読書おぶろぐ

読んだ本の感想を書いてます

神武天皇はたかしに存在した 神話と伝承を訪ねて

2017年01月15日 17時12分07秒 | 文化

産経新聞取材班の本。
本書は平成27年1月9日から12月20日まで、産経新聞に連載された
「『海軍東征』をゆく―神武さまの国造り」に加筆、修正したもの。肩書や
事実関係は、新聞連載時のもの、といふことであるが連載記事であつたので
一つが短く読みやすい。

6名の取材スタッフの氏名が連なつてゐるが、昭和33年生まれ、昭和51年生まれ、
昭和53年生まれ、昭和63年生まれ(2名)、昭和54年生まれと比較的若い記者が
取材してゐる。

随分昔に古事記を読んでゐるが、
 http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/c80989f1116ab58661a5bca97f5af887
本書は神武天皇に焦点をあて、古事記と日本書紀の記述の比較もあるので
再度古事記を読み直したり、日本書記を読んだり、神話を読んでその地を回りたい
気持ちにさせられる。

初詣には神社、お寺と行く人も多いが、神社建立についてとかそこに祀られてゐる
神様のことについて、深く考える機会がなかつたりする。

本書を読むと、日本の創生から今日まで、皇室があり神社があることの意味を
考えさせられる。また、各地の地名も神武天皇の東征の神話にちなんで名づけられて
ゐることなど、それぞれに意味があることがわかり興味深い。

学校で神話教育を復活させ、日本の創生、日本人であること、日本人の文化について
触れさせることが必要だと本書を読んで思つた。

 


歌舞伎 型の真髄

2014年07月20日 16時42分25秒 | 文化

渡辺 保氏の著書。

渡辺氏は1936年東京都生まれ、慶應義塾大学経済学部卒業後、東宝演劇部企画室を経て演劇評論家に。
「女形の運命」で芸術選奨文部大臣新人賞受賞、「忠臣蔵 もう一つの歴史感覚」で平林たい子文学賞、
また同書と「俳優の運命」で河竹賞、「娘道成寺」で読売文学賞、「四代目市川團十郎」で芸術選奨文部大臣賞
等々著書で数々の受賞をされてゐる。

2000年に紫綬褒章を、2009年には旭日小綬章を受章されてゐる。

本書は、数ある歌舞伎の演目から、おなぢ場面でも役者によつて「型」が違ふことが述べられてをり、
歌舞伎好きには興味深い内容となつてゐる。

ごひいきの役者がゐると、その役者中心に観てしまひおなじ演目でも役者が違ふと衣装や、「型」が
違ふとは知らず、本書で初めて知った。

また、上方歌舞伎と江戸歌舞伎の違ひにも書かれてゐるので、東西で同演目を演じても舞台装置から
美術から違ふといふこともわかつて、面白かつた。

いつも海老蔵丈(市川宗家)を見てばかりなのだが、本書のやうに比較を読むとたとえば勧進帳で
幸四郎の弁慶を観劇して團十郎、海老蔵との違ひをみたくなる。

本書は20の演目の型について述べられてゐる。いくつかは観劇した演目もあつたので、違ふ役者の
「型」を読むと新鮮だつた。

本書の姉妹編「歌舞伎 型の魅力」をこれから読まふと思ふ


読書について (他二篇)

2013年09月23日 15時44分10秒 | 文化

ショウペンハウエルの著書。

 アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、ショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも)1788年2月22日 ダンツィヒ - 1860年9月21日 フランクフルト)は、ドイツ哲学者仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家[1]であり、その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学実存主義の先駆と見ることもできる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC

正直、すごく面白い。

何が面白いかと言へば、本書「読書について」と収録されてゐる他二篇 「思索」「著作と文体」のすべての論述が

現在の日本のマスゴミ、新刊を世に送り出しなんとか金を得たいと「似たよう手法」を繰り返してゐる出版界そのものを現してゐることである。

何か一つ売れることがあると、すぐにそれに飛び付いて「二番煎じ」を狙つてばかりの出版界、マスゴミ、そしてそれに乗じてなんとか金もうけをしやうともくろむ「エセ作家」はこれを読むべきであらう。 (読んだところで、自分のことだとわかるアタマがあるとは期待しない。期待できるレベルの人なら、批判される前に「いかにも金儲け」とわかるやうな本を出したり番組を組んだりしないからである)

表題の「読書について」だけでなく、収録されてゐる「思索」「著作と文体」の順に読んでいくとよいであらう。 「思索」「著作と文体」で現在の問題が明確にされてをり、それを踏まえて「読書について」を読んだはうが、読者にとつてしつくりと来る。

