先日のレクチャーに来てくれていた若いダンスファン(「ファン」なんて言葉はあれですが、下記を見るように彼はnibrollのこの作品「no direction。」を、妻有ver.も福岡ver.も見ているわけで、これを「ファン」と呼ばずになんと呼ぶか、という気持ちで)から、次のようなメールを貰いました。ありがとう!こういうことがはじまるんだね、レクチャーの後に(ほんと、嬉しい)。彼から承諾を得たので、彼のメールにレスするという仕方で、ぼくの「ださい」発言の真意を書きたいと思います。
------
blog拝見したのですが、nibrollについて後日追記予定ということですので、
今回初めてnibrollの本公演を見たnibroll初心者から、便乗質問させてください。
木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、
(1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
(2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。
のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?
過去作品を生で見ることができなかった人間としては、
発売されているDVDに収録された断片的な映像を頼りに憶測するしかないのですが、
その限りにおいては、
本作でいきなり急に「だささ」が前面に出てきたようには思えず、むしろ
「過去作品や本作の妻有/福岡版に比べると、本公演ではだささが減ったなぁ」
くらいに感じていたので、軽く驚くと同時に興味を持っています。
なので、ずっとご覧になっている木村さんから見て、
もし本作で、「ドライフラワー」までの作品と決定的な違いがあるのであれば、
ばしばし指摘してください。
本作しか見れなかった、私を含む新しいコンテンポラリーダンスファンには知り得ないことなので。
P.S.
飲み会の席(*第5回レクチャー後に飲みに行った:木村)では木村さんとあまり話せなかったので、
自己紹介がてらnibrollに関する私の属性を書きます。
・木村さん同様、踊ってる矢内原を見るのは大好き
・チョコレートも大好き&松井さん同様心底感動した、
横浜ダンス界隈で終演後ソファから中々立てなかった、来週泣きそうでヤバい。
・生で見たnibroll作品は、本作のみ(妻有/福岡/東京)、
・過去nibroll作品は、DVDで断片的に見ている
・生で見た矢内原作品は、さよなら、青い鳥、チョコレート(ダンス界隈、抜粋?)、
public=un+public(抜粋、吾妻橋)
で、東京公演を見る直前までのnibrollに対するスタンスは、
・DVDを見る限りでは、テーマは設立当初から特に新しくないのでは、と思っている。
・テーマ自体にもあまり共感できない。「コーヒー」とかは全く共感できない。
・作中の発話シーンや演劇っぽいシーンは個人的には嫌い。
・「コドモ身体は身体がコドモであって、頭が子供なわけでは断じてない」
と、表象文化学会で桜井さんが説明していたが(その通りだと思うが)、
nibrollに限っては、(DVDのトークやアフタートークを見る限りでは)
頭も子供っぽいというか中学生が会話しているような感じを受ける。
・踊る矢内原や矢内原の振り付けは超好きだけど、
妻有/福岡を見る限りnibrollはあまり好きじゃない、むしろ嫌いかも?と思っていた。
・なので今回の東京公演は個人的に
nibrollが好きか嫌いかはっきりさせてやろう、という意気込みで見に行った。
で、東京公演を見た結果は、嫌いな要素はいっぱいあるんだけど
(上述の通りテーマにはあまり共感していないし、音楽もコンテンポラリーじゃないと思う)
全体としては結構好きだという感想を持ちました。
------
まず、こんなにマジメに熱心にダンスを見ている若いファンがいるということに、感動とフンドシ締め直さなきゃ(?)的な気持ちを感じます、片足はダンス業界のインサイダーになってしまっている僕としては。
で、僕の返答なんですが、その前にまずは、これまでブログなどネットで見られる状態の場所で書いたニブロールについての言葉です。そのときそのときに、ぼくがニブロール(というか矢内原の振付。ぼくにとってこれまでほとんどニブロール=矢内原の振付でした)に感じたことがとりあえず分かります。
矢内原美邦プロジェクト「青の鳥」
横浜ダンス界隈#3「チョコレート」
吾妻橋ダンスクロッシングのOff Nibroll「Public=un+public」
企画公演「ボクロール」での「chocolate」
Yanaihara Mikuni Project『3年2組』
BankART1929での「Public=un+publci」
妻有の「ノート(No-To)」
シアタートラムの「Notes」
ニブロール「ドライフラワー」
ニブロール「ノート(裏)」
ニブロール「コーヒー」
ニブロール「駐車禁止」
さて、
木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、
(1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
(2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。
のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?
