Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

「リアル系」

2008年08月10日 | Weblog
最近読んだ2冊の本で「リアル」や「純粋」という語彙が論じられていて、それがとても興味深かったので、ごく簡単に整理してみようかと思う。

速水健朗『ケータイ小説的。』(原書房)は、副題に「再ヤンキー化時代の少女たち」とあるように、ヤンキー的なマインドの今日的展開を「ケータイ小説」の分析を通して明らかにしている。「ヤンキー」への眼差しという点がまず、ぼくとしてはとても気になっていて、以前からここでも書いていたことだけれど、サブカル系批評やオタク系批評はあるのに、なぜヤンキー系批評はないの?と以前から思っていたので、その興味からこの本を読み始めた。面白いポイントいくつもあるけれど、何より「リアル系」というキーワードが図抜けて面白かった。

「ケータイ小説を巡る言説で必ず問題とされるキーワードに「リアル」もしくは「リアリティ」がある。『文學界』二〇〇八年」一月号における座談会「ケータイ小説は『作家』を殺すか」において、魔法のiらんど編成部長の草野亜紀夫は、『恋空』がうけた理由として、「作者の美嘉さんの実体験だから共感を呼んだんじゃないでしょうか」「私たちとしては、これを実話ベースの物語として読みますし、だからこそ読者も物語に入り込めるんだと思うんです」と発言している。」(72頁)

ケータイ小説の読者はそれが「リアルか否か」という観点を重視している、と速水は整理する。

「「リアル系」を求める読者は、単に物語を求めるのではなく、それが本当にあったかどうかを重要視するのだ」(79頁)

物語の時代ではなく事実の時代、フィクションではなくノン・フィクションの時代、そう言い切れたらきれいなのだが、そうすっきりとはいかない。「外れない作家は相田みつおです。彼は「リアル系」の王者です。「リアル系」の子達は相田みつおが好きです。なぜかというと、情緒がないから。「リアル系」の子達がなにが苦手なのかというと、情緒が苦手なんです。」(80頁)と児童文学評論家の赤木かん子の言葉を取り上げて、「リアル系」の「子達」のマインドに絞り込みをかてゆく。そして速水は、読者達がいうリアルとは、本当に読者達にとってリアルティのあるものなのかどうか、と切り出す。

「レイプやドラッグは「実際にある問題」ではあるだろうが、本当にリアルと言えるレベルで日常生活と結びついているものだろうか」(73頁)

「日常と結びついている」=「リアル」という図式ではどうもないのではないか。大事なのは、本当に「リアル」かどうかではなく「リアル」と謳われているかどうかにある、そう速水は考える。

「赤木が指摘する「リアル系」とは、ドキュメンタリー的なものだけに限らない。『ほんとにあった怖い話』というテレビ番組のように、単なるキャッチコピーレベルの「ほんとにあった」までが含まれている。つまり、赤木が指摘する「ケータイ小説のリアル」とは、このようなキャッチコピーレベルの「リアル」なのだ。なんのことはない、大人の目にはかけらもリアルではないケータイ小説が、読者である十代の中高生に「リアル」と思われているのは、ケータイ小説が「本当の話である」と謳われているところにあるのだ」(81-82頁)

すると、「リアル系」=「「リアリティ」の有る無しとは関係なく「事実」「ほんとの話」であると謳った作品」(83頁)ということになる。「ほんと」と謳えば謳うほど「嘘」の可能性が高いなどという考え方は、多分ないのだろう。そういえば、先日遊びに来た学生がYou Tubeの心霊映像をさかんにみんなに見せようとしていたのを思い出す。彼女曰く、「これは「リアル」だから「ホラー映画」よりも怖い」のだそう。この発言自体なんか「ねじれ」があるような気がするのだけれど、まさに「リアル系」の時代の身振りのように思えて、印象に残っている。


土井隆義『友だち地獄 「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書)は、「リアル系」という言葉は出てこなかったけれど、同様の傾向を「純愛」「ノンフィクション」のなかに見ている。

「一般に、人びとが純愛に惹かれるのは、そこに理想の人間関係を見出すからだろう。私たちは、互いの利害関係や既存の役割関係にとらわれない純粋な人間関係こそ、この世界でもっとも尊いものだと感じている。そこには純粋な自分も存在するはずだからである。」(108頁)

こういう純愛観は、どの世代にも共通なものだろうと土井はまとめながら、しかし、反社会的でも非社会的でもなく脱社会的な現在の若者たちにとって、「純粋さ」とは、ダイレクトに自分自身が対象となるものであり、しかもそれは観念的であるというよりも身体的な自分なのだという。

