goo blog サービス終了のお知らせ 

Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

1/13-14-15

2008年01月15日 | Weblog
1/15
午前中は、前日に原稿を提出した「レビューハウス」からゲラが届き、チェック。ようやく、のんびり出来る、テストとかその点付けとか残っているけれど、ほぼ春休み状態、Inputする時間的余裕が、やっとやって来た。

シアター・テレビジョンのダンス番組を立て続けにチェック。金森穣「no・mad・ic・project 2005」モーリス・ベジャール「ベジャール!」など。ベジャールのは彼を紹介するドキュメンタリー番組なんだけれど、良くできていて、貴重映像も満載。

今日も夕方ジョグに励む。9.5キロを51分で走る。666キロカロリーの消費。ビールが美味くなる、それがとてもいい。

1/14
ちょっとずつ、ちょっとずつ仕事が片づいていき、その分、ちょっとずつ、ちょっとずつ気分が軽くなる。

ジョグに励む。iPodの記録で見ると、2週間以上、ちゃんと走っていなかった。夕方、スティービー・ワンダーのバラード・アルバムを聴きながら、わっせわっせと一人走る。近所は、平坦なまま走れるルートを見つけるのが極めて困難、どうしても、一部坂道を走らざるを得なくなる。そして、どうしてもそこは歩いてしまう。そして、そうなるとどうしても、iPodに残る成績は、よくないところが残ってしまい、平均のポイント(平均速度とか)が悪くなってしまう。といって、坂道のところは、Nike+を一時停止にするっていうのも、どうかと思う。10キロを55分で走る。700キロカロリーの消費。

Chim↑PomのマネージメントをしているFさんからメールと電話が立て続けに来た。「レビューハウス」原稿のチェックを依頼していたのだった。Fさんによれば、先週末開催されていた、ART@AGNESで、Chim↑Pomは、こっくりさんを6人でやって、こっくりさんにうんこを描いてもらったそのドローイングを福袋として出店していたのだという。ほ、欲しかった。つーか、そのアイディアって、ぼくの原稿の見事な裏付けになるものじゃないですか。霊媒をアートに用いたひとたちと言えば、あのひとたちがいますが、ぼく、そのひとたちとChim↑Pomとの連続性を、今回恐る恐る書いてみたんですよねー。

1/13
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の最終回、捩子ぴじんさんと手塚夏子さんをプレゼンターに迎え、今日も充実した会となった。どんな話題になってもブレない手塚のトークは、在野の哲学者という閾に達していると感じた。これはいつか彼女の本を作らなきゃだ(ぼくが非力ならどなたかの力で!)。捩子さんの話しもとてもクリアだった。すぐれたダンサー、振付家は、明晰に喋る。これ、ぼくが今回知った格言。帰りは、大橋さんやダンサーズの皆さん、スタッフの方と「牛角」で打ち上げ。

「ダンスクリティーク」へのお誘い

2008年01月12日 | Weblog
明日、1/13に大橋可也&ダンサーズによる企画「ダンス蛇の穴」でぼくが司会を依頼された「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の最終回があります。今回のプレゼンターは、手塚夏子さんと捩子ぴじんさんです。五回に分けてダンサー・振付家から自らの作品の方法論を聞き、そして皆でその可能性などについて批評し合ったきたこの会も、明日で最後です。これまで四回が終わり、ふり返ってみると、いろいろと貴重な意見が飛び交う、良い時間だったと思っております(司会の至らぬところは、多々ありましたが、、、)。場所は、森下スタジオ、時間は6時半からです(チケットは当日券のみ1000円です)。お時間のある方は、どうぞ気軽にお越し下さい!

