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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年05月30日 | I日記
昨日(5/29)、渋谷のライブハウスで聞いていたあるバンドの歌の中に、「春の風が吹いて~」みたいな歌詞があって、そのときに不意に思ったのは、Iはいままさに春の風に外に出れば吹かれているわけだけれど、それを「春の風」などとIは言語化できないということで、またそれはなんていいことなんだろうということだった。人間になる予定のまだ文明化されていない動物。ぼくは彼といる時間と芸術的な表現を見に行く時間とどちらをとるか悩む。文明化されていない人間の魅力と文明化されてしまった人間が文明と闘っている状態の魅力との勝負。最近は、週一回主に土曜日に、出かけるのを集約してしまっている。すると、自ずとこの時間にこっちとそっちどれを見るかという選択にも迫られたりする。昨日は、「空き地」を断念することになった。

昨日は、なかなか濃密な一日だった。2時から、高橋コレクション日比谷にて行われた会田誠と遠藤一郎とのトークイベントを聞き、その後、銀座の画廊を少し回ろうとしたが、資生堂ギャラリーをひとつ見た後で外苑前に向かってワタリウム美術館の落合多武の展覧会を見た。渋谷に移動して、HEADZ15周年アニバーサリーイベントの2日目を見た。ぼくは遠藤一郎という作家に特殊な期待を抱いていて、それはひとつには『Review House 02』に掲載された拙論「彼らは「日本・現代・美術」ではない」で書いたのだけれど、そして、そこでは会田と遠藤がいかに違うのかということを書いたのだけれど、そこに書いた以上の何か説明の難しい気持ちというものをぼくは彼にもっている。それをあわてて明らかにする必要なんかないと思ったりもするけれど、ほふく前進イベントで感じたことを中心に近々ぼくなりの遠藤一郎論を書いてみたいという思いは強い。落合多武は、2階が建築物という人間の行いをドローイングという方法で描き横一列にえんえんとに並べていて、人間の営為と手で書くこととの絡みが面白く、3階に行くと今度は無意識と意識の問題が明確に出てきて、とくに熱帯雨林を目をつぶって描いたという何十枚ものドローイングにまさにその無意識的なものと意識的なものの交差を感じ、4階では、自然と人為という事柄へと焦点が絞られていた。ちょっと思ったけどあっという間に忘れてしまい消えてしまうものを、それこそを捉まえたい捉まえるべきだという作家の意志を感じた。それって、メモとかノートとかブログとかTwitterとかそうしたものに近いなと思わされた。

Iの話に戻ると、Iは多分今のこの時期を将来思い出せないだろう。非言語的なときのことを言語的になってしまってからのぼくたちは思い出せないそうだ。ちなみにぼくは全然思い出せない。そうであるにもかかわらず、ぼくたちは非言語的だった時代を糧にして生きるのだそうで、ぼくがときどきIを見ながら胸が苦しくなるのは、そうした決して思い出せないが思い出したい何かの面影をしているからなのかもしれない。