チェコ・プラハに住む友人から送られてきた、「プラハの風景写真」です。
今回は、市内のあちらこちらに見られる、「彫像のある建物」の写真 (その1) です。
チェコ人は、「自分たちの地域を、あらゆる種類の彫像で飾ることに非常に熱心だ」そうです。という事で、いくつかの彫像の紹介です。
カレル橋の近くにある、「ワイン・ギルドが入っていた建物」です。
ギルドは、プラハのすべてのワイン事業を取り仕切っていました。彫刻家ヤン・イジー・ベンドル (Jan Jiří Bendl) による1676年の彫像が、コラム (円柱) の上や建物の窓風の枠に置かれています。
次は、「黄金の井戸の家」(U Zlate studny) です。
カレル橋から旧市街広場へと続く、カルロヴァ通り (Karlova) (12世紀頃はイエズス会通りで、また、プラハ城まで戴冠式の行進が行われた「王の道」でしたので「チャールズ・ストリート」とも) と、セミナルスカ通り (Seminářská) の角にあります。
元は、剣職人が所有していたと言う建物は1354年に建てられ、16世紀末に、ローマ教皇大使スピネッリが住んだことで、「赤い椅子」という名前で呼ばれたそうです。その後も再建を重ねて、ロマネスク様式からバロック様式になり、現在は、「ホテル・オーラス」(Hotel Aurus) になっています。
外観に、黄金の太陽の装飾があるほか、1713年に作られた、聖ヴァーツラフ、ネポムクの聖ヨハネ、聖イグナチオ、聖フランシスコ・ザビエルといった、聖人のレリーフがあります。
この建物には、いくつかの伝説があります。
1つ目として、建物の下にある井戸の水は澄んでいるので、人々はその底には金が埋められている、と信じていました。この家に雇われていた家政婦が金を発見しようと身を乗り出し、井戸に転落して溺死しました。それ以来、その幽霊が現れる、と言われるものです。
2つ目は、これに続くような話で、最後のところが、館主が井戸を清掃したところ、本当に黄金が見つかった、と言われるものです。
3つ目は、この井戸へ水を汲みに来た美しい娘が、誤って落ちて亡くなりました。向かいに住んでいた男が、娘の亡骸を引き上げた時に、底にあった大量の金貨を発見して金持ちになり、大きな館を建てました。そうすると、娘の亡霊が毎晩現れ、私のお陰でお金持ちになったのにと泣いたので、男は立派な像を作らせて自分の館のバルコニーに置きました。そうすると、亡霊は現れなくなった、というお話です。
では、次は、アールヌーボーの装飾が美しい、「金の爪の家」(U zlateho hrebiku) です。黄金の井戸の家の向かいにあり、1905年に、この様式に建て替えられたそうです。
この建物のバルコニーには、女性の像が飾られています。これが先ほどの伝説に出てきた井戸に落ちた娘像とのことです。また、別の説もあって、チェコの建国神話に登場するプラハの女性英雄・女王リブシェの姿だ、とするものです。
カルロヴァ通りを進み、フソヴァ通り (Husovaフス通りとも) と交差するところには、「クラム・ガラス宮殿」(Clam-Gallasův palác) があります。
現在、建物の改修工事中ですが、入口の左右には、柱に施したギリシア神話のアトラス像(男像柱)があります。プラハに定住したオーストリアの彫刻家、マーチャーシュ・バーナード・ブラウン (Matyáš Bernard Braun) が制作したものです。
建物は、ナポリのガラス総督のために、ウィーンの宮廷建築家の監督により、イタリアの建築家によって、1713年から建築が開始されました。1719年に完成し、その美しさのため、バロック建築の真珠とも呼ばれたりしました。
当時の建物の絵 (ネットから) です。ちゃんと彫像も描かれています。それにしても、プラハという地に、ナポリ総督の資産により、ヨーロッパ各地からやって来た職人たちが宮殿の建設に従事したというのには、驚きます。国際的な都市でした。
以来、宮殿では、舞踏会やコンサートが開催され、モーツァルト夫妻が訪れたり、ベートーベン本人が演奏したりしたことがあったそうです。作家フランツ・カフカが若い頃、法律の勉強を終えたとき、ここで研修生として働き始めたことも。
現在、プラハ市所有の公文書館第二会館になっていて、不定期の展覧会、コンサートなどのイベントが開催されている期間は、入場が出来るようです。(この写真はネットから)