についてですが、まず「ださい」(という言葉が適切かはあるけれども)と言った時、ぼくがそれを90年代の意匠との関連で言ったことは重要です。で、それを彼らが意図的にやっているとさえ思っている(思いたい)ということも理解しておいてください。
モー娘。との繋がり以上にまず確認するべきは、90年代日本のシアター・パフォーマンスのなかで飛び抜けて新鮮だったのはダム・タイプであり、アーティスト集団というか一種の総合芸術を志していた彼らがニブロールの兄貴分として日本にいたということは、まず90年代的意匠と言った場合、無視することが出来ません。これは、松井さんもレクチャーで(また佐々木敦さんもご本人のブログで)触れていたことですが、松井さんが言っていたことで忘れてはならないことは、ダム・タイプはシアター・パフォーマンスのなかでエイズであるとか消費社会であるとか戦争であるとか非常に大きな社会的テーマを扱ったということです。つまりダム・タイプ的セッティングが私たちに夢見させたのは、シアター・パフォーマンスが政治を扱う可能性でした、しかもぼくたちの身の丈の延長線上で。しかし、硬直化というか空転というか、ダム・タイプは2000年以降にぼくたちの身の丈を見失ってしまった。ぼくはつよくそう感じました。リアリティがなくなってしまった。ぼくとは関係ないことやっているや、という気がしてました。
ニブロールを、ぼくは「駐車禁止」から見始めました、それはぼくにとってとてつもなく衝撃的で勇気のわいた作品でした、リアルでした。簡単に言うと、この人たちと友達になりたい、と思ったんですよ(笑)、見終わった後、ぼく、猛烈に。横浜の相鉄ホールというところでやったときです。2001年だったかと思うんだけれど、公演後、どうしたら彼らに話しかけられるんだろうとドキドキしながらロビーみたいなところをブラブラしていて、でも話しかけられないまま帰ったという記憶があります。
いま市販のDVD「Nibroll 1997-2004」で「駐車禁止」を見ましたが、やっぱり素晴らしいと思う。気取ってなくて、フツーのひとが舞台でどたばたしている。セッティングはダム・タイプ的でありながら、やっている方向性はまったく異なっていて個別的なもの、個人的なものに関心がある。それがともかくも、僕にとってのニブロールでした。ちなみに、「駐車禁止」は二回見たんですが、2回目は、明日ぼくが出る東京芸術見本市の舞台でした、2001年9月12日の。見た後友人と日比谷のパスタ屋で、ぼくらはきっと半年後には戦争にかり出されるぞ、なんて戦々恐々としていたのを思い出します。その戦慄と共に見た「駐車禁止」はやっぱりリアルだった。
やや説明が長ーくなってきてるので(笑、でも思い入れがあるんだからしょうがない!)はしょると、上にリンク貼った日記で確認出来るように「コーヒー」もぼくは好きな作品でしたが、「ノート」あたりから距離が出来ていきます。簡単に言うと、矢内原の作るダンスの部分は好きなのに、それ以外の部分がほとんど理解出来ない、という気持ちになってきます。観念(コンセプト)先行、というか。その傾向が、きわまったのが今作ではないかというのがぼくの考えです。そして、それはあえて強引な整理をすれば、初期にもっていたダム・タイプ的セッティングにおけるダムタイプ的ではなかったニブロールらしいアプローチが、なにやらそのダム・タイプに接続・連続するような空転を見せてしまっている、といえるのではないか。
こう書くとダム・タイプがすべからくダメみたいになってしまいますが、そんなことはなくて、「voyage」以降の個々の活動にはすばらしいものがあり、とくに彼らの身体へ向けた真摯な凝視はかねてから取り組んでいた政治的なものと絡まりながら一層強いものにまたパフォーマンスとしても迫力のあるものになっていることは、名前を挙げるまでもなく明らかです。
あと、90年代的意匠としてのモー娘。との関連のことで考えていることもありますが、これは書きません。
そんで次に、ダム・タイプだったら、個々の作家の思考の深さというのが確かにあるわけなんだけれど、さて、そうしたものがニブロールのアーティストたちにはあるのか否かという件について。