最初に収録されてゐる「思索」より少し抜き出してみやう。

「知識の場合もいかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。(中略)我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。
(中略)
ところで読書と学習の2つならば実際誰でも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のようにその対象によせるなんらかの関心に左右されながら燃え上がり、燃えつづく。主観的関心が力がふるうのは我々の個人的な問題に限られ、だれでもそのような問題には当面する。しかし客観的関心は思索を呼吸のように自然に行うことができるほど天分に恵まれた頭脳に特有のものである。この種の人はごくまれである。ほとんどの学者がめったに豊かな思索の例を示さないのもそのためである。」(P5-6)

「読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。(中略)だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自分で自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している」 (P8-9)

「読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみ取った人は、旅行案内書を幾冊も読んである土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も明瞭な基礎的知識も全く欠いている。これと対照的なのが障害を思索に費やした人で、いわば自分でその土地に旅した人の立場にある。そいういう人だけが問題の土地を真の意味で知り、その土地の事情についてもまとまった知識を持ち、実際、我が家にあるように精通しているのである」 (P13)

といふ具合で、耳が痛いといふか 「なるほど、読んでわかつたつもりになつてゐるけどしばらくすれば忘れてしまふものについては、読み流してきちんと理解して考えてゐなかつた」といふ、思ひあたることが続々と出てくるのである。

実際、読んで思索するなんて考えたことあまりね~な~  頭のいい人なら何かの古典を読み、実生活でそれを生かせる場面に出くわしたときにそれが即座に頭に浮かぶのであらう

しかし、かういふ古典を読んでいくと、次に本を読むのも面白くなつてくる。 そして、「最近の本ッてつまらない」「文章がばかになつてゐる」「日本語が間違つてゐる、マスゴミがばかな発音を平気で流してゐる(「父」を「乳」と発音するなど)」と非常に、現在の出版物やマスゴミに頭に来てゐる方々が深く同意されるのが

「著作と文体」である。 これに至つては、現在の日本のマスゴミと出版界そのものを表してをり少しも否定のしやうがない。マスゴミと出版界はこれを読み読者ばなれと視聴率低下がなぜ起きてゐるのかを考えるべきである。(できないからかうなのであらうが)

特に、原発事故後に原発に関する本が乱立したりマスゴミにひッ張りだこになつた人物など、ここに当てはまる対象であらう。 原発に関連しなくても馬鹿の一つ覚えのやうな「元気をもらひました(元気が出ましただろ?)」とか「ありがたう(死んだ馬などに、何がありがたうなのか?)」等、どこかの局やらで一度流すとあとは洪水のやうにおなぢ言葉と論調が出てくるこのクソ風流はまさにここに書かれてゐることである。

少し抜書きをしてみやう。

「まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。

 第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。彼等の特徴は次のとおりである。彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽あいまいな思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくりひろげて行く。

また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々は、ただちに彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく。(中略)そのような事実を認めたならばただちにその本を捨てるべきである。時間は貴重である。

しかしおよそ著者が原稿用紙をうずめるために執筆を開始すれば、それだけでただちに完全に読者をあざむくことになる。他人に伝達すべきものがあるから筆を取るのであると詐称することになるからである。(中略)

低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているに過ぎない。すなわち彼らの名はジャーナリスト。適切極まる名前ではないか。これをドイツ語に訳すと日給取り。」 (P25-27)

なんとまあ、マスゴミのそのものを的確に表現してゐるのであらう! こんなことが200年前のドイツで起きてゐたのか・・・
読み進んでいくと、ほかにも日本のマスゴミや原発に乗じて本を乱発して儲けを狙つた「にわか反・脱原発」のことをそのまま言つてゐる部分が随分ある。

一読をお勧めしたい。


現代語訳 武士道 

2012年08月11日 21時26分58秒 | 文化

新渡戸 稲造氏の著書。

新渡戸 稲造氏は1862年南部武士の子として生まれる。 札幌農学校(現在の北海道大学)に学び、その後アメリカ、ドイツで農政学等を研究。1899年アメリカで静養中に「武士道」を執筆。帰国後、第一高等学校校長などを歴任。1920年から26年まで国際連盟事務局長を務め、国際平和に尽力。
辞任後は貴族院議員などを務め、33年逝去。他の著書に「修養」「東西相触れて」などがある。

本書を現代語訳に訳した訳者は 山本 博文氏。 氏は1957年生まれ。東京大学院情報学環教授。専門は江戸時代の政治外交史研究および武士研究。著書に「江戸お留守守居やくの日記」(第40回日本エッセイストクラブ賞受賞)、「切腹」「江戸に学ぶ日本のかたち」など多数。

以前「要約版」を読んで投稿してゐるが http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/95a2cb321012f4bbf323236644496ac3
今回、さらに新しく完訳が出てゐることがわかつたので、拝読した。

