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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

刈谷城

2007-08-29 01:00:42 | 城郭・城下町

(刈屋城 亀城 愛知県刈谷市)
 刈谷へは昭和57年から訪れて始めて以来、特に最近は所用で数十回訪れている。潤ってはいるのだが、寂れた街。私が知る時期だけでも、その商業的衰退は著しい。そして財政状況良好な工業都市であるためか、いわゆるハコモノ整備は進んでいるが、城跡などの観光や史跡整備等はあまり関心がないようだ。
  
 天文二年(1533)水野忠政が、それまであった刈谷城(本刈谷神社付近)を移転拡大し、築城したのが始まりである。一時、佐久間信盛の所領となるが、再び水野氏のものとなった。そして水野勝成のとき、大和郡山へ移封、勝成弟忠清が入るが、間もなくして三河吉田へ移封された。代わって吉田から松平忠房が入った。慶安二年(1649)に忠房が丹波福知山へ移封し、伊勢桑名から松平定政が入ったが、改易となり、越後三条稲垣重綱が入る。元禄十五年(1702)稲垣重富のとき、上総大多喜の阿部正春と入れ替わった。そして、宝永七年(1710)正春子正鎮のとき、上総佐貫へ移封、越後村上より本多忠良が五万石で入ったが、二年後に下総古河にに移封した。代わって日向延岡から三浦明敬が移るが、延享四年(1747)義理のとき三河西尾へ移封、入れ替わって土井利信が入り、廃藩まで土井氏が続いた。
 
 往時は天守は無く、隅櫓のみであったという。その後建物石垣等は取り払われ、現在は本丸、二の丸跡及び土塁、堀が残り、北側の隅櫓のあった場所には十朋亭(じっぽうてい)が建っている。第二次世界大戦時には高射砲陣地となり、地形がやや改変されたが、昭和44年に亀城公園として整備された。然し、街外れの公園という感が否めなく、多少の整備が望まれる。
 三の丸東側には土井氏の時代、藩校文禮館が設けられた。現在の亀城小学校へとつながっている。


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コメント (4)
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