「現在の若者たちにとって純粋さとは、社会の不純さと向き合うことで対抗的に研ぎ澄まされていくような相対的なものではなく、むしろ身体のように生まれながらに与えられた絶対的なものである。だから、死や病といった生物学的で絶対的な障壁が、その純粋さのレベルをさらに高次元へと押し上げることになるのだろう」(110頁)

ケータイ小説などで展開される「純愛」が「死」や「病」を求めるのは、そうした「身体」のレベルにこそリアリティが潜在しているからだ、というわけである。それは「素」という「リアル」を示す「天然キャラ」への注目という話へと連動していくのだが、この「素」というのはあくまでも「素のままのキャラ」といういささか矛盾するような存在であることが重要である。

「若者向けのテレビ番組で、素のままのキャラに独自の存在感を示す天然ボケのようなタレントに人気が集まるのも、おそらく同様のメンタリティに由来した現象といえるだろう。そこでは、天然であることが純粋さの寓意となっているからである。天然とは、脱社会的なものである。彼らに惹かれる視聴者の多くは、そこに演技性を超えた脱社会的な純粋さを見出しているのである」(111頁)

なるほど「純粋さ」は、身体的リアリティを感じさせるものでなければならず、そこにあるのは「素」という状態ではないか。しかし、速水の指摘する「リアル系」と同様、この「素」もまた一枚岩ではない。「素」ではなく、いわば「素のままのキャラ」を味わうところに、「純粋」な身体的リアリティの発生するポイントがある、というのである。

「セルフ・ノンフィクションにせよ、純愛物語にせよ、読者を惹きつけているのは筋立ての斬新さではなく、自分が「泣ける」ほどの強烈なキャラをもった登場人物である。だからどんなに荒唐無稽な筋立てであろうと、逆にきわめてベタな筋立てであろうと、あるいは筋立てすらなく、たんなるエピソードの羅列であろうと、さしたる違和感もなく受け入れられることになる。話の筋は、あくまでも際立ったキャラを味わうための素材にすぎないからである。」(114頁)

それは「セルフ・ノンフィクション」の分野でベストセラーになる乙武氏の本のような「身体障害者」の「泣ける」本などのことを鑑みれば自明のように「身体障害者=純粋なる者というステレオ・タイプ的な図式」(111頁)に乗っている展開こそが、彼らにとって「純粋」なのである。

ようは、キャラがキャラをまっとうしてくれていることが「純粋さ」のそして「リアル」の証になる、というわけである。

そうそう、そういう意味で、「神話作用」のような「キャラ作用」のごとき考察こそ、今必要なのではと思う。ひとはもう個人というものを社会に対して表明することはほとんどしていなくて、キャラであることをまっとうしようとして生きているようなところがある。少なくとも、ひとにたいしてそういうもののみを求めているところがある。このあたりの「リアル」を、つまりキャラとしてのリアル、レディ・メイド(既製品)としてのリアルを問題にしていかないと、「リアル」を論じる努力は空転しかねない気がする。

その最大の祭りがオリンピックだろうし、「リアル」な(つまりキャラ立ちした、そしてキャラであることがまっとうされる)ストーリーを描こうとして、テレビは必死になっている。

「注目すべき人々との出会い・その1」(Loop-Line)

2008年08月10日 | Weblog
「注目すべき人々との出会い・その1」の2日目をLoop-Lineへ見に行った。初Loop-Line。最初は、角田、杉本、宇波の3人がそれぞれ自分の演奏に没頭する70分。角田は、上向きにした二台の裸のスピーカーがあれはハウリングを起こしているのだろうか大きく上下に振動しているが、音はそこからほとんど出ないか微妙に振動のような低いのが出ているだけ、それとときおり演奏空間の対角線上に弦が一本張られていて、それを揺らして鳴らしている。杉本はドットが整列した譜面を見ながら木を叩き、宇波はギターと電子音とを低く鳴らす。ぼくは、音楽演奏のよいオーディエンスではない。初心者だ。だからか、演奏どうのというよりも、この奇怪な芸(術)を思いついた各人が勝手に自分の仕事をやっている感じが気になってしようがなく、そんな彼らは芸術家と言うよりも芸人ぽくて、ところどころ爆笑したくなったが、大声を出すとそりゃ演奏を妨げてしまうわけで、でも、きっとオーディエンスはそんなこんなクスクスと内側でやっているに相違なく、これは我慢比べみたいな時間だなーなどと思ってその時間を過ごしていた。前衛と爆笑。後半は志水児王というアーティストを紹介する時間で、志水の作風のきわめて興味深いことのみならず、予備校時代友人だったという角田とのやりとりがなんだかすこぶる面白く、杉本さんや宇波さんもそうなんだけれどなんで音楽家のひとたちはこんなにパーソナリティがユニークでしゃべると面白いひとたちばかりなんだろうと、そのことがすごく気になった。「言葉」の人というか「しゃべり」の人。前衛としゃべり。