Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

加藤翼

2010年05月10日 | 美術
一昨日は、いろいろと美術館/ギャラリーをはしごした。「六本木クロッシング2010展:芸術は可能か?」は、宇治野宗輝の展示と入り口前の大きなスクリーンに映されたChim↑Pom「Black of Death」が素晴らしく、知らなかった作家のなかではとくに加藤翼がなにかわくわくさせる存在感を放っていた。御柱祭みたいだ!これのどこがアートなの?と問う前にこれがアートだとしたらアートとは如何なるものかと考える方がいいと思うんだ、その方が楽しい。You Tubeにはこんな映像がアップされている。

クロージング鳥小屋 加藤翼

g g g(グランドール・グラウンド・グラディエイター) 加藤翼

午前に六本木に行った後、SNACで八木良太「事象そのものへ」、αMで田口行弘の展示を見た。久しぶりに神保町へ行って昼ご飯、たまたま入ったつけ麺屋の近くの古本屋にてポンタリス『魅きつける力』を購入。

リッツア『消費社会の魔術的体系 ディズニーワールドからサイバーモールまで』

2010年05月10日 | Weblog
最近新しい読書をはじめている、そのなかでこの本はきわめて示唆的で面白い。たとえば、第5章 再魔術化Iの「シミュレーション化された人々」という節の一部。 

「同様に、新しい消費手段のなかで生じる訪問客と従業員間の交流もシミュレーション化された特徴をもっている。たとえば、ファーストフードレストランの給仕人、ショッピングモールやスーパーストアの店員、テレマーケターなどとの交流は「本当の」人間的交流ではなく、シミュレーション化された交流と見なすことができる。従業員は台本にしたがっており、客はレシピのような答え(つまり、従業員の台本どおりの振る舞いに対処するために、客がひとりでに身につけた、お決まりの答え)を返すので、本当の交流はまれにしか生じない。実際、これらの環境の内側(および外側)でのわれわれの交流の多くがシミュレーション化されているので、われわれは「本当の」交流の意味が分からなくなるほど、それに慣れきっている。結局、われわれが結ぶ交流のすべてがシミュレーション化されてている可能性がある。シミュレーション化されたものと本物を完全に区別できなくなっている。すなわち、シミュレーション化された交流こそが現実であるかもしれないのだ。」(ジョージ・リッツア『消費社会の魔術的体系 ディズニーワールドからサイバーモールまで』明石書店、2009年、p. 192)

A シミュレーション化されたもの/本物
A’ 現実としてのシミュレーション化された交流/「本当の」交流
B うまくシミュレーション化されているもの/うまくシミュレーション化されていないもの

読んでいる内、自分の思考がA→A’→Bと進んでゆく。