「ださい」という言葉、やっぱいい言葉ではないですね。これもまたある時代の意匠ではないかと思ってあえて使ったんですが、やっぱりいい言葉だと思えない。でも、それを言い換えると程度が低いとかになっちゃう。まあいいや、冷静に考えて、映像、衣裳、音楽、すべて程度が低い。ああこれもやめよう、映像、衣裳、音楽、すべてぼくの生きている世界(いわゆる日常の身の周りという意味も舞台芸術の世界という意味も含め)とはほとんど関係のない次元で展開されている、そういう気がした、ということです。映像や衣裳や音楽はすべて「あえて」「ださい」ことをやっているとみるのでなければ納得出来ない。「こういう最低のものも世界にありますよね、その中でぼくらはがんじがらめになっていますよね」みたいなメッセージとして投げているのではない限り、理解出来ない。見せたくないもの、聞かせたくないものを見せたり聞かせたりあえてしている、としか。
でも、そうなると次に分からなくなるのは、そうしたものをなぜあえて見せる聞かせる必要があるのだろうと言うことです。例えば、OM-2などは、あえてノイジーなものを目の前に置くということをします。生々しい恐怖を与える、それが彼らの舞台の狙いであり、そこに問題提起もカタルシスもある、ということなのだと思う。けれど、ニブロールの映像、衣裳、音楽はそういうことをしようとしてのことなのでしょうか。観客を一種のパニック状況に追いやりたい、と言うことだった?ぼくはあまりの情報の多さ(しかも低い程度の)になんども目をマッサージし斜めの客席で寝そべってリラックスしようと努めていました。それが彼らのしたいことだったのでしょうか。そこには、個々にみるべきものがなかった。塊をどんと放り投げられた気がした。そのありようが、なにやら僕には「抽象表現主義」(ポロック)のように思えてきて、のれなかったわけです。
ブログに「ださい」と書いた最初からそうだったんだけれど、やっぱりニブロールの批判を書くのは気が乗らない。あまりに託している気持ちが多くて、悲しくなってくる。でも、ぼくはニブロールに愛情をもっているよ!だからなんともいえない気持ちになってるんだ!頼むよおおおおおって気分だよ!
ニブロールにとって観客とはどんな存在なんだろう。ぼくらはヒーローを必要としていないよ!「ヒーロー」を必要としているのはおじさんおばさんばっかだよ!商業目的の。
「「ヒーローはいつだって君をがっかりさせる」というタイトルは、中学生の頃に、音楽雑誌に載っていたインタヴューか何かで読んだセリフで、ずっと頭に残っていた。この本にこのタイトルを付けようと思ってから、何人もの友人に聞いてみたけど、ついに元ネタはわからなかった。「子供の頃は、ロック・スターに憧れて、ポスターを部屋に貼ってみたり、彼らの真似をしてみたるもするけど、そのうち君は、彼らのインチキに気付いてしまう。結局、君はも君自身で何かを始めるしかないんだ」。そのような意味として、僕の頭の中には残っているんだけれど、本当は全然違う意味なのかもしれない。
100人ぐらいしかお客さんがいないパーティ。100枚ぐらいしかつくられていないCD。100人ぐらいにしか知られていないアーティスト。この本には、そんな"ヒーロー"からほど遠いやつらが、たくさん出てくる。その後、"ヒーロー"になってしまったやつもいれば、いつまでもなりそうもないやつもいる。というか、"その後"のことなんかどうでもいい。僕は、たったいま、目の前で起こっていることを、見る。ただそれだけだ」(磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』)
メールくれたダンスファン君には悪いけれど、ニブロールにはやや冷静さを欠いてしまうんだよ、おっかしいかもしれないけどさ。あとは、言外のメッセージをくみ取って貰いたいというところです。
というか、ぼく以外のひとの感想が知りたい。若いひと、なかでもこの作品ではじめてニブロールをあるいは日本のコンテンポラリーダンスを見たというひとの率直なところを。もちろん、「no direction。」よかったという感想、歓迎です。ぼくの意見が全面的に正しいはずはないので。
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blog拝見したのですが、nibrollについて後日追記予定ということですので、
今回初めてnibrollの本公演を見たnibroll初心者から、便乗質問させてください。
木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、
(1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
(2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。
のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?
