Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

tinkerng or prop dance

2010年05月26日 | ダンス
「家庭にあるもののひとまとりぜんぶが寄せ集められ、一緒に踊られる。これらは偉大なミュージカルがつねに形成し続けてきた諸連関に他ならず、つまりこれらはミュージカルが強調する連続性に間違いない、そう、わたしたちが話すとそれは音楽へと引き寄せられ、わたしたちの歩き方はダンスの内へと入り込められる。そしてわたしたちの家のなかにあるものたちはみな即興されるバレエのために用いられる可能性のある小道具なのだ。」(マイケル・ウッド『アメリカ・イン・ザ・ムーヴィーズ』p. 156)

Jane Feuerは、『ザ・ハリウッド・ミュージカル』(1993)のなかで、上記したウッドの文章を引用したうえで、ミュージカル映画のなかでどれだけ小道具がダンサーたちの重要なパートナーとなっていたのかを振り返っている。「プロップ・ダンス(小道具を用いたダンス)」と呼ばれることがあるこうしたダンスを考察するのに、Feuerがレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」概念を援用しているのは興味深い。 すべてではないのだけれど、Feuerが言及するもののなかで、You Tubeで見ることの出来るリストを作ってみた。最初に出てくるのは、これ。

Moses Supposes: Singin' In the Rain by Gene Kelly and Donald O'Conner

ケリーとオコナーは発音の先生にいらいらして、彼をからかいながら手もとにあるいろいろなものを使って、例えば、カーテンを衣服にしてみたりして、その場をどんどん教室とは違う場所にしてゆく。

うーん、面白い。

そこで、クロード・レヴィ=ストロースの『野生の思考』(1962)に戻って、ブリコラージュの定義を見てみた。

「原始的科学というより「第一」科学と名づけたいこの種の知識が思考の面でどのようなものであったかを、工作の面でかなりよく理解させてくれる活動形態が、現在のわれわれにも残っている。それはフランス語でふつう「ブリコラージュ」bricolage(器用仕事)と呼ばれる仕事である。ブリコレbricolerという動詞は、古くは、球技、玉つき、狩猟、馬術に用いられ、ボールがはねかえるとか、犬が迷うとか、馬が障害物をさけて直線からそれるというように、いずれも非本来的な偶発運動を指した。今日でもやはり、ブルコルールbricoleur(器用人)とは、くろうととはちがって、ありあわせの道具材料を用いて自分の手でものを作る人のことをいう。」(クロード・レヴィ=ストロース『野生の思考』、みすず書房、p. 22)

思いもかけぬ方向に飛んでいってしまうことが語源であるとして、それが「器用仕事」とでも訳せる意味合いをもつようになったことがまずはとても面白い。もちろん、いまとくに注目したいのは、「非本来的な偶発運動」という表現で、たまたまの「運動」を「非本来的」とはいえむしろその点を逆手にとって、未知の可能性へと変換してゆくことが「器用仕事」であり、Feuerがそれと重ねようとしているミュージカル映画での「プロップ・ダンス」なのではないか、ということだ。次の『パリのアメリカ人』は、「もしどんな小道具が手元になくても、パフォーマーは道具として自分の身体を用いて小道具を擬態するかもしれない」(The Hollywood Musical, p. 4)例としてあげられている。

An American In Paris by Gene Kelly

次の『ロイヤル・ウエディング』は、「この種の手直し[原文はtinkering。ブリコラージュと同義の語としてFeuerは用いている]が、実際のところは技巧的なノウハウの妙技であるようなナンバーに自発性の抗しがたいアウラを与える」(ibid.)こととなる例である。重要なのは、自発性のアウラなるものは見る者をひきつける力の話であるならば、その力の源泉として示唆されているのがブリコラージュだということである。ここで「ブリコラージュ」とは、ダンスの相手がいないから、仕方なく何かを捉まえてきて、パートナーをでっちあげる努力のことではないようだ。いないのにいることにすることが問題なのではなく(ダンサーの不在を補うことが問題なのではなく)、そこにあるもの(小道具)に別の可能性を与えることであり、そうすることによって可能になること、すなわち「自発性のアウラ」をその場に作動させるもののこと、なのだ。

