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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

サンプル「家族の肖像」(五反田)

2008年08月29日 | 演劇
8/27
例えば、青年団がひとつの舞台空間に複数の組を登場させ同時にしゃべらせたようなそんな「共存」がひとつの身体で起きているというみたいな、サンプルの今作が混沌と称されるなら、そうしたところにその混沌のクオリティは見出されるべきだろう。自分が自分でよく分からない、というモティーフが頻繁に出てくる、分裂そのものとしての自分。複数のレイヤーが無軌道に交差し、ひとつの役者の身体はひとつの役柄に宿るひとつの精神のかたちをみせるものだという先入見が歪まされる。その歪み方が、実に正確にある一定の角度で行われるので、混沌は、ロジカルというかエステティックな説得力をもつことになる。劇団名にちなんで「サンプリング」とかあるいは「シミュレーション」とかいってみたくなるすべての類型的にコピペされた役柄(コンビニの店長、店員、万引きする女、元教員のコンビニ店員、仕事をしないその息子、学生カップルとその友だち)たちは、そうした一種の「計算された混沌」のために見事に操作されている。ひととひととの重なり合い、違和感、生じるいちいちの交差が、とても見事なのだ。とくに面白いと思ったのは、会話の起点の多くが、誰かが自分勝手な(自分ルールな)振る舞いをしているのになんか言いたくなって、というものだというところ。隣に夫がいるのに尻をぼりぼりと掻く妻に夫がとがめるとか、コンビニ店員の弁当の食べ方がおかしいとからかうとか、会話ではなく「つっこみ」。相互に相手に対する違和感を感じてそれを表明して、言い合いになって、、、とする間に進む時間。

面白い。とても面白いんだけど、このベクトルの向かう先にあるのは、ある種の美学的な巧みさ、技量の完成なのではないかと思い、10年先とかにいったいどんな達成がなされるのだろうという興味がわく一方で、そうした職人的な技量の達成はぼくの本当に見たいものなのか?などと思ってしまったりする。さまざまな文化事象を類型的にサンプリングしてきて、その組み合わせの緻密さや、意外性や、バランスなどをこらす。あえていえば「ニューペインティング」みたいなところがある(歪んでいく感じはフランシス・ベーコン?)。チェルフィッチュやヤナイハラミクニまたfaifaiが、世界の表象の仕方に対して独自の方法を模索しているのを「分析的キュビスム」だとすれば、そうした表象方法の独自性をサンプルはあまり試みておらず、簡単に言えば共通に「演劇的」なフィルターを通して世界はサンプリングされている。並べ方の緻密さは、ときに感動も爆笑も起こす、それは素晴らしいデザインなのである。

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