは靖国参拝だけでなくずッと疑問に思つてゐた「公明党は政教分離違反ではないか?」に答えてくださつてゐた。
公明党は、首相の靖国参拝に反対してゐるさうであるが。

「政教分離とは本来、政治と宗教の任務と役割を区別し、たがいに介入・干渉しないことを意味するものであるから宗教団体の指導者の意のままに政治が行われるようなことは絶対にあってはならない。それゆえ、宗教団体といえども選挙活動を行ったり、自らの利益代表を議会に送ったりすることができることは当然であるが、そこにはおのずから限界があるはずであり、『統治権の行使』に当たらなければいかなる政治活動も許されるとみるのは、それこそ政教分離の意味を正しく理解していない証拠である」(P194)

そしてここで驚くべき記述が出てくる。

「平成10年8月から9月にかけて朝日新聞紙上に連載された竹入義勝・元公明党委員長の回顧録によれば、公明党の人事権、財政権は創価学会にあることは明らかであって「委員長を引き受ける時から人事権は学界にあると、明確にされていた。選挙にしても人事にしても、党内はみな学会を向いている」、そして「公明党は財政、組織の上で創価学会に従属していた」という。(9月17日)。つまり、公明党と創価学会とは事実上一体であって、同党が池田大作名誉会長の意のままに支配されていることは広く知られているとおりである。」(P195)

これは完全な憲法違反ではないか。やはり憲法違反だつた。ついで選挙前にはがきなどよこすの止めろ、電話もやめろ、個人情報保護法違反までしてゐる。(だうやつて調べてゐるのか?)

本書に戻る。
「にも関わらず公明党は、問題だらけの政府見解(憲法20条1項後段の「いかなる宗教団体も(略)政治上の権力を行使してはならない」というくだりについて、「政治上の権力の行使」とは宗教団体が国から正式に統治権、たとえば課税権や警察権などを与えられてそれを行使することと解している)を唯一の根拠として自らの行動を政教分離違反ではないと言い張つてゐる。と、すれば首相の靖国神社参拝についても、政府見解を根拠に政教分離違反には当たらないと解釈するのがスジというものである。一方では政府見解をもとに自らの行動を正当化し、他方では政権与党(当時)の立場にありながら政府見解を否定するというのは明らかに矛盾であって、ご都合主義も甚だしいといえよう。」(P195-196)

さすが、朝鮮人母体の創価学会ですね。やることが一緒です。

本書は憲法改正にも触れてゐるが、現行憲法の下での現実的な問題の検証がためになる。百地氏の他の著書も読んでみやうかと思ふ。 


日本国憲法とは何か

2012年05月12日 19時53分32秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

八木 秀次氏の著書。 先に投稿した「明治憲法の思想」の姉妹版と言へやう。

八木氏も書かれてゐるが、日本国憲法については教科書で繰り返し出てくるし、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄」などが「輝かしく」語られる。

しかし、この裏の部分がだうであるか?

これを八木氏が最初から順に説明してくれてゐる。

「学校で教わった日本国憲法の捉え方は実は一方に偏ったものだということを認識する必要があるのです。

日本の教育界では、教職員組合が非常に大きな影響力を持っています。ですから当然学校で使われる教科書も実際に使用する、あるいは実際の採択権を持っている先生方、つまり教職員組合の意向を反映したものになっているのです。

小学校、中学校、高校で教わる日本国憲法の捉え方というのは、いわば教職員組合の主張、教職員組合がこう理解してほしいという彼らの憲法理解、これが反映されていると考えていいのです」 (P16)

成程、確かにそうだ。 反日の日教組がやることは嘘も多い。さうなると天皇制を否定すべく明治憲法を悪者にして、日本国憲法がその呪縛を解き放つた素晴らしい憲法だ、戦争の放棄だ、主権在民だ!!ともてはやす方向になつてゐる。

次に八木氏は 「憲法」の意味について述べる。

憲法の意味は一つには「組織とか構成、あるいは体制とか(中略)その国の政治の在り方や、それが拠って来る伝統や文化、またそういったものを記しているもの、これが本来的な意味での憲法です」 (P20)

「しかし憲法にはもう一つの意味があります。(中略)社会契約説の”物語”に基づいて国家と国民との間で交わされた契約のことであり、そこでは国家というものは国民の権利を守るために必要とされ、設立されたのだと理解されています」(21-22)

