Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ルネサンス期の優美論

2005年11月22日 | Weblog
についていま書いている。

『BT/美術手帖』になかば「唐突」という感じで書きだしてしまった「優美」という概念について、少し丁寧に考察した文章。これとあわせて、18世紀イギリスの画家ホガースが書いた唯一の著作『美の分析』のなかに眠っていたダンスについての考察を分析した論文(これも優美論)も来年の春には出る。ホガースの方は『舞踊学』という学会誌に、いま書いているルネサンスの優美論(タイトルは「さりげなさについて」となる予定)は『ART FIELD』というミニコミ誌に。「ミニコミ誌」といっても、編集長はかつてBTの編集長だった方で、またこれまでの執筆陣は谷川渥先生、宮下誠先生など、ある一定の水準のものではあるはずです(というわけで、末席を汚さないよう、努力しなきゃなのです)。ナディッフなどでは購入できるはずです。この辺りを読んでもらえればいまぼくが「優美」という概念を介してダンスの感性論(美学)をどう画策しているかを理解して頂けると思います。

あと、そうだ、ある舞踊学科のある大学の紀要に書かせて貰えることになって、そこでは日本のコンテンポラリーダンスにおける「目の働き」を焦点にした論考を書くつもりです。締め切りが来年一月中旬で、出版(というか配布?)は三月頃だそう。うーん、うれしいことだけれど、書かなきゃいけない原稿がこれでもかとたまっている(締め切りは過ぎていないからたまっているというよりは「待っている」。あと二つは間違いなく年末年始締めきりで「待っている」)。でも、ブログを拝見する限り、宮沢章夫さんほどではないか(ちなみに面識はありません、ほぼ毎日ブログ読んでいますが)。なんか宮沢さんの状況をみていると、洗濯機に入れられたタオルみたいな気持ちなってしまう、ぐるぐるぐる、、、。

『美史研ジャーナル 1』という武蔵野美術大学が出している論集をたまたまいま事務仕事している東大の研究室で眺めていたら、藤枝晃雄さんのエッセイが載っていた。それはバーネット・ニューマンの作品を安易に崇高な絵画として解釈するのはいかがなものか、という問いかけで結論する。つまり、そういった解釈者は、実際の作品を丁寧に見てそういっているのだろうか、と問うているのだ。「当の観者が画面については口を閉ざすのはなぜか」、と。何かここに、モダニズム批評(ぼくは藤枝さんはそうした立場の第一人者の一人と思っている)の真髄があるような気がした。「美術研究の世界は、美術なきそれとしてこのように過ぎ行くのだろうか」との最後の言葉、形式主義とか、純粋主義とか言う以前に、彼らは見ることの価値や意味にしっかり定位している。モダニズム批評というのは、この目の尊重に礎を置くものなのだろう。