末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

昨夜は公益財団法人水道技術研究センターのOB会に出席 その1

2019-09-08 15:21:17 | 工場見学

昨晩は、小生が最後に勤めていた水道技術研究センターのOB会が開催されたために出掛けてきました。

この頃外に遊びに出掛ける時は、我が家から車で30分の松戸市に住む家内の妹のご主人が、

我が家まで迎えに来、また送り届けて下さるので、電車を乗り継いで出掛けるのは久し振り。

会場は飯田橋であったため、柏から新御茶ノ水までは地下鉄。

新御茶ノ水からJRお茶ノ水まで歩き、お茶の水から飯田橋まではJR。

それぞれの駅の中は階段が多く、エスカレーターもないところも多くあり、

さらに飯田橋から会場までは案内では徒歩5分とありましたがそれは健常者のこと、

そこにも階段がいくつかあり、家に帰ると両足のふくらはぎが痛くなり、薬を塗る始末でした。

総会はセンターの事務所で行われたのですが、

センターの事務所は小生が勤務していた頃の虎ノ門から飯田橋に移っており、実は小生今回が初めての訪問でした。

事務所はK.I.S飯田橋ビル7Fにあるのですが、ビルは大きな硝子張りの入口も素晴らしく綺麗。

 

玄関(借用写真)

 

ビル全景(借用写真)

近代的な素敵なビルで、センターのオフィスも広々とした環境で、小生勤めた頃のビルとは月とスッポンの差。

勤務している人の数も大分増えており、センターも益々発展して入り事を感じ嬉しく思いました。


醤油の産地 香川県小豆島

2019-09-06 08:31:19 | 工場見学

産地の最後になります。

     香川県小豆島                

小豆島は豊臣氏の時代、直轄地であったため年貢が免除されていましたが

  

江戸時代になると年貢が義務付けられるようになりました。

平地にめぐまれず、漁業や舟子ばかりの島で、産物といえば花崗岩くらいのもので

なんとか年貢を納める方法はないか、ということで考え出されたのがしょうゆづくりでした。

小豆島は別名「舟手島」と呼ばれていましたが、これはこの島では、昔から水運業に従事した人たちが多かったためでした。

海を隔てた対岸に大坂という大消費地をひかえ、気候的にもしょうゆづくりに適した土地柄であったこと

原料の大豆や小麦は、花崗岩を運んだ戻り舟で入手できたこと

塩は対岸の赤穂や四国地方で産出され、容易に運び込むことができた、などがこの島のしょうゆづくりを盛んにした要因でした。

記録によると、紀州・湯浅でしょうゆの醸造方法を修得した高橋文右衛門が、「180436石6斗のしょうゆを醸造販売した」とあります。

このようにして江戸後期に興ったしょうゆづくりは、明治維新になってから急速に発展し

昭和初期には合わせて百数十軒のメーカーがありました。

1907年に、「丸金醤油株式会社」(現マルキン忠勇株式会社)が設立され

5大メーカーのひとつとして、現在に至っています。現在この他には、30社ほどのメーカーがあります。

 

       終わり

 

 

 


醤油の産地 兵庫県龍野市

2019-09-03 19:54:51 | 散策

   兵庫県龍野市    

                              

龍野は、播州平野の西部に位置した城下町です。

町の東側を流れる揖保川(いぼがわ)と、瀬戸内海を利用した水運の発達が

古くからこの町をしょうゆの産地として発展させました。

 

龍野では播磨平野を中心として、品質にすぐれた播州小麦が産出され

近隣の佐用・宍栗両郡から「三日月大豆」と呼ばれる良質の大豆が収穫され

さらには、町の南西部にある赤穂からは、有名な赤穂塩が生産されるという

原料入手にはきわめて恵まれた所に位置しています。  

    

