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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ペドロ・コスタ『血』

2008年08月06日 | Weblog
8/5
ペドロ・コスタ『血』(恥ずかしながら彼の作品は今回初めて見ています)は、彼の処女作故にということがあるのか、なんとなく「映画好きの映画」という感じが濃くて、なんとなく??と思いながら見てしまった。あまり映画を見ないぼくでも「なんとなくムルナウに似ているな」とか「最近見たコクトーのこと思い出させる」とか、そういう場面が散見するのだった。とくに、気になったのは、画面の中心に重要な対象を置こうとすることで、その執拗さは、例えば、「女が走ってきてフレームの中央あたりにくると立ち止まり振り向く」なんていうシーンに顕著で、その定石へのこだわりが何を意味しているのか分からず、分からないので「趣味的」(映画好きの映画)に見えてしまった。けれども、DVDの付録映像でのある批評家のコメントを聴いていると、かなり自覚的に反省的にそうした手法に対してアプローチしているのだと言うことが分かり、その視点から頭の中で整理し直したりした。すると、ショットとショットのつながらなさ、とくに登場人物たちの感情の読み取れなさは、感情の揺れ動き(人間とはそういうものだ的な)を示そうとしたと言うよりは、極めて映画的な試み(映画とはどういうものなのか的な試み)であることが分かってきた。ショットとショットの繋がりは、考えてみればどうであってもいいはず、少なくとも、物語に奉仕する必要は必ずしもないはず。そうした当然あるはずの映画の余地に揺さぶりをかけている作家ということがよく分かった。けれども、ぼくとしては、その批評家が指し示す「シャーマニズム」的な作風と言うところに興味がわいた。見ていながら、スゴイ奇妙なシーンとかを発見していたからだ。見上げるショットでお父さんが立っていて、その後ろのソファに男の子が寝そべっているのだけれど、椅子の格子越しにあらわれたりところどころ消えたりしてしまう彼の顔は、なんだか「心霊映像」みたいだったのだ。映画(写真)はすべからく心霊写真なのではないか、という仮説で、今後夏休みの映画鑑賞を進めようと思う。そう、その点でも、この映画とコクトーの『恐るべき子供たち』の類似性をその批評家(名前失念、すいません)がしゃべっていたのは、面白くそしてたまたまこんな短いタイミングでこの二本を見た偶然は、ちょっとすごくて何だか背筋をひやっとさせた。