過去作品を生で見ることができなかった人間としては、
発売されているDVDに収録された断片的な映像を頼りに憶測するしかないのですが、
その限りにおいては、
本作でいきなり急に「だささ」が前面に出てきたようには思えず、むしろ
「過去作品や本作の妻有/福岡版に比べると、本公演ではだささが減ったなぁ」
くらいに感じていたので、軽く驚くと同時に興味を持っています。
なので、ずっとご覧になっている木村さんから見て、
もし本作で、「ドライフラワー」までの作品と決定的な違いがあるのであれば、
ばしばし指摘してください。
本作しか見れなかった、私を含む新しいコンテンポラリーダンスファンには知り得ないことなので。
P.S.
飲み会の席(*第5回レクチャー後に飲みに行った:木村)では木村さんとあまり話せなかったので、
自己紹介がてらnibrollに関する私の属性を書きます。
・木村さん同様、踊ってる矢内原を見るのは大好き
・チョコレートも大好き&松井さん同様心底感動した、
横浜ダンス界隈で終演後ソファから中々立てなかった、来週泣きそうでヤバい。
・生で見たnibroll作品は、本作のみ(妻有/福岡/東京)、
・過去nibroll作品は、DVDで断片的に見ている
・生で見た矢内原作品は、さよなら、青い鳥、チョコレート(ダンス界隈、抜粋?)、
public=un+public(抜粋、吾妻橋)
で、東京公演を見る直前までのnibrollに対するスタンスは、
・DVDを見る限りでは、テーマは設立当初から特に新しくないのでは、と思っている。
・テーマ自体にもあまり共感できない。「コーヒー」とかは全く共感できない。
・作中の発話シーンや演劇っぽいシーンは個人的には嫌い。
・「コドモ身体は身体がコドモであって、頭が子供なわけでは断じてない」
と、表象文化学会で桜井さんが説明していたが(その通りだと思うが)、
nibrollに限っては、(DVDのトークやアフタートークを見る限りでは)
頭も子供っぽいというか中学生が会話しているような感じを受ける。
・踊る矢内原や矢内原の振り付けは超好きだけど、
妻有/福岡を見る限りnibrollはあまり好きじゃない、むしろ嫌いかも?と思っていた。
・なので今回の東京公演は個人的に
nibrollが好きか嫌いかはっきりさせてやろう、という意気込みで見に行った。
で、東京公演を見た結果は、嫌いな要素はいっぱいあるんだけど
(上述の通りテーマにはあまり共感していないし、音楽もコンテンポラリーじゃないと思う)
全体としては結構好きだという感想を持ちました。
------
まず、こんなにマジメに熱心にダンスを見ている若いファンがいるということに、感動とフンドシ締め直さなきゃ(?)的な気持ちを感じます、片足はダンス業界のインサイダーになってしまっている僕としては。
で、僕の返答なんですが、その前にまずは、これまでブログなどネットで見られる状態の場所で書いたニブロールについての言葉です。そのときそのときに、ぼくがニブロール(というか矢内原の振付。ぼくにとってこれまでほとんどニブロール=矢内原の振付でした)に感じたことがとりあえず分かります。
矢内原美邦プロジェクト「青の鳥」
横浜ダンス界隈#3「チョコレート」
吾妻橋ダンスクロッシングのOff Nibroll「Public=un+public」
企画公演「ボクロール」での「chocolate」
Yanaihara Mikuni Project『3年2組』
BankART1929での「Public=un+publci」
妻有の「ノート(No-To)」
シアタートラムの「Notes」
ニブロール「ドライフラワー」
ニブロール「ノート(裏)」
ニブロール「コーヒー」
ニブロール「駐車禁止」
さて、
木村さんが今になって「ださい」と言いだした、ということは、
(1) 「ドライフラワー」までの作品はださくなかったが「no direction。」はださい。
(2) 「ドライフラワー」までの作品と比較すれば「no direction。」はださくはないが、
時代が3年進んでいるので、相対的にださくなっている(=時代から取り残されつつある)。
のどちらかだと思うのですが、どちらなのでしょうか?