八木氏は日本国憲法は明治憲法が謳つてゐた「本来の憲法の意味、その国の政治の在り方や、それが拠って来る伝統や文化、またそういったものを記しているもの」がなく社会契約説に基づいたものにのみ偏っていることを説明してゐます。

理由は八木氏がP23に書かれてをりますが、「日本を占領した米国が二度と米国の脅威にならないよう、精神的な部分を骨抜きにするという側面があった」わけです。

なので、「戦争放棄」をいう条項を入れ 「『日本は自らの過去を反省し、一方的に断罪される存在でなければならない。そして日本はそれまでの歴史と切り離され、新たに出発する』、こういう物語をつくらなければなりませんでした。日本国憲法とはまさにこのような”物語”を根づかせるためのものだったのです」 (P23)

ほんたうにこの60年、それを歩んできたよな。ゆへに、この憲法をそのまま用いて「改正」などとしてゐる自民党は大馬鹿であり、国の恥だ。

さらに読み進むと、嘘吐き左翼の化けの皮がはがれる記述が出てきます。

「護憲派」「9条擁護」などと耳触りのいいことを言つてゐる社民共産。この本性が書いてある。

「現在の社民党の前身である日本社会党は憲法改正を昭和21年から翌22年あたりにかけて唱えています。その理由は、日本国憲法には彼らが信奉する社会主義の要素が不足しているということでした」 (P28)

「社会主義の要素」とは何か? ここで八木氏は「法律時報(1949年4月号)」に掲載された社会主義にシンパシーを持つ学者の論文「憲法改正意見」を引用する。

「『日本国民』という文言を『日本人民』に改めること、天皇制を廃止して共和制に改める事など日本国憲法の本質的改革を訴えています」

Σ(・ω・ノ)ノ!  

すごいですね。 憲法改正反対、といふのは反日が日本を否定しなくすためのもので、ほんたうは自分達が敬愛する社会主義の内容に変へたいのですね。
左翼の言ふことは絶対に信用するのはやめませう。

大体、天皇制に反対なら移住して好きな国に行けばよい。世界中天皇制が無い国だらけだ。 国籍も取得すればその国にずつといられるんぢやないですか?

共和制の国に行けよ。日本国は古事記にあるとおり、天皇陛下の国なのです。

全く、古事記や神話を読ませず、こんな日本をなくすための憲法といふ名の法律を延々読ませてゐたわけだから、自民党の政治屋のやうな「無知」がごろごろゐるわけだ。

八木氏は日本国憲法を否定する立場ではない、それはご本人が明言されてゐる。

否定するのではなく、日本といふ国の政治の在り方や、それが拠って来る伝統や文化、またそういったものを記しているものとして満たしてゐないこと、また条文も一度も改正されてをらず、解釈ばかりを変更して条文と正反対の事柄を「解釈」の元に行つてゐる問題点を書いてゐる。

上記は第二章の問題点の部分までである。 第三章 日本国憲法の系譜 に読み進んだ。

そこで呆れることが書いてあつた。

第二章でも八木氏は日本国憲法を改正せずに条文の解釈をむりやりねじまげて条文の規定を正反対のことが行なはれてゐることを指摘してゐたが。

直接民主主義は国民主権原理のもっとも望ましい実現方法である、といふ記述が現れる。

それは日本国憲法が標榜してゐる国民主権をルソー流の人民主権論に解釈しなおしてゐるからださう。

今回はもつと基本的な矛盾。

日本国憲法の三大原則のうちの一つ、「国民主権」。それを裏付けるかのやうに高校の政治経済の教科書に直接民主主義は国民主権原理のもっとも望ましい実現方法である、といふ記述が現れる。

それは日本国憲法が標榜してゐる国民主権をルソー流の人民主権論に解釈しなおしてゐるからださう。

「ルソーは「社会契約論」(1762年)の中で人民集会などの直接民主主義的手法を礼讃し逆に代表民主主義をこき下ろしています。主権者が直接行動することが求められているのであって、代表民主主義を採用することはできない。人民は集会したときだけ、主権者として行動しうるであろう、というのです。(中略)

ルソーはこう言っています。『人民の代議士は・・・一般意思の代表者ではないし代表者たりえない。彼らは人民の使用者でしかない。彼らは何一つとして、決定的な取り決めをなしえない。人民みずから承認したものでない法律は、すべて無効であり、断じて法律ではない』

さらにルソーがイギリスの議会制度を悪しざまに批判するのは有名な話です。
『イギリス人は自由だと思っているが、それは大間違いだ。彼らが自由なのは議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり無に帰してしまう』『人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる』(P62-64)

すごいですよね。

ルソーの社会契約論に従って解釈した内容を高校生の教科書に載せてゐるのですが、ルソー当人の主張と正反対といふ事実。

なんですか、これ?

