「虚庵居士のお遊び」

和歌・エッセー・フォート 心のときめきを

「花虎の尾の合唱」

2011-08-22 15:36:00 | 和歌

 「うつろ庵」が急に賑やかになった。

 狭い庭だが「花虎の尾」の房花が群れ咲いて、テラスのテーブルで夕涼みをしながら頂く夕食は、虚庵居士にとっては至福のひと時だ。 が、ついつい時間が長引くのが玉に瑕だ。
手作りのテーブルの天板は陽に焼け風雨に晒され、反り返ったり木目が際だって来たが、そんな古びたテーブルのすぐ傍に、花虎の尾の花が咲き乱れて、じじ・ばばのお相手をしてくれるから堪らない。



 

 テラスに沿って「花虎の尾」が咲いているが、彼女らは昨年の種がこぼれ散って、自生したものだ。この場所がお気に召したようで、年々歳々花数が増えてきた。紫蘭の長い葉も混じっているが、秋ウコンの幅広の葉もお仲間だ。今年も純白の花を見せてくれるだろう。春には同じ花壇に水仙やムスカリが咲き、季節毎に主役が交代するので、誠に手間なしの花壇である。

 「花虎の尾」の房花を近くで見ると、何ともユーモラスな表情に思わず吹き出したくなる。
小さな子供たちがお行儀よく並び、大きな口を一杯に開いて、合唱している姿を思わせるではないか。 そのように見れば、花壇の房花からはそれぞれに、可愛い子供たちの歌声が聞こえてくるようだ。花の少ないこの時節に、「うつろ庵」の庭は「花虎の尾」の房花が一杯だが、かてて加えて子供たちの歌声までも溢れて、誠に賑やかこの上ない。

 夕暮れには、蚊取り線香を焚き、グラスを片手に椅子に腰を下ろせば、生きながらに極楽浄土を味わえる。その昔、茶の湯を極めた茶人は、一畳台目の茶室にこもり、その茶室を己の生きながらの棺桶だと称してこよなく愛したと、どこかで読んだ記憶がある。俗人の虚庵居士は侘び寂びに徹し、ものごとを極める程の器ではないが、心穏やかに包み込んでくれるささやかな場所が持てたのは、以って幸せと申すべきであろう。


 

          腰おろし椅子に座れば風に揺れて

          花虎の尾は足にじゃれるや
            

          近く見れば子供らお口を一杯に

          開けて歌うや花虎の尾は


          じじ・ばばと花虎の尾はお友だちよ

          夏の日暮れに子らの声聞き

          
          セミも和しカラスも和してうつろ庵に

          花虎の尾の歌声溢れぬ 


          ささやかな庭の片すみ居心地の

          よければ己の竟の場所なれ