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「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

イヴォンヌ・レイナー研究ノート

2006年06月06日 | Weblog
これを読んでくれる読者が一体何人いるのか皆目分かりません(!)が、イヴォンヌ・レイナー研究ノート(もちろん暫定的なメモ)です。


0  まず、あらかじめひとつのまとめをしておきたい。
レイナーが「ミニマル・アート」と類比的だと考えている(自身の)ダンスは、ニュートラルなパフォーマンス(キャラクターをあらわすパフォーマンスではない)であり、パフォーマンス(再現=表象)と言うよりも純粋に行為そのものないしは「タクスあるいはタスク的なもの」である。それはまた「フレーズ」というもののもつダイナミズムを廃する(あるいはこういうことも出来る、レイナーのパフォーマンスは「いかなる固定した焦点もあるいはクライマックスも削除したeliminated any fixed focus or climax」)代わりに、反復の動きで時間を作る。

以下に、各論を三つ(1, 2, 3)。

1レイナーは「フレーズ」を分析し、それを放棄ないしは隠蔽しようとする。なぜならば、フレーズは「過剰にドラマティック」(=シアトリカル)であるから。

1-1フレーズは過剰にドラマティック 「「フレーズ」という語はまた、始まり、中盤、終局を含む長く全体的な持続に対するメタファーとして用いられうる。高まるポイントあるいは重要なクライマックスを含んだ継続というものがどんな意味をもつものであれ、そのようなアプローチは今や過剰にドラマティックexcessively dramaticであり、またより簡単に言えば、不必要である。」(267)

1-2-1レイナーの取り組み1 「各フレーズ間にどこも休止がない」「フレーズそれ自体は、ちょうど手足が関節でつながっているように分離した部分が連続している」「肉体は常に移動の状態にあるという印象を与える」(270)「連続性の円滑さに貢献する別の要素はその連続した動きのどの一部も他のものと比較して重要であるよう作られてはいないということである。」(270)
→身体をつねに等しく移動の状態に置く

1-2-2レイナーの取り組み2 「身体の(実際の)エネルギー源になされる要求が、そのタスクと等しいように思われるのである。床から立ったり、腕を高く上げたり、骨盤を傾けたりすることは、椅子から立ち上がるとか、高い天井に手を伸ばすとか、また急いでいない時に階段を下りたりするのと同様のエネルギーを必要とするのである。」(270)
→日常の動作と同じエネルギー量で動作をする

1-3努力の露出とフレージングの隠蔽 「私は、伝統的に隠されてきたある種の努力effortといったものを表面に押しだし、伝統的に呈示されてきたフレージングを隠してきたのである」(271)
→「フレージング」の隠蔽=シアトリカルになることからの回避→モダニズムとの親和性
→「ある種の努力」の露出=行為そのものの露呈→ミニマリズムとの親和性?


2では、レイナーの方法とミニマリズムとの親和性はどこにあるのか
2-1モダンダンスとの対比「モダンダンスの短い歴史において恐らく前例のないものは、ダンスと造形芸術という二つの分野で同じ時代に繰り広げられているものの間の照応性である」(264)
→ここは、自分たちこそ同時代の造形芸術、例えばミニマル・アートと照応性をもった初めてのダンスである、と自信たっぷりに述べている感じのところ。確かに、バレエリュスでも、モダンダンスでも同時代の芸術との関わりはあっても、強い照応性は実はなかった(あるいはごく限定的な照応性しかなかった)、と言うべきだろう。

2-2反復について 「反復は、ひとつの動きが他とは分離しているということを強調し、動きを客観化し、一層オブジェ化するという役目を果たす。反復は、また、素材を配列し、文字通り素材を見やすくするもうひとつの方法を与えてくれる。劇場でダンスを観る客のほとんどが反復される動きにいらだつからと言って、反復のもつこれらの特徴が何の価値もないということにはならないのである。」(271-272)
→「代わりになるものsubstitute」の2はObjectの場合unitary forms, modulesであり、一方Dancesはequality of parts。3はObjectsの場合uninterrupted surface(とぎれない表面)であり、一方Dancesはrepetition or discrete events(反復あるいは別々の出来事)
→具体的な類似性は表以外ではあまり語られないのであるが、この部分についてはミニマリズムとの親和性が意識されているのではないか。


3観客との関係の問題、あるいはレイナーの方法のどこにミニマリズムと類比的なシアトリカリティが指摘できるか?
3-1 worklike 「パフォーマンスという課題は、パフォーマーが観客と決して向かい合わないというやり方で扱われた。観客の注視を逸らすか、あるいは頭を常に動かしておくという方法がとられた。効果として望まれたのは、発表会で披露するexhibitionlikeという表現の仕方ではなく、むしろ、作業をしているようにworklike見せることだったEither the gaze was averted or the head was engaged in movement. The desired effect was a worklike rather than exhibitionlike presentation.」(271)
→ここのことは、表で言えば、5に該当か。つまりDancesの場合task or tasklike activityになるんだけれど(ちなみにworklikeの語は表に出てこない)、さてObjectsの方で5はと言えばliteralness。深読みをしていくと、フリードだったらこのあたりに「シアトリカリティ」=「押しつけがましさ」「わざとらしさ」「芝居っ気」を嗅ぎつけるのではないか、と予想したくなる。
→で、モダンダンスまでの「フレーズ」重視のダンスは、あからさま「わざとらしい」(つまり「過剰にドラマチック」)のであって、例えばロココ美術のような、あるいは19世紀ならばドラローシュの作品のような、シアトリカルであることを本領とする美術に近いのであって、彼らのシアトリカリティは、ミニマリズムのそれとは当然、違う。
→その上で、ミニマリズムがシアトリカルであるように、レイナーのアイディアもシアトリカルに陥る可能性があるとすれば、このtasklikeのもつある種の「押しつけがましさ」の内に、ではないだろうか。舞台に上がっている以上何かありげな、しかしとくに何もない状態つまり単にtask or tasklikeの状態にあるダンサーの身体を見る者に「見るように」と強制するところ、ではないだろうか。フレーズにはシアトリカリティがやどりうる。それはそうとしてさらに、フリードがミニマリズムを批判した意味でのシアトリカリティをレイナーのアイディアのなかにも見出そうとするならば、「わざと」淡々と日常的な動作というか日常的なエフォート(努力)の運動量で動くと言うことをやるその姿勢の内に、指摘出来るのではないか。


Yvonne Rainer, "A Quasi Survey of Some “Minimalist” Tendencies in the Quantitatively Minimal Dance Activity Midst the Plethora, or an Analysis of Trio A," in Minimal Art (1968).