若人よ! 卒業のために割り切つて点を取り、その他の時間は教科書と正反対のことを書く良書を読みたまへ!!

あたくしは過去騙された一員として、これからも「事実を書く良書」を紹介していく!

といふ具合に、本書では米国スタツフが日本国憲法を作成するにあたり、スタツフ自身らが「憲法には素人」の人たちが集まり1週間ほとんど徹夜で草案を作成するにあたり、参考にした「スタアリン憲法(ソ連)」やマルクス主義憲法草案など「社会主義」をベイスにした参考書を元に日本国憲法が作られていき、その条文や思想の裏側にある「イギリス立憲君主制とコモンロウ (ジヨン・ロツクの「誤算」)P72-89,」 「独立宣言と合衆国憲法 - 伝統の「断絶」から「継承」へ (P90-109) 」「フランス革命と人権宣言 - ペインとルソーの「社会契約」(P110-131)」を語る。

目次だけを見ると「日本に関係ないぢやん」 と思ふこれらの欧州のものが色濃く「日本国憲法」の条文に影響してゐることを説明してゐる。それはそのはずである。

日本人が作つた憲法ではないからである。

その背景を述べたあとに 

第七章 明治憲法にみる日本の国柄
第八章 マッカーサー草案と日本国憲法
第九章 諸問題に対する考え方
第十章 改憲すべきはどこか

と続く。 特に、「明治憲法が天皇の絶対的権力を保障しその権力の下に侵略戦争を起こし植民地政策を行なつた」と主張する日教組はじめとした各憲法学者の妄想に現在騙されてゐるが

それが誤りだと丁寧に解説するのが第七章である。

よく授業で引用されるのは明治憲法第三条 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」である。ここは天皇陛下は神であり絶対に侵してはならないことを規定してゐると聞かされるのが通例であるが。

これは、明治憲法第55条とつながつてくる。 「第55条は「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス  凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス」 と規定されています。 

これは天皇の大権行使は国務大臣の副署がないと無効とされるということで、天皇の恣意的、個人的意思行為が排除されるという趣旨の規定です。ここは国務大臣の輔弼責任を明らかにすることによって、天皇の不可侵性、政治的・法的無責任を確保するという狙いがあります。

このような、大臣責任制ということを前提とすると、明治憲法第三条の「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラズ」という条文の解釈も違ってきます。今日の学校教育では「これは、天皇の神格性をあらわす表現である」という記述も見受けられますが、伊藤(博文)の認識によると、これは立憲君主制の国家においてはごくありがちな規定で、立憲君主としての天皇の無答責すなわち政治的・法的無責任の条項に過ぎません」

「この点に関して、明治憲法下において通説的な見解を形成した美濃部達吉の見解を紹介しておきます。「天皇が無責任である、つまり、無答責であるということは、国務大臣がその責任者である、したがって、すべての国政について君主が自分の御随意に専行したまうことはできない『憲法講話』」と美濃部は言っています。すべての国務について、天皇は国務大臣の輔弼によらなかければ大権を行うことがない、そのために天皇は無責任である、無答責である、という点を述べており天皇の不親裁ということを指摘しているのです。」 (P139-140)

ものすごい、戦後教育の 「嘘」 が明らかですよね。

左翼日教組とその教員は皇居と靖国神社で土下座して死ぬべきですよね。

第八章 マッカーサー草案と日本国憲法、では現在の憲法が出来上がるまでの裏話等があります。アメリカが日本を骨抜きにするのに如何なる手を使つたかが書いてありますがそのやり方は1907年のハーグ陸戦法規第43条に違反、大西洋憲章第三条の趣旨に違反、ポツダム宣言第十二条、バーンズ回答にも違反するという批判です。(P180)

ここまで読んで

みなさんは、自民党が「そんな違反した条文を元に『日本国憲法改正案』を出した」のをだう思はれるでせうか?