ダイジェストと違ひ、新渡戸氏の執筆の構成の上手さ、博識、かなりの頭脳の高さを実感してゐる。

「サムライの道」といふ異国人に全く未知な世界を紹介するにあたり、かなり上手い。一つを説明すると次の章にすんなりとつながる。

しかも例が聖書やシエイクスピアの小説や西洋になじみのあるものを引用してゐるので西洋人にもわかりやすいだらう。

新渡戸 稲造氏ッて、すごい人だつたんだな・・・と思つてゐる。

また、「武士道」は武士の教へであり他の人(農民、商人他)には直接教へられるものではなかつたが、「物語」として武士の武勇伝が語られその武士の精神論、つまり武士道が知れ渡り日本人の教へとなつていつた等様々な逸話があり読んでゐて楽しい。

紹介されてゐた文献で江戸時代にすでに本として出てゐた「古典」の現代語訳を読んでみやうかと言ふ気持ちになつた。

出だしが、かなりいい。 
「武士道 Chivalry は、日本の標章(しるし)である桜の花にまさるとも劣らない、わが国土に根ざした花である。それはわれわれの歴史の植物標本箱に保存される干からびた古い美徳ではない。私たちの間にあってそれは、いまだに力と美を持つ生きた存在である。そしてそれは、なんら実体的な形をもたないが、道徳的雰囲気の香りを漂わせ、私たちがなおその魅力のもとに置かれていることを気づかせてくれる」 (P17)

武士道の目次 :

第一章  道徳体系としての武士道
第二章  武士道の源泉
第三章  義 - あるいは正義について
第四章  勇気 - 勇敢と忍耐の精神
第五章  仁 - 惻隠の心
第六章  礼
第七章  信と誠
第八章  名誉
第九章  忠義
第十章  武士の教育
第十一章 克己
第十二章 切腹と敵討の制度
第十三章 刀、武士の魂
第十四章 女性の教育と地位
第十五章 武士道の影響
第十六章 武士道はまだ生きているか
第十七章 武士道の未来

「本書が書かれた1899年は日本が四年前に日清戦争に勝利し、ようやく世界の先進国の仲間入りをしようとしていた時期である。当時ヨーロッパ人にとっての日本人は好戦的で野蛮な国民であつた」(P199, 山本氏の解説より)

さうした環境の中で米国人を妻に、その妻や他の人から日本についてあれこれ尋ねられてゐるうちにきつと新渡戸氏は「武士」および「日本」について理解と理解を深める上での知識量が圧倒的に不足してゐることを実感し、それゆへなにやらの誤解等が起きてゐることを実感したのであらう。

今でさえ、日本でベツトで寝てゐると知らない白豚はゐる。テイブルも使はず、江戸時代の部屋の様相をしてゐると信じてゐる人達がゐる。 新渡戸氏の時代はそれ以上の「無理解、無知と偏見」があつたのであらう。

本書では、新渡戸氏がいかに「日本」「武士」を知つてもらはうと尽力を尽くしてゐるかよくわかるし、また現代に於いて本書を読むことは日本の「隠れた歴史の一部分」を知ることとなり、大変貴重な文献である。

武士といふのは、大小を刺し人を斬ることが可能であるが斬つたら自分も切腹しなければならない。命がけで斬るのである。戦国時代に於いては死ぬことは特別なことではなく、名誉のことであつた。 そのやうな時代に於いて、武家の男子を躾ける母親の厳しさがすごいし、人間精神が立つには厳しさを乗り越へる必要があるのだらう、と実感した。

新渡戸氏は本居頼長の和歌を引用してゐるが、これがまたいい。

「敷島の大和心を人問はば
朝日に匂ふ山桜花  (大和心とは何かと人が尋ねたら、朝日に照り映える山桜の花だと答へやう) 

そう、桜は昔からわが国民が愛する花であり、わが国民性の象徴であつた。特にこの歌人が用いた「朝日に匂ふ山桜花」という語に注意されたい。大和魂は、弱い栽培植物ではなく、自生の野生植物である。大和魂は、日本の国土に固有のものである。その性質は他の国の花と共通のところもあろうが、その本質はあくまでわが風土に固有な原生・自生の植物である。

ヨーロッパ人がバラをほめたたえる気持ちを私達は共有できない。バラは桜の単純さに欠けている。またバラが甘美さの下にとげを隠していること、生に強く執着し時ならず散るよりはむしろ茎の上で朽ちることを選び、まるで死を嫌いおそれているようであること、派手な色、濃厚な香り - これらすべては桜と著しく違う性質である。

わが桜花は、その美の下に刃も毒も隠しておらず、自然が呼ぶときにいつでも生を捨てる準備ができている。その色は華美ではなく、その香りは淡く、人を飽きさせない。色彩と形状の美しさは外観に限られる。色彩と形状は固定した性質である。これに対し香りはうつろいやすく、生命の生きのように天上にのぼる。 (P172-173)