この続きは、次に。
今回は、市内のあちらこちらに見られる、「彫像のある建物」の写真 (その1) です。
チェコ人は、「自分たちの地域を、あらゆる種類の彫像で飾ることに非常に熱心だ」そうです。という事で、いくつかの彫像の紹介です。
カレル橋の近くにある、「ワイン・ギルドが入っていた建物」です。
ギルドは、プラハのすべてのワイン事業を取り仕切っていました。彫刻家ヤン・イジー・ベンドル (Jan Jiří Bendl) による1676年の彫像が、コラム (円柱) の上や建物の窓風の枠に置かれています。
次は、「黄金の井戸の家」(U Zlate studny) です。
カレル橋から旧市街広場へと続く、カルロヴァ通り (Karlova) (12世紀頃はイエズス会通りで、また、プラハ城まで戴冠式の行進が行われた「王の道」でしたので「チャールズ・ストリート」とも) と、セミナルスカ通り (Seminářská) の角にあります。
元は、剣職人が所有していたと言う建物は1354年に建てられ、16世紀末に、ローマ教皇大使スピネッリが住んだことで、「赤い椅子」という名前で呼ばれたそうです。その後も再建を重ねて、ロマネスク様式からバロック様式になり、現在は、「ホテル・オーラス」(Hotel Aurus) になっています。
外観に、黄金の太陽の装飾があるほか、1713年に作られた、聖ヴァーツラフ、ネポムクの聖ヨハネ、聖イグナチオ、聖フランシスコ・ザビエルといった、聖人のレリーフがあります。
この建物には、いくつかの伝説があります。
1つ目として、建物の下にある井戸の水は澄んでいるので、人々はその底には金が埋められている、と信じていました。この家に雇われていた家政婦が金を発見しようと身を乗り出し、井戸に転落して溺死しました。それ以来、その幽霊が現れる、と言われるものです。
2つ目は、これに続くような話で、最後のところが、館主が井戸を清掃したところ、本当に黄金が見つかった、と言われるものです。
3つ目は、この井戸へ水を汲みに来た美しい娘が、誤って落ちて亡くなりました。向かいに住んでいた男が、娘の亡骸を引き上げた時に、底にあった大量の金貨を発見して金持ちになり、大きな館を建てました。そうすると、娘の亡霊が毎晩現れ、私のお陰でお金持ちになったのにと泣いたので、男は立派な像を作らせて自分の館のバルコニーに置きました。そうすると、亡霊は現れなくなった、というお話です。
では、次は、アールヌーボーの装飾が美しい、「金の爪の家」(U zlateho hrebiku) です。黄金の井戸の家の向かいにあり、1905年に、この様式に建て替えられたそうです。
この建物のバルコニーには、女性の像が飾られています。これが先ほどの伝説に出てきた井戸に落ちた娘像とのことです。また、別の説もあって、チェコの建国神話に登場するプラハの女性英雄・女王リブシェの姿だ、とするものです。
カルロヴァ通りを進み、フソヴァ通り (Husovaフス通りとも) と交差するところには、「クラム・ガラス宮殿」(Clam-Gallasův palác) があります。
現在、建物の改修工事中ですが、入口の左右には、柱に施したギリシア神話のアトラス像(男像柱)があります。プラハに定住したオーストリアの彫刻家、マーチャーシュ・バーナード・ブラウン (Matyáš Bernard Braun) が制作したものです。
建物は、ナポリのガラス総督のために、ウィーンの宮廷建築家の監督により、イタリアの建築家によって、1713年から建築が開始されました。1719年に完成し、その美しさのため、バロック建築の真珠とも呼ばれたりしました。
当時の建物の絵 (ネットから) です。ちゃんと彫像も描かれています。それにしても、プラハという地に、ナポリ総督の資産により、ヨーロッパ各地からやって来た職人たちが宮殿の建設に従事したというのには、驚きます。国際的な都市でした。
以来、宮殿では、舞踏会やコンサートが開催され、モーツァルト夫妻が訪れたり、ベートーベン本人が演奏したりしたことがあったそうです。作家フランツ・カフカが若い頃、法律の勉強を終えたとき、ここで研修生として働き始めたことも。
現在、プラハ市所有の公文書館第二会館になっていて、不定期の展覧会、コンサートなどのイベントが開催されている期間は、入場が出来るようです。(この写真はネットから)
この続きは、次に。