あたくしは、今までの60年を振り返り自民党は民主以上の陰湿な売国党と思つてまゐりましたが、ここでさらにその考へを強めました。

しかも自民党の改正案は、改正といふよりさらに「社会主義的に改悪」してゐます。 本書を読むとその理由がわかります。

本書の最後の部分で八木氏は「戦う民主主義」へとしてドイツの憲法を引き合いに出し、日本国憲法の欠点を語つてゐます。

「日本国憲法はあらゆる価値に対して、寛容に門戸を開いています。先ほど触れたように公務員など公職にある者が日本国憲法下での政治体制を暴力で破壊すると主張することは許されていませんが、民間人に関してはそれも許容されています。(中略)つまり、日本国憲法下の政治体制は、自らの体制を否定する勢力をも抱えこむほど寛容で、それだけ脆弱な部分を持っているのです。

日本国憲法と相前後してつくられたドイツ連邦共和国基本法(憲法)はその第十八条で基本権の喪失を規定しています。「意見の表明の自由、とくに出版の自由、教授の自由、集会の自由、信書、郵便および電気通信の秘密、所有権、または庇護権を自由で民主的な基本秩序を攻撃するために濫用する者は、これらの基本権を喪失する」と規定しているのです。

つまり、自由で民主的な基本秩序を攻撃する者に対しては、ここに掲げた基本的人権を認めないといっているのです。具体的には「共産主義者」と「ナチズムの信奉者」には認めないということです。

このように現在の政治体制の価値観と相容れない者には基本権を認めないというのは、自らの政治体制を守るためです。民主主義を守るためには民主主義を否定し敵対する者と断固戦う、そういう「戦う民主主義」という立場なのです。

これに対し、日本国憲法の場合は全てを受け入れる民主主義です。民主主義を否定する者にも寛容です」 (P226-227)

ここで八木氏は地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教をあげる。この宗教団体を騙つたテロリスト集団に破壊活動防止法を適用するかは公安審査委員会で否決され、オウムは名前を変えて未だに存続しその危険性は消えてゐない。これは日本国憲法の「すべてを受け入れる民主主義」が影響してゐるのであらう。

さう考えると、これはとんでもない悪法であり自民党が「公共の福祉」といふ文言を削除したことなどは大変な疑問である。

ここで八木氏の記述に戻る。

「日本国憲法は内側からその体制をひっくり返そうとする存在があるなどと想定していないからです。憲法は(中略)政府、具体的に言えば日本政府のもとにある軍部こそが日本国憲法下の政治体制に反する存在であると想定しており、軍国主義さえ除去すればよいという価値観を有しています。

外国勢力に関しては「平和を愛する諸国民」という位置づけがなされており、その世界観の下では外国勢力が日本で日本国憲法下の政治体制を顚覆させるなどということは全く考慮の外です。

日本国憲法下の体制では何を価値として守るべきなのか、こういったことをはっきり認識する必要があるのです。ある価値観を守るためには、それを脅かす存在に対して、毅然として立ちはだかる姿勢も必要です。そうでなければ守れない価値もあるからです。」(P228-229)

物凄い、欠陥法の悪法ですよね。日本国憲法が、一番日本の邪魔をしてゐたのです。あたくしは、こんな法を「改正案」として使用した自民党には絶対に投票しません。 自民党は改正案を作成するにあたり、明治憲法と日本国憲法をきちんと勉強したのでせうか?

「いずれにしても、日本国憲法は敗戦後「日本だけが悪うございました」「政府と軍部が悪うございました」という前提でつくられたものです。そのため、外敵も、内なる敵などもまるで想定されていません。そうした日本国憲法の限界が今日、様々な場面で露呈されているのではないでしょうか」 (P229)

内なる敵の例は本書

第九章 諸問題に対する考え方
第十章 改憲すべきはどこか

に詳しい。呆れるこぢつけ(もちろん嘘吐き左翼による)が展開されてゐる。この本を読んだら、日教組のはびこる公立学校など、子供を行かせる場所ではない。

いずれにしろ

日本国憲法を元に改憲など言つてゐる人は、ただの「みせかけ」の人なのだとよくわかりました。

日本国憲法なる悪法を破棄し、明治憲法を復活させ明治憲法を現代に合ふやうに改正すべきだ。


明治憲法の思想 日本の国柄とは何か

2012年05月10日 16時00分38秒 | 政治関連・評論・歴史・外交

八木 秀次著 「明治憲法の思想 日本人の国柄とは何か」

八木氏は専攻は憲法学、思想史。2002年、第二回正論新風賞受賞。「保守主義」の立場からの旺盛な言論活動で論壇の注目を集めてゐる方ださうだ。他の著書に 「だれが教育を滅ぼしたか」「反『人権』宣言」「本当に女帝を認めてもいいのか」「『人権派弁護士』の常識の非常識」共著に「国を売る人びと」「教育は何を目指すべきか」「夫婦別姓大論破!」「教育黒書 学校はわが子に何を教えているか」など著書多数。