についてですが、まず「ださい」(という言葉が適切かはあるけれども)と言った時、ぼくがそれを90年代の意匠との関連で言ったことは重要です。で、それを彼らが意図的にやっているとさえ思っている(思いたい)ということも理解しておいてください。
モー娘。との繋がり以上にまず確認するべきは、90年代日本のシアター・パフォーマンスのなかで飛び抜けて新鮮だったのはダム・タイプであり、アーティスト集団というか一種の総合芸術を志していた彼らがニブロールの兄貴分として日本にいたということは、まず90年代的意匠と言った場合、無視することが出来ません。これは、松井さんもレクチャーで(また佐々木敦さんもご本人のブログで)触れていたことですが、松井さんが言っていたことで忘れてはならないことは、ダム・タイプはシアター・パフォーマンスのなかでエイズであるとか消費社会であるとか戦争であるとか非常に大きな社会的テーマを扱ったということです。つまりダム・タイプ的セッティングが私たちに夢見させたのは、シアター・パフォーマンスが政治を扱う可能性でした、しかもぼくたちの身の丈の延長線上で。しかし、硬直化というか空転というか、ダム・タイプは2000年以降にぼくたちの身の丈を見失ってしまった。ぼくはつよくそう感じました。リアリティがなくなってしまった。ぼくとは関係ないことやっているや、という気がしてました。
ニブロールを、ぼくは「駐車禁止」から見始めました、それはぼくにとってとてつもなく衝撃的で勇気のわいた作品でした、リアルでした。簡単に言うと、この人たちと友達になりたい、と思ったんですよ(笑)、見終わった後、ぼく、猛烈に。横浜の相鉄ホールというところでやったときです。2001年だったかと思うんだけれど、公演後、どうしたら彼らに話しかけられるんだろうとドキドキしながらロビーみたいなところをブラブラしていて、でも話しかけられないまま帰ったという記憶があります。
いま市販のDVD「Nibroll 1997-2004」で「駐車禁止」を見ましたが、やっぱり素晴らしいと思う。気取ってなくて、フツーのひとが舞台でどたばたしている。セッティングはダム・タイプ的でありながら、やっている方向性はまったく異なっていて個別的なもの、個人的なものに関心がある。それがともかくも、僕にとってのニブロールでした。ちなみに、「駐車禁止」は二回見たんですが、2回目は、明日ぼくが出る東京芸術見本市の舞台でした、2001年9月12日の。見た後友人と日比谷のパスタ屋で、ぼくらはきっと半年後には戦争にかり出されるぞ、なんて戦々恐々としていたのを思い出します。その戦慄と共に見た「駐車禁止」はやっぱりリアルだった。
やや説明が長ーくなってきてるので(笑、でも思い入れがあるんだからしょうがない!)はしょると、上にリンク貼った日記で確認出来るように「コーヒー」もぼくは好きな作品でしたが、「ノート」あたりから距離が出来ていきます。簡単に言うと、矢内原の作るダンスの部分は好きなのに、それ以外の部分がほとんど理解出来ない、という気持ちになってきます。観念(コンセプト)先行、というか。その傾向が、きわまったのが今作ではないかというのがぼくの考えです。そして、それはあえて強引な整理をすれば、初期にもっていたダム・タイプ的セッティングにおけるダムタイプ的ではなかったニブロールらしいアプローチが、なにやらそのダム・タイプに接続・連続するような空転を見せてしまっている、といえるのではないか。
こう書くとダム・タイプがすべからくダメみたいになってしまいますが、そんなことはなくて、「voyage」以降の個々の活動にはすばらしいものがあり、とくに彼らの身体へ向けた真摯な凝視はかねてから取り組んでいた政治的なものと絡まりながら一層強いものにまたパフォーマンスとしても迫力のあるものになっていることは、名前を挙げるまでもなく明らかです。
あと、90年代的意匠としてのモー娘。との関連のことで考えていることもありますが、これは書きません。
そんで次に、ダム・タイプだったら、個々の作家の思考の深さというのが確かにあるわけなんだけれど、さて、そうしたものがニブロールのアーティストたちにはあるのか否かという件について。