Royal Wedding by Fred Astaire

Feuerはさらに「アステアとケリー両者にとって、小道具は小道具としてあらわれてはならない」(ibid., p. 5)という。「むしろ小道具はその環境内に存在する現実のもの(actual object)という印象を与えなければならない。」(ibid.)例としてあげられるのは、モップやゴルフ・クラブやボール、花火、ピアノや椅子、ステッキなどを踊りのパートナーにするこうしたナンバー。

Thousands Cheer by Gene Kelly

Carefree by Fred Astaire

Holiday Inn by Fred Astaire

Let's Dance by Fred Astaire

Top Hat by Fred Astaire

小道具から議論は「環境」へ。Feuerが「環境のコレオグラフィー(environment choreography)」と呼んでいる空間に存在するものをすべてダンスのパートナーにしてゆくアイディアは、もちろん、『雨に唄えば』のもっとも有名なタイトル曲の場面にも該当するものである。それの名も確かにあげられるのだけれど、例えば、これなども。

Living a Big Way by Gene Kelly

これと「雨に唄えば」の違いを丁寧に考えてみるのはきっと生産的だろう。ここではダンサーを鼓舞するのは子供たち、対して「雨に唄えば」では?とか。アスレチックなスポーツマン(スケート・ボーダー)のようなケリーと、「雨に唄えば」のケリー。

ところで、今回Feuerの本に出てくるナンバーをYou Tubeでチェックして、2番目に感動したのがこれ。昨日、家で子守しながら見ていたのだけれど、Iはぎゃははと笑いながら見てました(どこを見て笑っているのかは本人に聞いてみないと分からない)。生後四ヶ月にしてどうもダンスが好きみたいです。

It's Always Weather by Gene Kelly etc.

ゴミ箱のフタを足にはめて踊るところに、Feuerは注目するのだけれど、このナンバー、どこもすべてすごい。冒頭のくねくねダンスは、ぐちゃぐちゃ酩酊チャールストンにも見えるが、体をおもちゃにするゲームにも見える。タクシーのところもいい。

そして、一番感動したのはこのナンバー。Feuer曰く「ケリーによるすべての環境的な着想のなかでもっともすぐれている自発性の印象は、舞台のキーキーときしむ床板や新聞紙から突然あらわれる。」(ibid., p. 6)

Summer Stock by Gene Kelly

すごいいいですよね。感動するな、本当に。

ちょっとした「あれっ?」からダンスが生成する。キーキーいう床板は、突拍子のない思いつきによって、突如としてダンスの相棒と化す。「相棒」なんだけど、擬人化とは違う。床板はいつまでも人間の相貌を帯びることはない。どんどん半分にちぎられてゆく新聞も、人間には見えない。むしろここにあるのはこんな身体もダンスのパートナーになりうるのだという発見だろう。だから、むしろダンスの相貌こそここで変容している当のものではないだろうか。これもダンスなのだ、というわけだ、そのことに感動しているのだ、きっと。これがディズニー映画であれば、新聞紙も床板も「くん」づけしたくなるような擬人化が施されることだろう(とはいえ、かのディズニーでも彼らを人間化するのはなかなか大変だろうが)。ものの相貌は相変わらず変容しないのだけれど、何かが変化して見える。このことにうなってしまう。

あらためてレヴィ=ストロースに戻ってみると、彼はこんなこといっている。

「とりわけ大切なことなのだが、道具材料と一種の対話を交わし、いま与えられている問題に対してこれらの資材が出しうる可能な解答をすべて並べ出してみる。しかるのちその中から採用すべきものを選ぶのである。彼の「宝庫」 を構成する雑多なものすべてに尋ねて、それぞれが何の「記号」となりうるかをつかむ。」(『野生の思考』、p. 24)

ちなみに、「宝庫」のところに註があって、「ユベールとモースは、魔法をいみじくも「アイディアの宝庫」と呼んでいる」(同上、p. 25。引用者による加筆修正あり)とある。なんでもない小道具は、魔法=ダンスによって、別の何か(記号)へと変換させられ、その魔法は、この変換作用を通して、踊りの空間そのものを別の世界へと変容させてゆく。

最後に、Feuerは、アステアとケリーの違いをこう整理している。

「アステアは一種の失望からプロップ・ダンスを用いているように見える。つまりどんな肉体を有したパートナーも彼の天分(grace)には合わないのだ。ケリーはそれを特殊なアメリカ的慣習と解釈し、ブリコラージュに古きよきアメリカ的創意工夫を与えるのである。」(The Hollywood Musical, p. 6)

Cf. Jane Feuer, The Hollywood Musical, 1993.