上記の本は一度読みたいですね。特に「『人権派弁護士』の常識の非常識」「反『人権』宣言」。これらはとても面白さうです。
朝鮮福島みずほなどが顔を真っ赤にして激怒するのではないかと思はれる内容ではないかと期待ゐたします。

さて、本題に戻り今読んでゐる本ですが。

自民党が憲法改正案を出して得意げになつてゐます。予想通り朝鮮みずほが難癖をつけましたが、今の時代に朝鮮みずほの主張などうなづく奴はシナ人か朝鮮人でせう。日本の防衛といふ現実的な問題を全く無視してゐる。

自民党が改正案を出したものは、現行憲法を土台にしてゐる。自民党がサイトに出したやうに、現行憲法との比較があることでも歴然だ。

現行憲法は、みなさんご承知のとおり占領軍、つまり米国が3日ほどで作つたものであります。日本人に案を作らせたものの、民主化がなつてないとかいふ理由で却下し自分達で作つたのです。

これまでに言はれてゐたのは

現行憲法は国民主権を謳い、民主主義に相応しいものである
対して明治憲法は、天皇陛下主権であり国民に主権がなく、人権を制限してゐる「悪者」として描かれてゐる。

果たしてほんたうにさうであらうか?

よく考へやう。現行憲法は敵国であつたアメリカが「日本が二度と米国に刃向ふことをなくすやうに、日本的精神を破壊する目的」で作つたものの一つである。

米国がさうした中で一番影響が大きいのは東京裁判であらう。あの間違つた裁判といふ名の糾弾、そしてその判決がそのまま「歴史の教科書」になり、ねつ造まで許す事態になつてゐる。

次がこの憲法ではないかと考へる。

さて、何かと現行憲法、素晴らしい民主化された民主主義に相応しい憲法!と比較される明治憲法であるが。

この憲法は伊藤博文が欧州への視察を命じられ起草した憲法だといふことは教科書にあるとおりだ。

だが、問題は「教科書には伊藤博文が欧州で何を見聞きし、学び、明治憲法を起草したか」が書いてゐないことだ。

この本には序章で「明治憲法に学ぶもの」として書いてある。
伊藤博文は最初にドイツに行き、ベルリン大学の教授で高名な憲法学者であつたグナイスト氏に会ふがグナイスト氏は

「憲法は法文ではない。精神であり、国家の能力である。(中略)日本国の今日までの君主の実体、そして風俗・人情、その他、過去の歴史を明瞭に説明してもらいたい。それについて考えてご参考になることは申し述べてもよろしい。」

と言はれる。

ここに憲法の精神、憲法が元とすべきものが何かすべて書かれてゐるではないか。

次に伊藤らはオオストリアへ行き、ウィイン大学の看板教授で著名な国家学者・社会科学者であつたロオレンツ・フォン・シュタインを訪ねる。

シュタインは伊藤らがヨオロツパに来てヨオロツパの法制度を機械的に習得してゐることを論難した。そのような学び方をして作り上げた日本の法は単なる外国法の引き写しでしかない。

シュタインの講義は「まず自国の歴史についての省察が学問の根幹になければならない。そしてその上にヨオロツパで学んだ知識を接ぎ木していくことが必要だ」といふことを説くものであつた。

この講義を受けたあと、伊藤らは「憲法は日本の歴史や伝統に基づいて作ればいい」と確信をいだき「いかなる点においても、他国のあれこれの憲法の単なる模倣ではなく、徹頭徹尾日本的なもの」と伊藤自身がシュタインへに憲法発布を知らせる書簡に書き記すほどのものであつた。 (以上、序章P18-26まで抜粋を元に記述)

明治憲法がどのやうな背景で起草されたのかを知ると、現行の憲法は全く「日本的なもの」を無視した、単なる「自由過激論者の真似事」であることがわかる。からうぢて、天皇といふ記述があるが、そんなのは米国が占領するにおいて都合がよいやうに天皇陛下の名称を残しただけである。

本来、米国は天皇制を失くしたかつたのであるがそれをすると日本人の反感が大きく占領政策が上手くいかないことを知り、あへて憲法に入れて誤魔化しただけなのである。

なので、現行憲法を主体に「改正案」などと発表して大いばりしてゐる自民党はただの

無知

なのだ。

恥ずかしいことをしてゐることに気づいてない。

せめて、明治憲法を勉強してから改正案を作るべきではなかつたか?