1/12
久しぶりに泳ぐ。
帰るとマドンナの写真集『SEX』(古本、CDなし)が届いている。

Improvisationに関する映像を調べていたら、パクストンやフォルティなどジャドソン派の重要人物の映像がYou Tubeにアップされていた。
Steve Paxton: Material For The Spine
Steve Paxton
Simone Forti
こんなものもあった。
Paradise Now: The Living Theatre

1/11
服を買いに行くと股下とか測られて、しょげる。自分が「標準以下」であることを思い知らされる(背丈とか、足の大きさとか)。

どうにか『レビュー・ハウス』に寄稿するChim↑Pom原稿が完成した(ほっ!)。年末年始に依頼されたアンケートをどんどん返信する。

1/10
この日は、シアター・テレビジョンで録画した番組をDVD-Rに焼く方法がようやく分かった日。「吾妻橋ダンスクロッシングThe Very Best Of AZUMABASHI」などを見る。

『マドンナ madonna: the ultimate collection』(DVD)を見る。二枚組で、一枚は80年代、もう一枚は1993-1999年のマドンナのPVが見られる。80年代の映像は、ともかく感動的だ。同時代の美術作家・シンディ・シャーマンのこととか、あるいはマドンナに影響をもろに受けていた当時の日本のアイドル(松田聖子など)、歌手(渡辺美里、レベッカのNokkoなど)のこととか思い返す(いま起きているさまざまな事象の原型がここにあるのだなー)。二枚目の方は、クラブ・ミュージックの傾向が強まり、やや模索している感じが伝わってきて、それもまた面白い。当時、90年代、マドンナのことほとんど無視していた。あらためて見直し、いろいろと考える。ダンス・ミュージックを作り続けてきたミュージシャンだということを確認。それが最近では「ディスコ」だったり、というわけで。

1/9
専修大学講義最終日。昨年のぼくのゼミをとってくれた学生がこの講義でも来ていて、毎週、黒板を消してくれていた。講義の後にちょっとだけおしゃべりして元気をもらってた。ささやかな出会いだったけど、最後の日はちょっと寂しい。

1/7

2008年01月08日 | Weblog
1/7
多摩美講義(最終)は、手塚夏子さんを迎えて、彼女の身体へのアプローチの変遷を話してもらい、ささやかながらワークショップもしてもらう。

その後、上智大で現代美学研究会。

1/6

2008年01月07日 | Weblog
1/6
ようやく、声が出るようになる。

新人シリーズ6を見る。
米倉和恵「TEAR 子宮のラビリンス」
心の中にある絵を舞台化したいという欲求は、相当程度のダンサーが共有している願望のようだ、けれど、相当のセンスがない限り、まず成功しない。それは、何かの動作を何かとして見せることをスムースに観客に行わせる力量がまず基本としてあるかどうかに掛かっており、でも、それは全然「基本」であって、そこからどれだけことを転がし、際だったイメージを展開などし、観客をどこか彼方へと連れて行ってしまえるか、そのあたりが勝負のしどころになる。そのレヴェルにについてどうだったかなんてことが見る者の話題になるように作らないと、ちょっとひとに見せるもの、つまり作品などと言えるものにはならない。羽毛が舞う、床に散らばる。それが、とても汚く見えた。つまり、見せたいイメージをつきに阻害するだろうものでありながら、安易に、不必要なところで、それが床に散らばったままになっていた。どうしてそれでいいと思うのだろう。自分の心の中のイメージに、観念に酔いすぎなのだ。その分、本当はそちらが主であるはずの現実の舞台がおろそかになっている。

斎藤麻里子「パラダイス」
黒沢美香&ダンサーズに参加しているダンサーらしく、舞台はきわめてストイックでデリケートに構成された。音響なし、照明もまったく変化なく、明るくフラットなまま(本当に、これで何の問題もないのだ、ダンスの公演は。しばしば問題を引き起こすのは。むしろそうじゃない場合なのだ)。ギョロッとした目とか、おかっぱの髪型とか、顔に興味を湧かずにはいられないルックス、そのことを本人がちゃんと自覚していて、顔の角度を小さく変えるだけとか、ぎょっとする表情で静止とかを繰り出す、うまいなと思う。ハエよけの傘をさかさにしてそこに折り鶴を沢山乗せている。それをこぼし、あらためて、拾っていく。間、リズムが絶妙。身体にスリルを湛える力量は、黒沢系と呼びたくなるほど、黒沢的であり、充実している。もっと見たいと思わせると同時に、斎藤らしさというものが一体、どういうものとしてせり上がってくるのか、今後の活躍にとても期待したくなる。

