Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

Robert Morris etc.

2006年06月12日 | Weblog
最近読んでいる本と言えば、
Sally Banes, Democracy's Body: Judson Dance Theater, 1962-1964, (1993).
Robert Morris, Continuous Project Altered Daily: The Writings of Robert Morris, (1993).

Yvonne Rainerの小論考をかじっている内に、ぞくぞくとそのあたりへの興味が増えていくのだった。
(ほんとはそれだけじゃなく、『身体のエシックス/ポリティクス』ナカニシヤ出版などに所収されている、永野潤というひとの論考が面白くて、その発見がやや最近の収穫なのだった。サルトルのなかに身体論を見る。「吐き気」とかを進退の問題として捉えれば当たり前の視点だけれども、案外読み応えのあるものに出会ったことがなかった。「違和としての身体--岡崎京子とサルトル--」上掲書所収の論考の「見られる身体と見せる身体」なんて小見出しに親近感を感じる。)

ところで、You Tubeに、「Olimpia」いうタイトルの、モリスによるパフォーマンス映像があった。マネの『オランピア』をもじった作品。舞台上のモリスの動きは、この時代に独特の「覇気のない動き」、ダイナミズムを欠いた動きをよく例示してくれている。工場労働者のようなtasklikeな動き。これを「没入」の状態と見るべきか(そこに「自律」を見て、フリードの賞賛するモダニズム美術と本人が言っているよりも親近性があるじゃんと見るべきか)、わざと「覇気のない動き」をしていると見るべきか(そこにフリードがミニマリズムの作品に見た「シアトリカリティ」のとくに「押しつけがましさ」を見るべきか)。どうでしょ。

室伏鴻『quick silver』(@麻布die pratze 6/9)

2006年06月12日 | Weblog
ぼくが強烈に良いと思ったのは、中盤、「衰弱体」とでも形容すべき、つまり『疱瘡譚』などで土方が見せたごとき、立てない、病を負った身体の微動がテンションを増し、ただ体をゆっくり起こすだけの所作に一瞬も目を離す隙がないように思えたその直後、背中から床へとダイヴしたその極端な素早さだった。彼のトレードマーク、故に見慣れてしまった感もあるそのダイヴは、今日はとりわけ強い説得力をもっていた。始まった瞬間に終わってしまう出来事は、終わってしまう前に始まってしまう出来事でもあった。前後を切り裂く、その時間の内にだけ一瞬、異なるもの同士の接触が、単に再現=表象による物語とともにではなく、反復(=運動)がもつ一つの可能性として生じた、という気がした。
すべてが出来事であれ、と念じる意志によってしか、ダンスが出現する可能性はない。ダンスは故に、意味を捉える目には見えない。ダンスへ向かう意志、すなわち見えぬものに向かう意志は、観客がもつもう一つの欲求である意味理解への欲求を常にすり抜け突き進まなければならない。
危ういときがある、例えば、冒頭の黒い帽子に黒いコートでの登場は、あまりにたやすく一定の意味を観客に理解させてしまう。前半最後の顔の所々を指で押してぐちゃぐちゃにするところも、猛烈に興奮するのだが、同時に危ういと思うときがある。最後の、砂山に頭をめり込ませる、最後の最後、立ち上がって進もうとするたび何度も脚がもつれて倒れてしまうところなども、危うい。出来事が、観客が恣意的に読み込む物語(意味の理解)へと移行する余地を生んでいる。その余地は、これまでだったら、「笑い」が帳消しにしてきたものではなかったか。一定の方向へと客をディレクションするたくらみは、それを打ち消しにして、からっぽの空間に観客共々立つために用意してきたものであった。
間違いなく、強烈なテンションが今回の公演の最大の見所だった。ただしそれが、「室伏の美学」などといった固定した理解を破裂させるものとして機能しえたのか、反対にその理解を最大限ふくらませるものとして機能したに過ぎなかったのか、この点については、ぼくはまだ判断を決めかねているところがある。