本書のあとがきに明治憲法に対する現代の「評価」とそれを「悪用した教育論理」が上手く纏まつてゐるので引用する。

「明治憲法を些かなりともプラスに評価することは今日ではある種のタブーに属するとでも言ってよいだらう。何しろ、学校教育では、明治憲法は国民の自由を抑圧し、軍国主義に導いた悪法の典型だと教えこまれているし、憲法の解説書でも同じようなことが書かれているからである。しかし、このような評価は明治憲法の実像とは異なるものである。

 今日の明治憲法に関するマイナス評価は、その大部分、イデオロギー的な理解によるものである。今日の我が国の学校教育や憲法学を支配している「人民史観」なるイデオロギーによれば、明治憲法下の体制は「天皇制絶対主義」の時代であり、ここでは邪悪なる天皇制政府が対外的には侵略戦争や植民地統治を行ない、国内では善良なる人民を抑圧し弾圧したと理解されている。このイデオロギーを前提とする限り、明治憲法を評価する姿勢が微塵も見られないというもの無理はない」 (P287)

自民党議員の大多数は、戦後の教育を受けて占領軍の思想を刷り込まれてゐるから、ハナから明治憲法を考慮する意思などなかつたのであらう。

こんな人たちが集まる政党に、日本のための政治などできるだらうか?

無理だと思ふ。

自民党は、結局、最初から最後まで 

売国

なのだ。60年属米売国で来て、今この時代をもたらした。それに対する反省も認識も改善もない。

最悪の党だ。 (民主党はあたくしのブログでは朝鮮の党なので、最初から議論の蚊帳の外であります)

現行憲法を元にして改正した、などといふ薄っぺらな内容に騙されてはゐけない。

さらに本書を読み進むと明治憲法を起草するにあたり先人たちが欧州学者の助言とともに国文学、国史の研究を重ねて起草したことがわかつた。

これを考へると占領国の案をそのまま使ひ新憲法などと発表した自民党は国の恥だと思ふ。

o(`ω´*)oプンスカプンスカ!!

自民党が国を大事にしてこなかつたのは、これまでの政策とそれが今をもたらしてゐることそして先に発表した「改正憲法」でよくわかる。
ほんたうに国を思ふのなら先人たちがいかに憲法を起草したかを憲法とは国にとつて何かを考えるべきだが、その発想がまるでない。

自民党は一体何がしたいのだらう?

正直、自民党のすることは民主党と一緒で日本の邪魔だ。

モムーリ!o(゜Д゜)っ

片山さつきの憲法改正案に関するブログを見て呆れた。
「日本らしさにこだわった」らしいがなら何故占領下での占領国が作った憲法モドキを主体にしてるのか?馬鹿過ぎてコメする気にもならなかつた。

明治憲法は最初に憲法意見書が出されてから八年近くの歳月が経過した明治22年2月11日発布された。

比べて現行は占領国が3日程度で作成。比較にならない。

それを改正して日本国憲法ッて自民党終了だ。
戦後教育の失敗例を身を持って示す政治屋、これこそ日本の邪魔だ。

話が大幅にずれたが、本書は明治憲法が起草されるまでの先達たちの行動、背景、憲法が施行されてからの議会の議論、明治憲法にをける天皇陛下の位置づけ、明治憲法の法の解釈をいかに適用したのか、軍部が政治に出てくるその時代背景等が総合して書かれてをり、「どんな良法でも解釈と適用の仕方により悪法になる」ことが明快に書かれてゐる。

現在、日本は政府がきちんとした対応をしないため、国民が領土に関して関心を高めてをり防衛の必要性を感じだしてゐる。こんな物騒な世の中なのに防衛費を削減するとか自国民を守らないのは何事だ、といふ考へになつてゐる。

あたくしは、明治時代の欧米の列強が台東した時代から第二次大戦までの世の中は世界全体が「自国民を自国で守らないと欧米に飲みこまれる」といふ危機感が非常に強かつたのではないかと考へる。

そのため、今以上に領土といふより国そのものを侵略される危機感があり、「防衛」の意識が非常に強くなつてゐたのではないかと考へる。

現在は他国が植民地をあからさまに拡大してゐる時代といふよりは、植民地政策をしてゐた欧米が「経済的にその国を自国の利益のために利用する」といふ流れに変化してゐるので、世界的に領土を侵略されるといふ雰囲気ではない。しかしシナが周辺の国にやつてゐることを欧米が世界各国でやつてゐたのであらうから、それは現在よりもずつと防衛の意識が高まるであらう。