磯島未来「Matilda」
磯島も黒沢美香の薫陶を受けているダンサー。PINKという女の子三人組のグループも組んでいる。最近、Chim↑Pomとか小指値とか、集団で活動をしている、あるいは集団であるからこそ個性が発揮できていると思える若い作家たちに、自分の興味が高まっていると感じているのだけれど、PINKは、そうした興味をダンスの分野で感じさせる人たち。若いひとにとっては自意識とどう戦うかという問題が余りに大きいので、一人での活動だと、どうしてもそこに突き当たり、前進できなくなりがちで、しかし、集団になることで、その悶絶から自由になるということがあるのではないか、なんて思ったりする。
つまり、何が言いたいのかって言うと、磯島はソロよりもPINKの方がいい、で、今回もやっぱりそうかなと思ってしまった、ということ。振り付けの基本はふたつ、旋回と落下。磯島は、繰り返し舞台の外周を走ってめぐってみたり、回ることに集中する。そして、椅子に乗り、かなり危険な状態で、膝ごと落下したりする。「葛藤」とか「模索」とか、そんな言葉が浮かぶ、それが若さを表現していると言えばそうだし、若い磯島ならではの舞台になってはいるのだけれど、それは一方で「若い」ということに無反省な感じ、にも見えてしまう。ひとに自分を見せる、ということは、例えば、何か巨大な「真実」を隠しもって「嘘」を飄々とつく、そのくらいの「駆け引き」がないと成立しないようにぼくは思っている。そうした、見る者を引き込む仕掛けを用意することが大事なのではないか。

1/4-5

2008年01月06日 | Weblog
1/5
午後、西荻窪にて、新年会。いまだ風邪直らず、声出ず。

die pratze新人シリーズ6を見る。
ユマニネマyeux manie-ne (ma)「endleofan minutes over aphorism」(これまでグループ名を間違えて記載してました、すいません)
ヴォキャブラリーは既存のダンスを踏襲していて新味はない。ジャズとかストリートとか。ただし、そこで展開される事柄が何かこれまでのダンスの分野にはあまり見かけないようなものに映る。悲しいような、救いのない、いたたまれないような気持ち。マインドとしてのゴスというか。そう思ってくると、出てくる振りのありふれた感じが、ダメと言うよりもライトノベル的、あるいはキャラや表現スタイルに個性をあまり感じない類のマンガ的とでも言うような、既成的なものの執拗な反復をしているものと似ているものに思えてくる。その点で、ある種のリアリティを体現している気がした。何がしたいのかは明確ではない、けど、何か興味深いものを今後作るような予感を感じる。

