地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら

2012-06-20 | 読書

黒岩重吾著「藤原不比等」を読みながら

 

私は、現在の土地所有に疑問を持っています。

住宅地や田畑、山林にいたるまで、境界石が埋められ、所有権が詳細になっていますが、
その経過を明確に知っておきたいと思います。

 

戦後の農地解放も大きな改革ですが、その前の明治維新も大変注目に値する事件です。
国有地の払い下げや入会地の私有地化等、税金を集めるために払い下げられた土地も多々あるのでは?

 

今日は、まず古代の土地制度を垣間見ておきたいと思います。

 

農民は、個人で田畑を開墾し、耕作して生活できそうに思いますが、やはり人間生活には、共同生活が不可欠なのでしょうか。

 大化の改新は,西暦645年に,中大兄皇子(聖徳太子の子、後の天智天皇)が,中臣鎌足(後の藤原鎌足)等とともに,
当時の朝廷の実質的支配者であった蘇我入鹿とその一族を倒し,
天皇政権を確立し,日本を中央集権的官僚国家に統一しました。

それ以前は,天皇家や有力な豪族(氏族・曽我氏や物部氏ら)の連合国家で,土地と人民は,天皇家を含めた各豪族が私有していたようです。

 

天皇家や地方豪族らは、私有地を管理するために、従者を地方に派遣していました。
これが、いわゆる国司(国宰領)です。

 

しかし、黒岩さんが指摘されているように、
「わが国では、地元の勢力の上に立つ郡司の力が、中央から派遣されている国宰領(国司)よりも強い場合が多い」ようでした。

すなわち、直接農民を掌握している郡司(本来の支配者)がいて、
それらを管理している国司(国宰領)が置かれたが、力は弱かったようです。

 

そうした、漠然とした支配システムが、壬申の乱により、天皇家の専制君主制に変えられたのです。

「古代から倭国の大王は、有力豪族の上に載っていた。
自らの力で(壬申の乱)天皇位を勝ち取った天武は、有力豪族の力に頼ることを嫌った。」
「専制君主にとって最も大切なのは武力。」 武力を以て掌握しました。

 

「大化の改新の翌年(大化2年=646年)1月,改新の詔を発して,天皇領(屯倉・みやけ)を含めて,
豪族領(田荘・たどころ)とその人民を没収して,国家の所有,すなわち公地公民としました。

 そして,有名な班田収授制という土地制度を創設します。

この経緯が、この小説の骨子です。

 

そして、その変革は簡単には落ち着かず、
「表面には出ていないが・・・、心情的な天皇派(天武)と、皇后派(鵜野讃良皇女=持統天皇)、それから

大津派(天武と大田皇女の子)と草壁派(天武と持統の子)が、はっきりとは見えない闇の中で形成されつつあるのを
史(ふひと=不比等)は肌で感じた。」

その後の経過は、追々に・・・

 

藤原不比等が
幼年期を過ごした山科(壬申の乱のときはこの地に潜んでいた)と、

結婚して二十台を過ごした飛鳥の地を地図で示すと、

 

ここで、この小説のストーリーを外れ、時代背景を覘き見てみますと

 「班田収授制は,国家に帰属することになった土地の台帳(計帳)を作成し,公民には戸籍を編成し,
各公民に一定の基準によって口分田(くぶんでん)を給付(班給という)し,6年ごとにこれを回収し,再び給付するという制度です。

そして,公民は,これと引き替えに,税として,租(稲),庸(労役),調(織物その他の物品)を負担する。

 

さて,班田収授制ですが

一つの土地を一人の人間(または家族)が使用(耕作)し,その反面,税(租、庸、調)を国家に納付することです。
国家と土地使用者(人民)とを直結させ,豪族またはこれに代わる中間搾取的存在を排除している点が,
この制度の大きな特長です。

以上から、古代の土地私有地の状態は垣間見られますが、
この制度が全国くまなく敷かれ、定着していたとは、考えられませんが・・・

ぼちぼち、辿ってみます。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