その時代背景を無視し、明治憲法そのものの法の条文を無視し、「今日の我が国の学校教育や憲法学を支配している「人民史観」なるイデオロギーそのまま」に明治憲法を否定するのは間違つてゐる。

本書は、上記のやうに考へるやうなヒントをくれた本なので是非とも一読をおすすめしたい。

本書はまた、明治憲法が諸外国の憲法学者から評価されたことも書いてあるし「よく学校で習ふやうに、明治憲法はドイツのプロシア憲法を参考にした」といふ内容とも異なることで批判を受けたことも書いてある。

「彼らは明治憲法が歴史法学の手法によって起草されたことを高く評価し、一方でやや意外なことに『ドイツ流』に徹せずイギリス流の立憲政治を採用したことについては、非難したのである」(P246) (学校教育といふのはだうしてかう、嘘ばかりなのか?)
(第六章 明治憲法は非民主的か 第四項 ドイツ流でなかった前年度予算施行権 (P236-246)

ここに登場する諸外国の学者たちは : 
イギリスの憲法学者 A.V.ダイシー 
フランス上院議長秘書官 ルボン
社会進化論者 ハーバート・スペンサー
「近代民主政治」の著者 ジェームス・ブライス
米国連邦最高最裁判官 オリヴァー・ウェンデル・ホームズ

さらに、明治憲法における天皇と政治の関係に関しても記述があり勉強になる。 (第五章 憲法と天皇 第二項 なぜ昭和天皇は政治的意思を排したのか (P172-182)
戦争を「ご聖断」で止めることをできた天皇がなぜ開戦を止めることができなかつたのか? これについて、本書は「昭和21年2月の回想、藤田尚徳『侍従長の回想』中公文庫、1987年」の一文を引用して明治憲法上に位置付けられた天皇の立憲君主としての役割を説明してゐる。

引用すると
「戦争に関して、この頃一般で申すそうだがその戦争は私が止めさせたので終つた。それが出来たくらいなら、なぜ開戦前に戦争を阻止できなかったのかという議論であるが、なるほどこの疑問には一応の筋は立っているように見える。如何にももっともと聞こえる。しかしそれはそうは出来なかった。申すまでもないが我国には厳として憲法があつて、天皇はこの憲法の条項によつて行動しなければならない。

またこの憲法によって、国務上ちゃんと権限を委ねられ、責任をおわされた国務大臣がある。この憲法上明記してある各国務大臣の責任の範囲内には、天皇はその意思によって勝手に容喙し干渉し、これを制肘することは許されない。(中略)

もしそうせずに私がその時の心持次第で、ある時は裁可しある時は却下したとすれば、その後責任者はいかにベストを尽くしても、天皇の心持によって何となるか分からないことになり、責任者として国政に責任を取ることが出来なくなる。これは明白に天皇が、憲法を破壊するものである。専制政治国ならばいざ知らず、立憲国の君主として私にはそんなことは出来ない」 

では終戦の際の「ご聖断」は?
「だが、戦争を止めた時のことは開戦の時と事情が異なっている。あの時には終戦か、戦争継続か、両論に分かれて対立し議論が果てしもないので鈴木(貫太郎首相)が最高戦争会議でどちらに決すべきかと私に聞いた。ここに私は、誰の責任にも触れず、権限を侵さないで、自由に私の意見を述べる機会を初めて与えられたのだ。だから、私は予て考えていた所信を述べて、戦争を止めさせたのである。(中略)このことは私と肝胆相照らした鈴木であったからこそ、このことが出来たのだと思っている」

 この昭和天皇のご説明だけで、明治憲法に関する現在の説明が大嘘だとわかりますね。 なぜ左翼はすぐにバレる嘘を吐くのでせう?

八木氏が最後に書いてゐるやうに「明治憲法は負わなくてよい”罪”を負っている。その汚名はすすがれなくてはならない」(P286)

 次は八木氏の日本国憲法に関する著書、そしてここに引用された侍従長の回想と読んでみやうと思ひます。


ガラスの巨塔

2012年05月05日 17時39分23秒 | 人物伝、評伝 (自伝含)