川上暁子「苛性ソーダ」
暗い舞台が次第に明るくなり、静止状態から次第に激しくなっていく。よくある感じの進行。

坂本典弘「spot」
神村恵カンパニーで「ビーム」に出ていた坂本。音響は、一定の間隔で切り替わる。テンポのいい音楽と、お喋りのテープが2つと、キースジャレットのジャズ・ピアノ(あとでも言うようにジャレットだけ他の倍の時間)。それに応じて、ダンスの印象が変わったりもするが、基本的にやっているのは、終始、ごくミニマルでシンプルな動作。運動の流れ、瞬間に出てくるポーズにセンスを感じる(見ることを誘発される魅力的な奇矯さがそこに含まれている)。ただ、「はずす」という仕方が「自分の隠れ蓑を用意する」なんて状態へとやや安易にスライドしている気がして、結果、「照れ」というか「自分問題」に過剰に意識的になっているように感じ、気になる(「照れ」「恥ずかしさ」はすぐれたダンスの必要条件ではあると思う、のだけれど)。とくに、一定の長さで、音響が変化してきたのに、最後のジャレットだけ執拗に長く、そしてその分、ピアノのデリケートな旋律に呼応するように、「変にナルシスティックな没入が起きてます」的な見せ方が高まる。そうした演出があって、さらにそれをやっぱり「はずす」ように、手が鼻へと向かいそして鼻を吊る、と、突然脇から女の人が出てきて、坂本の頬をひっぱたく。すかさず反撃に出た坂本は、女の子の胸にぴとっと手をやり、暗転、終幕。その、終わりの仕方の、「なんちゃって」と手前に作ったテンションをあっさりひっくり返すなんてところが、坂本の鋭さを物語る部分であると同時に現時点での限界を示しているようにも思ってしまった。次回作が見たい。


帰宅後、NHKトップランナーに出演する康本雅子を見る。

1/4
風邪直らず。

1/1-2-3

2008年01月04日 | Weblog
1/3
後楽園ホールに「マッスルハウス5」を見に行く。

1/2
五反田団、ハイバイなどによる新年工場見学会08を見に行く。
ザ★天井「珍徳丸」作・演出 岩井秀人
ザ・ノーバディーズ(演奏)
劇団黒田童子「思いやりをすて、母を出よ」作・演出 前田司郎

1/1
名実ともに寝正月。風邪で熱が出る。

2008

2008年01月03日 | Weblog
大晦日から今日まで風邪をひいてしまい、コンタック(風邪薬)で朦朧としていました/いますが、この本に励まされながら生きていました。年始にこのような本に出会えて、本当に幸福だ。鈴木雅雄というシュルレアリスム研究者のこの本は、ぼくにとって、シュルレアリスム研究の書であるのみならず、他者(公演という名の、あるいはその他のあらゆる)とどう関わるかへ向けた批評論であり、優れたゆえに「愚か」さを隠すことのない恋愛論であって、不意に拾った下記の引用文をもってぼくの新年の挨拶とさせていただきます(お会いしたことのない「あなた」である鈴木雅雄様、どうか「私」の愚行をおゆるし下さい)。


「シュルレアリスムとは真実と現実との齟齬としての痙攣を指し示すことだと----シュルレアリスムにはそうした側面があるというのではなく、端的にそれこそがシュルレアリスムなのだと----結論することは可能だろうか」(298)

「シュルレアリストたちにとって夢を語ることは、いわば現在のなかで「私」と夢との還元できない距離を提示する実践であると思える。」(299)

「なぜかはわからないがそうでなくてはならない具体的な細部」(302)

「私はあなたの聞いた声を聞くことはできない。しかしそれにもかかわらず、私はあなたがその声を聞いたと思わずにはいられない。私はあなたの語った言葉とあなたとのあいだにいかなる結び付きも見出すことができないが、まさにそのゆえに、私はそこにあなたの痙攣があると思ってしまう。そしてそう思ってしまうことこそが、私の痙攣なのである」(313)

「語る対象に対し、自分をメタ・レベルに置こうとする意図ほどシュルレアリスムに無縁のものはない。だがまた対象と同化し、ついにその秘密を分有したという特権者の自尊心も、そこでは決定的に排除されていた」(321)

「シュルレアリストたちは痙攣者へと盲目的に接近し、共有しえない真実のありかであるはずの彼/彼女の身振りをただ反復することで、彼/彼女とはまったく異なった何かを生み出そうとする。「まず、愛すること」とは、直観による伝達の神秘化ではなく、結果を予期しない狂おしい反復への誘いなのである」(321)

