Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

インタ→エモドロ→Chim↑Pom、遠藤→メサジェ→田中→手塚+足立

2008年08月27日 | 美術
8/26
22-23と大学の仕事で軽井沢に滞在。帰りにセゾン美術館にて「多様性の起源-1980年代」を見た。久しぶりにキーファーを見た。単に80年代美術(ニューペインティングなど)を見るということのみならず、セゾン的な文化を見るという意味でも有意義だった。こんな色の、タッチのセンスあったなーと、懐かしい。その後、雨続きで出不精になっていた。26日、地元東金のタウン誌が取材をしてくださるということで、朝から都心に出ることになった関係上一日でいろいろと見て回った。

「エモーショナル・ドローイング」(東京国立近代美術館)。ドローイングは、ペインティングと違って、シンプルで直接的なので作家の心身状態をダイレクトに伝えられるという発想が、展覧会の「エモーショナル」=「ドローイング」というアイディアを支えているようだけれど、ちょっとそれは単純なのではないかと思いながら見ていた。作家と描かれたものとが直接的な関係にあるというのは、必ずしも事実ではなく、恐らくのところひとつの思想でしかない。その思想を確認するための絵画だったり展示だったりするのであれば、それはちょっと貧しいと思ったのだ。むしろドローイングには、作家さえも予想していなかった何かが引き出されてくるところがある。ドローイングは輪郭の分かりやすい「エモ」よりも得体の知れない無意識こそ描いてしまうものではないか。今回、とくにアジアの作家がフィーチャーされていて、彼らの動向の一端が分かった気がしたのだけれど、こうした思想が非西洋的な自分たちのアートを説明するやや便利な道具にしてはいないか、という印象が強い。西洋=知性的、東洋=感性的=エモーショナルという二分法というか。奈良美智の最新作のなかに「名古屋嬢」との言葉を付した、確かに頭の後ろがボヨンと出っ張った女の人が描かれていて、奈良は決して子供を描く画家ではないということが分かって面白かった。「名古屋嬢」、確かに面白いよな、多分、「つっぱってる」ひとがいいんだよな、奈良にとって、そこにほんとは年齢は関係ないのかも知れない。あと坂上チユキがちょっとよかった。ミニアチュールはどうしてなんだろう、引きつけられてしまう。あと「壁と大地の際で」という小さい展示もあった。これは、壁=垂直性と大地=水平性という絵画的問題を意識させるような展示だった。この垂直性/水平性というのは、配布パンフレットにも指示されていたように、レオ・スタインバーグという美術批評家の「フラット・ベッド」(水平台)としてデュビュッフェの絵画を解釈したアイディアやロザリンド・クラウスらの「アンフォルム」というアイディアのなかで参照されている、今日的な視点。そうした視点のいわば啓蒙的な展示にみえたけれど、とくに見る者に自分の身体性を意識させる点で面白く、一種の絵画における演劇性と繋がっている点でも興味深い。企画者は三輪健仁。

次はChim↑Pom「友情か友喰いか友倒れか/BLACK OF DEATH」(@清澄白河HIROMI YOSHII)へ。メンバーの水野がコンクリのブロックで作った小屋にカラスとネズミと一緒に暮らしていた、らしいが、覗く限りカラスは死んで内臓が抜かれ、ネズミの姿はない。時折、「うー、いってえー」と水野は腹を抱えている。もちろん、ボイスの「コヨーテ」を連想させるが、単なるシミュレーションではなく、ぼくには「アート」のサイト(舞台)を設定しているだけ、に見える。脇に、彼が書いている日記のコピーがあって、読む。ともかく、必見。となりでは、遠藤一郎の展示も行われていた。彼のアートは彼の見解を聞くところまでがその範囲だと思う。ので、行ったら是非、彼と話すことを勧めます。いい話を沢山聞いた。

続いて、六本木へ(こんで四時頃)。アネット・メサジェ「聖と俗の使者たち」。ぬいぐるみ、編みぐるみの肉体性が、これでもかと。キモかわいいのエクストリーム。

さらに、中目黒へ(こんで六時頃)。田中功起のペインティング。サミュエル・L・ジャクソンとかシュークリームとか。

で、ラスト、手塚夏子+足立智美の即興演奏を代官山のヒルサイドテラスにて見た。手塚のことをいま「憑依」「トランス」の問題として考えていて、そんなことを確認するような時間だった。どんどん自由にどんどん本質的になっている。