「ださい」という言葉、やっぱいい言葉ではないですね。これもまたある時代の意匠ではないかと思ってあえて使ったんですが、やっぱりいい言葉だと思えない。でも、それを言い換えると程度が低いとかになっちゃう。まあいいや、冷静に考えて、映像、衣裳、音楽、すべて程度が低い。ああこれもやめよう、映像、衣裳、音楽、すべてぼくの生きている世界(いわゆる日常の身の周りという意味も舞台芸術の世界という意味も含め)とはほとんど関係のない次元で展開されている、そういう気がした、ということです。映像や衣裳や音楽はすべて「あえて」「ださい」ことをやっているとみるのでなければ納得出来ない。「こういう最低のものも世界にありますよね、その中でぼくらはがんじがらめになっていますよね」みたいなメッセージとして投げているのではない限り、理解出来ない。見せたくないもの、聞かせたくないものを見せたり聞かせたりあえてしている、としか。
でも、そうなると次に分からなくなるのは、そうしたものをなぜあえて見せる聞かせる必要があるのだろうと言うことです。例えば、OM-2などは、あえてノイジーなものを目の前に置くということをします。生々しい恐怖を与える、それが彼らの舞台の狙いであり、そこに問題提起もカタルシスもある、ということなのだと思う。けれど、ニブロールの映像、衣裳、音楽はそういうことをしようとしてのことなのでしょうか。観客を一種のパニック状況に追いやりたい、と言うことだった?ぼくはあまりの情報の多さ(しかも低い程度の)になんども目をマッサージし斜めの客席で寝そべってリラックスしようと努めていました。それが彼らのしたいことだったのでしょうか。そこには、個々にみるべきものがなかった。塊をどんと放り投げられた気がした。そのありようが、なにやら僕には「抽象表現主義」(ポロック)のように思えてきて、のれなかったわけです。
ブログに「ださい」と書いた最初からそうだったんだけれど、やっぱりニブロールの批判を書くのは気が乗らない。あまりに託している気持ちが多くて、悲しくなってくる。でも、ぼくはニブロールに愛情をもっているよ!だからなんともいえない気持ちになってるんだ!頼むよおおおおおって気分だよ!
ニブロールにとって観客とはどんな存在なんだろう。ぼくらはヒーローを必要としていないよ!「ヒーロー」を必要としているのはおじさんおばさんばっかだよ!商業目的の。
「「ヒーローはいつだって君をがっかりさせる」というタイトルは、中学生の頃に、音楽雑誌に載っていたインタヴューか何かで読んだセリフで、ずっと頭に残っていた。この本にこのタイトルを付けようと思ってから、何人もの友人に聞いてみたけど、ついに元ネタはわからなかった。「子供の頃は、ロック・スターに憧れて、ポスターを部屋に貼ってみたり、彼らの真似をしてみたるもするけど、そのうち君は、彼らのインチキに気付いてしまう。結局、君はも君自身で何かを始めるしかないんだ」。そのような意味として、僕の頭の中には残っているんだけれど、本当は全然違う意味なのかもしれない。
100人ぐらいしかお客さんがいないパーティ。100枚ぐらいしかつくられていないCD。100人ぐらいにしか知られていないアーティスト。この本には、そんな"ヒーロー"からほど遠いやつらが、たくさん出てくる。その後、"ヒーロー"になってしまったやつもいれば、いつまでもなりそうもないやつもいる。というか、"その後"のことなんかどうでもいい。僕は、たったいま、目の前で起こっていることを、見る。ただそれだけだ」(磯部涼『ヒーローはいつだって君をがっかりさせる』)
メールくれたダンスファン君には悪いけれど、ニブロールにはやや冷静さを欠いてしまうんだよ、おっかしいかもしれないけどさ。あとは、言外のメッセージをくみ取って貰いたいというところです。
というか、ぼく以外のひとの感想が知りたい。若いひと、なかでもこの作品ではじめてニブロールをあるいは日本のコンテンポラリーダンスを見たというひとの率直なところを。もちろん、「no direction。」よかったという感想、歓迎です。ぼくの意見が全面的に正しいはずはないので。