Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

クリウィムバアニー「贅沢ラム」(@吉祥寺シアター)

2008年04月28日 | ダンス
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10人ほどの同じミニドレスを来た女の子たち。ベッドと洗面器、トイレ。プライベートな部屋のイメージ。天井にはシャンデリア。照明は始終暗め。小さな倦怠、小さな妄想、ときおり下着をおろしてトイレに、ベッドに座る。基本的に、だるそうにそこここに座って、寝そべって、しかもほとんど互いの間に関係が生まれないまま、中心もないまま時間が経過する。一時間くらいの公演のなかで、二回くらいアップテンポの曲で全員が踊る、と言うところがあった。それ以外は、ゆるく間延びした時間が続いてゆく。菊地成孔「プラザ・レアル」や久住小春「バラライカ」など、ところどころで鳴る音楽の選曲には、リアリティがあるのだけれど、何か見せ所を欠いたまま終わってしまう。いや、見せ所など決して作らない、決してテンションのピークを作らないということなのだろう。ずるずると執拗に続く、薄闇の時間とか、その象徴ではあるのだろう。ただ、うん、そうなると見る者は、ダンサーの運動ではなく身体自体へと眼差しを向けだし、フェティッシュな快楽へと落ちてしまいがち、で、その傾向に好都合なことに、白い柔肌露出の、幼少の頃から恐らくダンスを続けている、それ故か美しいプロポーションの女性たちがうろうろしているわけで、そうしたフェティシズムへの耽溺を、どう考えるかということに問題がなってくる。えと、でも、そこでダンス・アート的なクールネスと対極の(一カ所、C-uteの曲かなにかがかかって、20秒くらい全員で踊って、一瞬で音が消え別のダンスへ何ごともなかったかのように切り替わったところは、この舞台唯一特筆すべきダンス的な快楽の生まれたところだった)猥雑な世界が生まれるのならば、それはそれでいいのかも知れないなあ、、、遅延もそれはそれで「じらし」の快楽に変換されるのであれば。あ、多分、ぼくが最終的に、やっぱりどうしても乗り気で見続けられなかったのは、そうした「じらし」へとぼくが巻き込まれなかった、という不甲斐ない気持ちになったことに原因があるのかもしれない。むしろ強烈にフェティッシュな瞬間があったらよかったのかも(過激であれ、と言うことではなく、仕掛けとして強いものがあったら)。単純に、久住小春がここで同じように踊っていたら、きっとその方を見ちゃうだろうな、と思った。フェティシズムへ足を突っ込むのであれば、残酷な基準にさらされることになる。どこにも落としどころを作らないことが、すべてに中途半端という感想へと短絡していかないような仕掛けが、やっぱり必要だったのではないか。
と、ずっと「プラザ・レアル」を聴きながらこれを書いたので、上記したことは、クリウィムバアニーについてというよりも、菊地について、になってしまっているかも知れない。

観劇後、吉祥寺の焼鳥屋で食事。熱心なダンスファンと、いまの日本のダンス・シーン、ダンスの批評の問題について話す。かつていろんなことがあり、いろんなことが終わり、いろんなところへと拡散している。途中で放擲したもの、について確認する。