今井 彰氏の著書。

今井氏は1956年大分県生まれ。80年、NHK入局。NHKスペシヤル「タイス少佐の証言~湾岸戦争45日間の記録~」で文化庁芸術作品賞受賞、NHKスペシヤル「埋もれたエイズ報告」で日本ジャーナリスト会議本賞・放送文化基金奨励賞受賞、「シリーズ弁護士・中坊公平」でギャラクシー優秀賞受賞など受賞多数。2000年に立ち上げた「プロジェクトX~挑戦者たち~」は菊池寛賞、橋田賞などを受賞する。エグゼクティブ・プロデューサーを経て09年退局といふ経歴の方。

読み始めてすぐにわかるが

これは、今井氏の「自伝的小説」であらう。 主人公の名前や勤務先のテレビ局の名前が違ふけれども、それはすぐにわかる。 

話は、今井氏の経歴にある「NHKスペシヤル「タイス少佐の証言~湾岸戦争45日間の記録~」の取材の場面から始まる。その取材の場面から取材に行くまでに描かれる社内のやうすなど、

NHKッてこんなかんぢなんだ・・・ と興味深い社内風景などがあつた。(P15-16)

また、どこの会社にもゐるものだが「会社の金を使つて飲み食いし、告げ口など陰の工作を上層部に伝へる」無駄な職員が出てくる。「どこの会社にもゐる」としたが、NHKが受信料を取りながらこんなのを放置し、ましてや人の上に置いてゐるといふのは許しがたいものがある。

今井氏の経歴にあるとおり、氏はプロジェクトXといふ番組を立ち上げ人気番組と成長させて行く。しかし、その裏でそんな今井氏を快く思はない連中がゐて、プロジェクトXを潰さうとあれこれと裏工作を図るのである。

呆れる場面が続く。

人様のお金で受信料を取りながら、自分たちはよき番組を作ることもなく、人気があり受賞した番組の足を引ッ張る工作を行なひ、その談義に受信料で飲み食いしてゐる、そんな集団がゐるやうだ。

小説、なのでフィクシヨンであらう、と思ひつつも 事実に基づいたフィクシヨンなんだな~と思はずにゐられない。

そして、受信料が横領されてゐたといふ世間を騒がせた事が明るみに出る。当時の会長は辞任する。実はこの会長は今井氏が作るプロジェクトXを全面的にサポウトしてゐる人であつた。

会長が辞任すると、これまでに抑えつけられてゐた「反会長派」が出てくる。人事にもそれが影響される。プロジェクトXをよく思つてゐなかつた輩が上司になる・・・

読んでゐて「醜い人間の姿」が次々に出てくるので、疲れてくる場面が続いたがこれを実体験してゐた今井氏に対しては、言ふべき言葉が見つからない。

今井氏のこの作品を読んでゐると、またもやマスゴミの「報道被害」を思ふ。実際、辞任した会長はワンマンであつたのかもしれないが、ほんたうにあすこまで叩かれるべき人だつたのかな・・?とか立場によつて物の見方も変はるわけであるがマスゴミの報道の仕方はこれまでの前科があるので、「ただの煽り」だつたのかもしれないとも思ふ。また、NHKが急速に反日国家のタレントなどを出し始めたのもこれが遠因か?とも思つた。(基本NHKは見ないので、ほとんど番組を知らない)

しかし、受信料を横領してゐてそのチエツク機能がなかつたのは問題だ。

プロジェクトXが終了した背景とも思はれる出来事も書いてある。自分はこの番組は見てゐなかつたのであるが、評判は聞いてゐた。そして番組終了は、これが原因だつたんだな・・・と思ひながら読んだ。原因に対するNHKの対応も、プロジェクトXを快く思つてゐなかつた上司たちの対応なので会社自ら番組を潰すやうな対応をしたことにも驚いた。

これが、NHKなのか。

そんな気がした。

事実がだうなのかは当事者しか知らないが、事実確認をしたうえでの対応をもふ少しすべきではなかつたのか?と思ふ。 嘘を吐く出演者がゐるのも驚きだし、その裏付けを怠つたことも一因なのかもしれないが

会社として、もふ少しなんとかすべきではなかつたのかな~ と思ふ。

そして、うなづくのは

この嘘を吐く出演者の後押しのやうなことをしたのが、だうやら 「アサヒる」人たちだつたやうだ。

なんか、マスゴミ、ほんたうに腐つてゐるな・・・と思つた。

ここまで来ると、既に信用を無くしてゐるマスゴミはだうやつたら信用を取り戻せるのか?と思ふ。

今井氏のやうな人を追ひ出す組織 

そんな組織が、「放送」「報道」などと公共に情報を提供するのはをかしい。

本書はNHKだけの問題ではなく、マスゴミの問題を集約してゐると思ふ。