flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

たつきビル

2007-08-17 00:00:31 | STRUCTURE-構造物残影-
(愛知県岡崎市康生町)
 岡崎市の古くからの市街地である康生町周辺には、数多くの商店が存在した。その一つ、中央マーケットは、終戦直後の再興商店街として、康生町北東の八幡町に誕生した。そして、昭和28年(1953)康生町に移転し、岡崎城の「龍城」に肖り、たつき百貨店として新たなスタートを切った。
 昭和40年(1965)ジャスコの前身「オカダヤ」がテナント入りすることになり、地上4階地下1階の、たつきビルを築造。ビル内に、たつき百貨店時代の商店を入居させ、ストリートショップに見立てて、後のショッピングセンター内専門店街にヒントを与えた。また、衣料品、雑貨をオカダヤ、食料品をヤマナカが担当した。
 周辺には、第1次市街地再開発事業によって、昭和47年(1972)にセントラルパークビル(パークモールセルビ)、昭和48年(1973)には協同組合岡崎ショッピングセンタービル(レオ・松坂屋)、西三河総合ビル(名鉄岡崎ホテル・サンリバー)が完成した。引き続き行われた第2次市街地再開発事業によって、昭和51年(1976)にオカダヤをジャスコと改め、売場面積を拡張するのを機に、たつきビル東側に新天地ビル(南側エスカレーター)、北側に中央ビル(東側エスカレーター・管理ビル)、岡崎相互ビル(ジャスコ棟)と整備を進め、ジャスコをキーテナントにシビコが誕生した。然し、80年代に入り、次第にドーナツ化現象が起こり、それに追随するようにジャスコは郊外型店舗にシフトし始めた。
 先ず、食料品でジャスコと競合していた、たつきビル地下のヤマナカが撤退。そして平成10年、ジャスコは市街地から撤退することを決め、これがシビコに大いなる影響を与え、上層階部及び一部ビルの閉鎖に至ったわけである。そして、平成16年に閉鎖した西三河総合ビルのテナントが転居し、少しは潤いを与えたが、たつきビルにまでに届く力はなかった。
 ジャスコ本体が岡崎相互ビル側に移り、シビコが誕生して以降、たつきビルはテナントが100%に埋まることなく、平成15年に閉鎖に至った。平成18年から解体が始まり、翌年終了したが、基礎部分が残っている。この地にはマンション等の構想があるようだが、一宮市のグランドタマコシ解体の際も旧基礎部分を残したためか、再建の際、新基礎工事に時間を要しているようであった。
 また、後処理被害の例として、神戸駅前の旧三越を解体し、昭和61年、平成2年に建造したシティホテルシェレナは、阪神淡路大震災の際、閉鎖に至る程の大きな被害を受けた。旧建物基礎部分及び地下部分を残したまま、その上に新たに建造したため、耐震強度を著しく低下させ、破損に至ったといわれている。

 分断された双方シビコの旧通路部分は、応急的な壁が付けられている。そして、剥ぎ取られた新天地ビルと中央ビルの壁面が、空しく灰色を晒している。
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