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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

I日記

2010年05月17日 | I日記
昨日は、先週同様、Iとぼくと2人きりで昼間を過ごした。今回はひとつの試みをした。妻は母乳を搾乳し(育児がはじまってから、ひとにも搾乳という行為があり、例えば搾乳器というものが売られていることを知った)、冷蔵庫で5回分くらい溜めてくれたのだった。粉ミルクは受けつけないが、ほ乳瓶は大丈夫という判断だった。実際、試したらIはほ乳瓶越しの母乳をごくごくと飲んでいた、数日前のこと。

しかし、昨日は飲まなかった。断固とした拒否だった。7:30頃に母乳をもらい、妻が出かけてから、3時間が経ち、5時間が経っても、絶対に飲まなかった。口に含ませてみる、ちくびの部分に母乳をつけてそれで口に寄せる、いろいろやってもダメだった。こうなったら妻の帰りをひたすら待つしかない。夕方は、延々と廊下を行ったり来たり、自宅散歩をした。Iの機嫌は、夕方に不思議なくらいよくなって、妻が帰ってきたときには、にこーっと笑顔で迎えた。

こちらは、なかなか必死の思いである。妻が最近歌っているトトロの歌とか、ポニョの歌とか、トーマスの歌とか、You Tubeで流しながら、不安を減らしてやろうとする。と、「あるこー」とトトロの冒頭の曲を流したら、それまで笑っていたのが大泣きをはじめてしまった。妻を思い出したのだろうか、妻を思い出せると安心するけど妻がいないという事実を感じるまで妻の存在に近づくと逆に不安になってしまう。難しい。ところで、ミルクが飲めない状況というのはどういうものなのだろう。例えば、自分が8時間飲まず食わずでいろと突然いわれたら、そうとう気が動転するだろう。それも、赤ちゃんには、あと1時間待っていれば、事態は好転するなどという事情を説明することは出来ない。だから待つということが、うまく出来ない。延々に待っているともいえるし、そんなものを待っている状態とはいえない、ともいえる。赤ちゃんは、だから基本的にゆううつをかかえた存在だ。哀しみを生きている。

けれども、なんという笑顔だろう。なんだかずっと笑っている。全身で笑って、身をよじって体をぶつけて、泣いたりそれでも笑っていたりする。手のにぎりがとても強くなってきた。手が次第に意志をもってきた。そう「意志」が生まれてきたのだ。ほ乳瓶の断固拒否も人間への一段階なんだ。

土曜日に、田村一行(壺中天)「オママゴト」と大橋可也&ダンサーズ「春の祭典」を見た。