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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

飯田

2007-08-19 00:00:14 | 城郭・城下町

(長野県飯田市 1998年8月19日の日記から)
 「伊那路」で北へ向かう。
天竜川に沿い始めると、乗り堪えのある感じとなってくる。それは三信鉄道時代そのままの紆余曲折を繰り返し、天竜の流れと共に登竜するからである。
 二度目の飯田に到着した。
飯田城二の丸であったところには、美術博物館が建てられ、丘陵上であることから、松川や鼎、赤石方面が望められる。
博物館は、基本設定を「伊那谷の自然と文化」とし、常設展示を「豊かな伊那谷の自然とその生いたち」と「伊那谷の風土とそこに生きる人々」としている。
特別展示は、開館10周年記念として脊椎動物化石研究者、長谷川善和氏のコレクションから「ゾウ化石の発掘から復元まで」と、人形美術家、川本喜八郎展が催されていた。三国志と平家物語の人形劇用人形を主に展示していたが、同氏記念館を市内に建設する計画があるようだった。
 隣接して本丸跡には、柳田國男館と、日夏耿之介記念館がある。民俗学の盛んな信州地方において、飯田藩士柳田家に養嗣子としての経緯等から、所縁の地として東京世田谷から國男の書斎「喜談書屋」を移築し、資料等を開放している。これは、理想の姿であると思う。また、柳田國男記念伊那民俗学研究所が開設され、活動も始められている。
隣接して建つ、日夏耿之介記念館は、飯田出身の近代文学者であり、建物と共に作品、遺愛品が展示されている。これら文化施設をみて、伊那地方の中核地らしい部分を感じた。
 本丸跡には長姫神社が鎮座する。飯田城主堀氏を祀ったものである。
飯田城の前身は建保年間(1213-18)坂西長由が築いたことに始まる。
天文二十三(1555)には武田氏臣秋山信友が入り、城郭を改修した。天正十年(1582)織田勢により落城し、変わって毛利秀頼が十万石で入城するが、本能寺の変後は家康臣下条頼安、天正十五年(1587)には菅沼定利が入った。天正十八年(1590)には秀吉の命により再び秀頼が入るが、文禄二年(1593)に死去した。変わって秀頼娘婿の京極高知が入り城郭を改修、慶長六年(1601)丹後宮津に移封した。続いて小笠原秀政が入るが慶長十八年(1613)信濃松本に移封、一時天領となったが、元和三年(1617)伊予大洲から脇坂安元入った。安元の養嗣子安政の代には播磨龍野に移った。そして、寛文十二年(1672)下野烏山から堀親昌が移封、以降廃藩まで堀氏が続いた。
 飯田城跡は宝暦四年(1754)建造の桜丸御門や、外堀石垣、石塁また、移築された二の丸門等が残るが、末期は一万石代であったものの、城郭の規模に対して残存する遺構が少なく、整備復元等も進んでいないのが残念に感じた。
    
 飯田城跡を後にし、別府の縄文遺跡を踏査しようと丘を下ったところ、突然の豪雨にみまわれた。急遽、雨宿りをしたが、その場所は飯田城時代には自然の形状を活かした堀であった場所であった。その場所は民家が密集し、雑然とした光景が広がっていた。天候は回復をみなかったが、伊那から遠州、三河と戻り行く度に、段階的に天気が回復していった。国境とはよくできたものである。

(地域関連記事:元善光寺 天竜峡

コメント (2)
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