末期高齢者になってしまった老人の日記

我が家の花の写真を中心に、日々の暮らしの中で起きたこと等を書かせていただきます。

祖父の事 その2

2018-08-24 11:14:05 | 長野の家
台風お見舞い

台風20号に直撃されて被害が出ていますが、皆様のところは大丈夫でしたか?

被害を受けられた方にはお見舞いを申し上げ、一日も早く復旧されるようお祈りしています。

祖父の事その2

祖父の子供は男性5人と女性2人でした。祖父は子供の教育にも熱心だったようで

以下にその状況と、小生の数少ない「いとこ」についても触れたいと思います。

祖父の子供の写真

手前左から 兄を抱いた小生の母 次女、後列左から四男、長男、次男、五男 長女は写っていません

90年程前の写真です。実は大分前に両親や小生の写真帳の写真を全てHDに分類保管してありますので

必要に応じて簡単に取り出せます。元の写真は廃棄してしまいました。

長男

小生の父である長男は、やはり手元に居てもらう事を考えてか、長野の師範学校を出てたのですが

長野県のあちこちの学校の教師をし、終戦時には諏訪市の諏訪高等女学校の教頭をしていたため

進駐してきた進駐軍から追放命令を受け長野の実家に戻りましたので

祖父の期待した様に祖父の生前に実家にいることは殆どなかった様です。

父は理科の教師をしており、学校の樹木の管理もしていた様で

次の写真は諏訪高等女学校の玄関前で撮ったtemple一家の写真です。

temple家一同諏訪高等女学校玄関前にて

小生が通った旧制諏訪中学校は木造のボロ校舎でしたが、高等女学校は鉄筋コンクリート製の綺麗な校舎でした。

写真の母親に抱かれた妹は小学校に入る前に亡くなったのですが

実は小生と妹と二人で留守番していた時、キャンデーを買い妹に食べさせたことに起因して下痢をし

それが原因で亡くなっったいう痛恨の経験をしています。

亡くなった後家族で般若心経を毎日唱えていたため、今でもほぼ空で唱えられます。

兄も亡くなりましたから、小生までの代でtemple家で残るのは小生唯一人になってしまいました。

次男

次男は早稲田大学を卒業。多分学校友達であったか社会党の浅沼稲次郎さんと交流したりしていましたが

若くして自動車事故で亡くなりましたので、この叔父の記憶は殆どありません。

三男

小さいころ亡くなりました。

四男

法政大学を出て多分長野県の学校で教員をしていた様です。

柔道の先生もしていました。結婚して子供がいなかったので絶えてしまいました。

霧ヶ峰高原へ、叔父叔母夫婦、兄の友人そしてtemple家一同が遊びに行った時の写真が残っています。

霧ヶ峰高原にて

左から叔父夫妻、兄の友人、父親、小生 兄、母親です。

小生いかにも「きかん気」の顔をしていますが、当時は大分いたずら小僧だった様です。

五男

東京農業大学を卒業。長野に何時戻ったかは分かりませんが、結婚した後は叔父、叔母二人とも

教師として長野県の旧制中学や高等女学校に勤めていました。

長野の家のリンゴの剪定をして下さった他、色々と我が家に貢献して下さった有難い叔父で90代まで長生きしました。

叔父には二人の子供があり、弟は小生より一回り年下で、男で生きている唯一人の大事な従弟であり、

現在横浜に住んでいます。奥さんは絵を描いており個展も開くなど活躍しています。

叔母は二人が小さい時にバイヨリンを厳しく教えており、長野の家に遊びに来た時も同様でした。、

そのためか姉は現在長野県松本市でオーケストラの一員として演奏活動を楽しんでいます。

長女

長女は女学校を出て、その後結婚されて長野県の上田市に住んでいました。

子供は男性2人、女性1人の3人で、次男は小生と同じ歳であったので仲のよいいとこでしたが

残念ながら小さい時に亡くなってしまいました。

ここのお宅には小生学生時代の冬には、下宿させて頂いたり大変叔母にはお世話になりました。

叔母は90代まで長生きされました

長男も亡くなっていますが、90歳近い従姉は現在埼玉県の所沢に元気に住んでおられ

時々電話で交流させて頂いている大事な従姉です。

次女

次女の叔母も叔父も割合若い時に亡くなってしまいました。

子供は従妹の一人で、確かtemple家が長野県諏訪市に住んでいた頃諏訪で生まれ

産後に母子がtemple家に暫くいた記憶があります。

数少ないいとこの一人で大事な従妹です。