Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ナカニワ 金魚と神村恵

2005年11月27日 | Weblog
横トリのナカニワ・ダンス・パフォーマンスも今日が最後。制作をされていた清水さんによれば、昨日のユン・ミョンヒと先週の伊波晋がよかったと、、、ぼくが見ていない二人じゃないか。そしてずっと記録係を担当全公演を観たスタッフの方にベストワン、ツーをうかがったら、やはりこの二人の名前が。そうだったかー。

神村恵
倉庫街の展覧会らしく、そこここにコンテナのボックスがあるのだけれど、神村はその上にラジカセ担いで登場。最初は寝そべって実に繊細な連続する手の動き。ソウルフルな音楽がなり始めると立ち上がり、こよりを捩るように両手の指をそれぞれ捩らせるとその内向きの「静」の動きの反動か片腕を突き上げながら頭を下にしてポリポリポリとかく。そのストロークもそうなのだけれど、「反復」が神村のなかで効果的に機能している。「反復」がダンスなのではないか。繰り返すと、同じ動きのなかにリズムがでる、でもそこに違いも発生しヴァリエーションが広がっていく。そこに神村のスリルがある。次第に動きが大きくなる。上体を静止させていると思ったら不意に体を斜めに斬るような動き、腕がしなる。一歩進むとその足が掬われるようにフラッとする動きが音楽にあって乗る、これを延々やる。こういう小さいけれど、ダンスに巻き込まれずにダンスを発生させようとするアイディアは、やはりピカ一。いかに神村がダンスに対して真摯かが分かる。けれども、最後にファンクなノリのいい曲をバックに小刻みな動きでからだがリズムそのものになっていく時、その気持ちよさが批評的で且つダンシーな神村のダンスを「フツーのダンス」と変わらなくしていく。カッコイイし実にダンシーなのだが、それが今回の「落ち」であることが正当であるのか否か、と分からなくなる。神村ダンスに対しては期待故に欲深くなってしまうということか。

金魚
洗濯ばさみを髪の毛に20-30個つけたダンサー達が三つの展示作品に絡みながら移動し、最後には、自分たちで作った、顔の辺りに穴の開いた観光地によくある記念写真用の変装画(なんて言えばいい?)の前でバケツで水を頭から被り、終わり、という展開(その変装画?は公演後に観客と記念写真するため)。展示作品、例えばナカニワの真ん中にある公衆電話の作品ではそのなかに入っては出てを繰り返すなど、積極的に展示作品に関係するパフォーマンスは、観客と同じ位置から観客とは違う作品との関わり方を呈示しているようで、面白かった。何をするのか分からない人間達が観客の群れとは別に会場を闊歩している姿というのは、一旦会場を離れて日常に戻れば明らかに狂気なのだが、ここでは人々の意識を活性化させる良き装置になっている。からだが刺激に対してフットワーク軽くなる感じ、それが観客というかボクのなかに出てくるとなにやらここが荒川の『養老天命反転地』のような場所に思えてくる。

何度、「ナカニワ」関連で横トリに通ったろう。この企画が美術作品とダンスとの不必要な境界線をなくす一助になれば、それは凄く刺激的なことだろう。行儀良く一列になってタブローをじっくり見る的な観賞とは別の、わいわいがやがや「万博ノリ」で観賞を楽しむ観客にとって、動かない作品よりも動くダンサーの方が興味をそそられる存在だったに違いなく、ここでの「ダンサーの優位」が何か静かに新しい動向を産み出す一潮流になることを、静かに期待したい。