次章に吉田松陰の処刑前夜の歌がある。

「武士道は無意識のうちに抗しがたい力となり、国民そして各個人を動かしてきた。近代日本のもつとも輝かしい先駆者のひとりである吉田松陰が、処刑の前夜に詠んだ次の歌は、日本民族の偽らざる告白であつた。

かくすればかくなるものと知りながら 
やむにやまれぬ 大和魂  (こう行動すれば、死ぬことになることを知っていながら、私をその行動に駆り立てたのは大和魂である) 」(P177-178)

第十四章 女性の教育と地位 とそれ以下に散見される武家での女性の役割、位置づけも「封建制」と言はれる中での女性の地位が明確になり、重要だ。 「福島みずほ」「田嶋陽子」らは、これを読んでも正しく理解できず、封建制は女性差別だとホザくであらうが、武士の世の中に「女性の役割」がきちんと果たされてゐなければ、「武士道」は続かなかつたと思ふし、武士が生き延びることがなかつたのではないかと思ふ。

新渡戸氏も説明されてゐるが、女性(妻と母)は「武士道」を子供に継承するのに「内助の功」として大変貢献してゐるのである。目立ちたい左翼のおばさんには理解不能だらうが、「陰ながら貢献する、自己犠牲」を武士道は決して軽んじてはゐない。

他にも日本人が知るべきことがたくさん書いてある。

一読をおすすめしたい。


日本人はなぜ日本のことを知らないのか

2012年07月25日 19時33分31秒 | 文化

竹田 恒秦氏の著書。

一読をお勧めする。 氏は本書の前に「日本はなぜ世界で一番人気があるのか」http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/496c961d615a156e48c5b187650b0b26 を出版されてをりますが、本書執筆のきつかけはその本が短期間のうちに30万部を超へるベストセラアになつたことを驚きと同時に、「日本に興味のある方たちに」本書を贈るとされてゐるが

興味がなくとも、一読をおすすめする。

なぜなら、日本史の教科書の「怪」を第一部から「日本の歴史を正しく伝へたくない日教組(朝鮮人)と共産主義、日本解体をもくろんでゐる米国の野望」を見抜き、理路整然と解説してゐるからである。

中学の時、あの教科書の内容を何も不思議に思はずに読んでゐたが、成人して社会の裏がわかり、本書の解説を読むと大変納得する。 

これは一人でも多くの人、とくに戦後教育を受けてきた人達(今ほとんどだらうが)に読んでほしい。

竹田氏は「本書の読み方」としてⅠ部とⅡ部に分かれた本書の内容を最初に解説してくれてゐる。

Ⅰ部は「日本はいつできたのか」を考古学と歴史学の両面から、古事記・日本書紀を始めたとした国内の文献、シナ朝鮮の文献、出土された土器等を元に解説されてゐる。

大変驚くことだが、そして「いつものやうに」反日マスゴミが放送しなかつたことだが、日本で世界最古の土器や研磨石器が見つかつてゐる。この事実を今の「歴史」教科書は書いてゐるのか? 相変はらず、全世界ですでに否定されてゐる「四大文明」を誇らしげに書いてゐるのであらうか?

Ⅱ部は竹田氏が中学の歴史の教科書をイメイジして書かれた教科書「子供に読ませたい建国の教科書」となつてゐる。これは子供だけでなく、嘘の教科書を読まされてきた大人も読むべき内容である。

建国の歴史が、考古学の事実と歴史学と古事記(神話)により書かれてゐる。なお、竹田氏は古事記を現代語に翻訳され、解説もつけて出版されてゐるので合はせて読むと大変わかりやすい。http://blog.goo.ne.jp/liebe-kdino-schumi/e/c80989f1116ab58661a5bca97f5af887

Ⅱ部では考古学と歴史学の解説の後に古事記から神話が引用されてゐる。それを読むと古事記(日本書紀)の内容が日本の現在に結びついてゐるので「神話」と言ひながら真実を語つた書が古事記、日本書記であると納得する。 これにいちやもんをつけるのは共産主義か朝鮮人なので、無視しやう。そして、これにいちやもんをつける、古事記・日本書紀を教へないことを進めてきた米国はじめ反日団体がどのやうなものかを考へやう。

ついでに言ふが

祝日はすべて皇室の行事に関はつてゐるものなのに、その名称を皇室と無関係のやうに変更しそして日にちまで「ハツピイ・マンデイ」などとして動かした自民党他は日本の伝統と文化を無視する反日媒体として、信用するのを止めやう。

また、「シナ朝鮮から稲作が伝はつた、あれこれ伝はつた」と言ふのも誤りであることがわかつてゐるやうです。 キムチ(唐辛子)と同様、日本から逆に伝はつたものもあるやうですよ。

といふことで

ここで多くは語らない。本書をとにかく読んでほしい・・・