旧東海道の品川宿を歩く
四年前、一度来たことのある品川の旧東海道を、また歩いてみました。
品川駅前でラーメンを食べ、腹ごしらえをして歩くつもりでしたが、
地震対策で工事に入っており、、どの店も開店休業でした。
仕方なく、途中何処かでと、歩き始めました。
コースは駅から鈴ヶ森の刑場跡までで、下の青線の区間です。
以前歩いたときは、脊椎すべり症の手術直後でしたが、大して遠くは感じませんでしたが、
今回は、行けども行けども、という感じで、遠く感じました。
ウオーキング・カウンターで往復24000歩、約15kM(4里弱)ですか、
やはり、ちょっと歳を感じました。
さて、まずは目黒川にかかる品川橋を右折して、荏原神社へ。
品川橋には、以前も紹介した橋の説明板がありました。
再度紹介すると、
「品川橋の今昔
この辺りは江戸の昔、『東海道五十三次 一の宿』として、上り下りの旅人で大変賑わいました。・・・
『品川橋』は、旧東海道の北品川宿と南品川宿の境を流れる目黒川に架けられ、
江戸時代には『境橋』と呼ばれていました。・・・」
そして、荏原神社へ
梅の花が、凄く美しく咲いていました。
そこから、東海寺へ足を伸ばそうと、探し回りましたが見つからず、
品川神社にお詣りして、旧東海道に出ました。
そこから、南品川商店会、青物商店会、鮫洲商店会と、歩きに歩き、
やっとの思いで、鈴ヶ森に辿りつきました。
道々、この途を、「八百屋お七」は、どういう思いで辿ったのだろう、
篭に載せられたのか、歩かされたのか、・・・
だんだん近づくにつれ、その思いは・・・ やるせない!
冤罪だとしたら、なおさらです。
西鶴などの物語では
「お七の家は天和2年の大火(天和の大火)で焼け出され、
お七は親とともに正仙院に避難した。
寺での避難生活のなかでお七は寺小姓生田庄之介と恋仲になる。
やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払ったが、
お七の庄之介への想いは募るばかり。
そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、
庄之介に会いたい一心で自宅に放火した。
火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったが、
お七は放火の罪で捕縛されて鈴ヶ森刑場で火あぶりに処された。」
と、なっています。
それが事実としても、火炙りとは・・・かわいそう!
賽銭をおさめ、線香を立て、お詣りしました。
行きはバカに遠く感じましたが、帰りはそうでもなく、再度品川橋に帰り着きました。
そして、もう一度、東海寺を探しました。
通りがかりのお爺さんに聞きましたら、よく御存じの方らしく、
親切に教えてくれました。
「沢庵和尚のお寺ですね」とまで、解説付きで・・・
東海寺梵鐘として品川区教育委員会が次の説明板を建てています。
「東海寺は寛永十五年(1638)に
三代将軍徳川家光の信任をうけていた沢庵禅師のために、
建立されたものであります。・・・」
それにしても、あの有名なお寺さんが、なぜこうも淋しく扱われているのだろう。
廃仏毀釈のあおりだと云われますが、それではなぜここだけが?
どうもよく解りません。これからも調べてみましょう。
近くで、遅い昼飯を食べました。「石臼づくり」のそば屋さんでした。
久し振りに、美味しいそばにありつきました。
ビールもうまかった。