を見た(@駒場、アゴラ劇場)。
女二人(町田カナ、ムニラ・シャレド)だけの舞台。ほとんどすべてが白く塗られた静謐な空間、それは物語から病院(治療室)を思わせる。キャシー・アッカー(『血みどろ臓物ハイスクール』)などが元になっているという脚本は、女性の体へ向けた性的な暴力とその結果に再度ふるわれる暴力、つまり中絶の暴力とを語り続ける。その「絶望」を語る際の身体が気になった。それはきわめて強く抑制されていて、それによって安易な共感を拒んでいるけれども、とはいえある種の必然性を帯びて舞台にいる。セリフ(ほとんどはモノローグ)を語る傍らで、縮こまり怯え、寄る辺を得ることが出来ぬまま曖昧に漂い続ける身体。彫刻のように「ある」ことの説得力をもっている、ただし簡単には何かに「昇華」してしまうことを拒む身体。それが、セリフとの関わりの中で生まれていることを考えるなら、こういう身体の存在を呈示できるのは、ダンス以上に演劇なのかも知れない、などと思う。
女二人(町田カナ、ムニラ・シャレド)だけの舞台。ほとんどすべてが白く塗られた静謐な空間、それは物語から病院(治療室)を思わせる。キャシー・アッカー(『血みどろ臓物ハイスクール』)などが元になっているという脚本は、女性の体へ向けた性的な暴力とその結果に再度ふるわれる暴力、つまり中絶の暴力とを語り続ける。その「絶望」を語る際の身体が気になった。それはきわめて強く抑制されていて、それによって安易な共感を拒んでいるけれども、とはいえある種の必然性を帯びて舞台にいる。セリフ(ほとんどはモノローグ)を語る傍らで、縮こまり怯え、寄る辺を得ることが出来ぬまま曖昧に漂い続ける身体。彫刻のように「ある」ことの説得力をもっている、ただし簡単には何かに「昇華」してしまうことを拒む身体。それが、セリフとの関わりの中で生まれていることを考えるなら、こういう身体の存在を呈示できるのは、ダンス以上に演劇なのかも知れない、などと思う。