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「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

大和 郡山城

2007-07-28 00:00:09 | 城郭・城下町

(奈良県大和郡山市 1983年7月25日)
 金魚養殖の盛んなまち、こおりやま。
中、近世は、実質的に大和国の政治的中心地であった。
 天正八年(1580)織田信長臣筒井順慶が、二十万石で入城する。そして、天正十三年(1585)順慶養嗣子定次のとき、伊賀上野へ転封し、豊臣秀長が入城。その際、石垣の石材に平城京の礎石、地蔵、墓石等をも用いて城郭を拡大した。秀保の死後は、豊臣家臣増田長盛が二十万石で入城し、関ケ原の戦いの際の行いにより、高野山に追放され、一時奈良奉行所の預かりになったが、大坂夏の陣後に三河刈谷水野勝成が入城した。然し、元和五年(1619)備後福山へ移封している。続いて松平忠明が入り、伏見城の門を移築している。
 寛永十六年(1639)忠明は播磨姫路に移り、代わって本多政勝が入ったが、政勝の死後、二分する家督争いが起き、「九六騒動」という幕府を巻き込む出来事となった。代わって播磨明石松平信之が入り、貞享二年(1685)下総古河へ移封、続いて下野宇都宮から本多忠平が入り、本多家が五代続いたが、忠烈が八歳で没し、郡山本多家は断絶した。そして、享保九年(1724)柳沢吉里が十五万石で甲斐甲府より移り、柳沢氏が廃藩まで続いた。
 本丸法印郭には、旧奈良県立戦捷記念図書館の建物が移築され、市民会館として利用されている。

(関連記事:大和郡山平成二十六年


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