龍野のしょうゆづくりの起源は、天正年間といわれています。

1587年(天正15年)に酒・しょうゆ醸造業が始まりました。

当初は、しょうゆよりも清酒業が発展し1716~1741年には清酒醸造業者は100軒を超え

「龍野酒」と呼ばれて近隣諸国にまで出荷するようになりました。

しかしその後、清酒業が衰え、しょうゆづくりに転業しました。

龍野では、初めは普通のしょうゆをつくっていましたが 

1666年に「淡口しょうゆ」の始まりである淡い色のしょうゆ製造技術が開発され

1672年には龍野城主の脇坂安政が他国にない淡い色のしょうゆを

「領内物産第一之品」として生産を奨励し、産業の保護・育成策を採りました。

こうして「淡口しょうゆ」は、龍野の特産品として強固な地盤を築き、主に京都、大坂に出荷されました。

現在、国内の5大メーカーのひとつの「ヒノマル醤油株式会社」があり

ほかに「日本丸天醤油株式会社」などがあります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


醤油の産地 野田

2019-09-02 09:05:38 | 工場見学

特徴的な産地の紹介

しょうゆを製造するメーカーは、全国に約1,500社あります。

これらのメーカーでは、各社がそれぞれのブランドを持ち、それぞれの味をもって製品を市場に出しています。

中でも特徴的な産地である、野田(千葉県)、銚子(千葉県)、龍野(兵庫県)及び小豆島(香川県)の4産地をご紹介します。

 

                     

千葉県野田市  

野田は関東平野の中央にあり、東に利根川、西に江戸川が流れ、両川に挟まれています。

江戸時代、大消費地の江戸に出るには、朝、野田を発って江戸川を下ると、昼にはもう日本橋に着いているという

産業地としての立地条件にめぐまれた位置にありました。

 

    

 

    

利根川と江戸川の水運にめぐまれていた野田は、製品の消費地への運搬ばかりでなく

しょうゆの原料の入手にも便利で、大豆は常陸地方小麦は下総台地や上州・相模など

塩は当初は行徳の塩を使っていましたが、やがて赤穂塩を使用するようになりました。

また、江戸川の水質がしょうゆづくりに適しており、こうした点からも

野田における江戸川の恩恵ははかりしれないものがありました。

  

 野田のしょうゆづくりは、記録上では1661

野田に隣接する上花輪村の高梨兵左衛門家によって開始されました。

その後、茂木七左衞門家が1766年、みそ醸造から転じてしょうゆづくりを始めました。

その後茂木家の分家もそれぞれしょうゆ醸造を始め、さらに大塚家、竹本家、杉崎家なども創業しました。

野田は、銚子などより遅れてしょうゆづくりが始まりましたが、

幕末には関東第一のしょうゆ産地として発展しました。

伝承によると、野田のしょうゆは1558~1570年に飯田市郎兵衛が溜しょうゆをつくったのが起こりであるといわれています。

1917、茂木・高梨一族および、流山の堀切家が合同して「野田醤油株式会社」(現キッコーマン株式会社)を設立し

野田は全国一のしょうゆ産地として、今日に至っています。

野田には、同社の他に「キノエネ醤油株式会社」などがあります。

                                                                                                        終わり

  

 


醤油の産地 千葉県銚子

2019-09-02 09:04:25 | 工場見学

 
銚子は千葉県の東側にある、利根川河口の町です。
 
沖合では黒潮と親潮がぶつかり合うため、各地から多くの漁民が集まり、銚子の街は発展しました。
 
また当時の江戸幕府は、生活物資の関西依存から抜け出すために、江戸周辺の産業育成に意を注ぎました。

こうした中で銚子は、関東のしょうゆづくりの中心的存在となって発展していきました。

 

銚子は近隣に関東平野をひかえ、良質の大豆(常陸)小麦(下総、武蔵など)、塩(行徳)

江戸川と利根川の水運を利用して手に入れることができます。

さらに、この水運により、つくった製品を江戸市中に運ぶことができるなど、しょうゆ醸造業発達の要因がそろっていました。

 

銚子で最初にしょうゆづくりを始めたのは、1616年(元和2年)、田中玄蕃でした。

次いで、1700年(元禄13年)紀州から移住した濱口儀兵衛がしょうゆづくりを始めました。

そしてこの2家を中心として、銚子周辺でしょうゆづくりが発展していったのです。

文政年間(1818~1830年)、銚子のしょうゆ醸造業者は20軒に及びました。

明治維新後も銚子のしょうゆ醸造業は発展を続け

現在は国内の5大メーカーのうちの2社(ヒゲタ醤油株式会社、ヤマサ醤油株式会社)があります。

 

              終わり