ショウペンハウエルの著書。
アルトゥル・ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer、ショーペンハウエル、ショウペンハウエルとも)1788年2月22日 ダンツィヒ - 1860年9月21日 フランクフルト)は、ドイツの哲学者。 仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家[1]であり、その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学、実存主義の先駆と見ることもできる。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC
正直、すごく面白い。
何が面白いかと言へば、本書「読書について」と収録されてゐる他二篇 「思索」「著作と文体」のすべての論述が
現在の日本のマスゴミ、新刊を世に送り出しなんとか金を得たいと「似たよう手法」を繰り返してゐる出版界そのものを現してゐることである。
何か一つ売れることがあると、すぐにそれに飛び付いて「二番煎じ」を狙つてばかりの出版界、マスゴミ、そしてそれに乗じてなんとか金もうけをしやうともくろむ「エセ作家」はこれを読むべきであらう。 (読んだところで、自分のことだとわかるアタマがあるとは期待しない。期待できるレベルの人なら、批判される前に「いかにも金儲け」とわかるやうな本を出したり番組を組んだりしないからである)
表題の「読書について」だけでなく、収録されてゐる「思索」「著作と文体」の順に読んでいくとよいであらう。 「思索」「著作と文体」で現在の問題が明確にされてをり、それを踏まえて「読書について」を読んだはうが、読者にとつてしつくりと来る。
最初に収録されてゐる「思索」より少し抜き出してみやう。
「知識の場合もいかに多量にかき集めても、自分で考え抜いた知識でなければその価値は疑問で、量では断然見劣りしても、いくども考えぬいた知識であればその価値ははるかに高い。(中略)我々が徹底的に考えることができるのは自分で知っていることだけである。知るためには学ぶべきである。
(中略)
ところで読書と学習の2つならば実際誰でも思うままにとりかかれるが、思索となるとそうはいかないのが普通である。つまり思索はいわば、風にあやつられる火のようにその対象によせるなんらかの関心に左右されながら燃え上がり、燃えつづく。主観的関心が力がふるうのは我々の個人的な問題に限られ、だれでもそのような問題には当面する。しかし客観的関心は思索を呼吸のように自然に行うことができるほど天分に恵まれた頭脳に特有のものである。この種の人はごくまれである。ほとんどの学者がめったに豊かな思索の例を示さないのもそのためである。」(P5-6)
「読書は思索の代用品にすぎない。読書は他人に思索誘導の務めをゆだねる。(中略)だが自らの天分に導かれる者、言い換えれば自分で自発的に正しく思索する者は正しい路を発見する羅針盤を準備している」 (P8-9)
「読書で生涯をすごし、さまざまな本から知恵をくみ取った人は、旅行案内書を幾冊も読んである土地に精通した人のようなものである。こういう人は報告すべき材料をいろいろ持ち合わせているが、その土地の様子についてはまとまった知識も明瞭な基礎的知識も全く欠いている。これと対照的なのが障害を思索に費やした人で、いわば自分でその土地に旅した人の立場にある。そいういう人だけが問題の土地を真の意味で知り、その土地の事情についてもまとまった知識を持ち、実際、我が家にあるように精通しているのである」 (P13)
といふ具合で、耳が痛いといふか 「なるほど、読んでわかつたつもりになつてゐるけどしばらくすれば忘れてしまふものについては、読み流してきちんと理解して考えてゐなかつた」といふ、思ひあたることが続々と出てくるのである。
実際、読んで思索するなんて考えたことあまりね~な~ 頭のいい人なら何かの古典を読み、実生活でそれを生かせる場面に出くわしたときにそれが即座に頭に浮かぶのであらう
しかし、かういふ古典を読んでいくと、次に本を読むのも面白くなつてくる。 そして、「最近の本ッてつまらない」「文章がばかになつてゐる」「日本語が間違つてゐる、マスゴミがばかな発音を平気で流してゐる(「父」を「乳」と発音するなど)」と非常に、現在の出版物やマスゴミに頭に来てゐる方々が深く同意されるのが
「著作と文体」である。 これに至つては、現在の日本のマスゴミと出版界そのものを表してをり少しも否定のしやうがない。マスゴミと出版界はこれを読み読者ばなれと視聴率低下がなぜ起きてゐるのかを考えるべきである。(できないからかうなのであらうが)
特に、原発事故後に原発に関する本が乱立したりマスゴミにひッ張りだこになつた人物など、ここに当てはまる対象であらう。 原発に関連しなくても馬鹿の一つ覚えのやうな「元気をもらひました(元気が出ましただろ?)」とか「ありがたう(死んだ馬などに、何がありがたうなのか?)」等、どこかの局やらで一度流すとあとは洪水のやうにおなぢ言葉と論調が出てくるこのクソ風流はまさにここに書かれてゐることである。
少し抜書きをしてみやう。
「まず第一に著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。第一のタイプに入る人々は思想を所有し、経験をつんでいて、それを伝達する価値のあるものと考えている。
第二のタイプに入る人々は金銭を必要とし、要するに金銭のために書く。彼らは書くために考える。彼等の特徴は次のとおりである。彼らはできるだけ長く思想の糸をつむぐ。真偽あいまいな思想や歪曲された不自然な思想、動揺常ならぬ思想を次々と丹念にくりひろげて行く。
また多くは偽装のために薄明を愛する。したがってその文章には明確さ、非の打ちようのない明瞭さが欠けている。そのため我々は、ただちに彼らが原稿用紙をうずめるために書くという事実に気がつく。(中略)そのような事実を認めたならばただちにその本を捨てるべきである。時間は貴重である。
しかしおよそ著者が原稿用紙をうずめるために執筆を開始すれば、それだけでただちに完全に読者をあざむくことになる。他人に伝達すべきものがあるから筆を取るのであると詐称することになるからである。(中略)
低劣な著作家の大多数は、新刊書以外は読もうとしない民衆の愚かさだけをたよりに生きているに過ぎない。すなわち彼らの名はジャーナリスト。適切極まる名前ではないか。これをドイツ語に訳すと日給取り。」 (P25-27)
なんとまあ、マスゴミのそのものを的確に表現してゐるのであらう! こんなことが200年前のドイツで起きてゐたのか・・・
読み進んでいくと、ほかにも日本のマスゴミや原発に乗じて本を乱発して儲けを狙つた「にわか反・脱原発」のことをそのまま言つてゐる部分が随分ある。
一読をお勧めしたい。