「解釈投与が症状を解消できないとすれば、とりあえず症状のまわりに任意の言葉を巻きつけていくよりほかない。そうした言葉、解釈ならざる解釈は、真実と現実との距離を決して埋められないのであり、したがってそれは「解釈」としては常に挫折すべく運命づけられているのだが、しかしその失敗だけが新たな真実である出来事を生み出す条件となることができる。だからおそらくこう結論できるだろう。もし出来事を呼び出す方法がありうるとすれば、それはただ「私の真実」について、誰かと何かを語ることなのである」(328)

「私の言葉と私の真実との不一致を利用して、無時間的な時間----作品の時間----のなかで書き手と読み手がその「私」を重ね合わせようとする契約関係こそが、近代的な意味での「文学」であるとするなら、どこまでも作品の時間を拒絶し、文学になりえない私の真実をはさんで他者と向かい合おうとすること、まさに文学の不可能性であるこの関係を隠蔽すまいとする契約関係こそが、シュルレアリスムの複数性である」(330)

「いうことの不可能性を共有するのではなく、私とあなたとははじめから向かい合っており、その関係の非対称性によって働きかけ合うことができる。顔を失う必要も供犠を介する必要もなしに、さらには一旦意識を失って恍惚のなかに投げ出される必要すらなしに、真実と現実との齟齬という形で、私とあなたとは痙攣を受け渡しあうことができる」(331)

「精神分析は、それが不可能であることによってこそ美しい。そうでなければ私たちは再び、あなたの真実はどこから、なぜやって来たのかという問いを立ててしまうことになる。私とあなたとは、共有しえない真実を前にして、その共有不可能性によって否定的な共同体を作ってはならないが、終わりなき分析----なぜを問い続けること----に陥ってしまえば結局あの距離の体験は解消されてしまう。共有できない真実をいかに機能させることができるかという問いを問い続けることでだけ、私はあなたとともにあることができるのだ。」(332-333)

「シュルレアリスムが私たちに教えているのはだから、ある単純な事実、なぜという問いにからめ取られてしまったとき、私たちはそれを解決することができず、ただ忘れることができるのみであり、そしてそれを忘れるために私たちが手にしている唯一の方法は、愛することだという事実なのである」(333)

「シュルレアリストたちには、何か決定的な愚かさの印象がつきまとっている。作品などどうでもいい、私は愛さなくてはならないのだからと、そんなふうにいえてしまうあの性急さは、たしかにさまざまな理論的ディスクールとの対峙を迫られたとき、きわめてもろい。私はだから、その愚かさこそがシュルレアリスムの可能性であることを証明したいと思った」(366)

「意図して愚かであることは不可能だが、誰かとともにあることでそれは可能になる場合があり、またその可能性がゼロでない程度には、私たちはみな愚かなのではなかろうか。自分についてなら確信がある。いえることだけいおう。いずれにしてもエルモアの名前を口にするだけで充分だ」「実に馬鹿げた話だが、私は自分がいつかクラシックやジャズを愛聴する誰かと、(友人になることはあっても)ともにあることはできないという確固たる確信があるし、そうでない世界を想像することはできない。エルモアという名のティッシュペーパーが大量に積まれているのを見ると、私は今でもいくらかたじろぐ。」(366-367)

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』より(著者による傍点は割愛させて頂いた)

大晦日

2007年12月31日 | Weblog
12/30
『火宅か修羅か』を見るのは、2度目だったと思うが、やはりとても良い作品だった。温泉旅館にて、二組の団体客が待合室の2つのスペースを共有している。一組は、母親が15年程前に交通事故で亡くなった三姉妹の居る家族、父は再婚相手を娘たちに紹介する。もう一組は、13年前に高校時代に友人を海で亡くしたボート部の同窓会、かつての恋人と事故で生き残ってしまった友人もいる。火宅(仏語。煩悩(ぼんのう)や苦しみに満ちたこの世を、火炎に包まれた家にたとえた語。法華経の譬喩品(ひゆぼん)に説く。現世。娑婆(しゃば)『大辞泉』)か、修羅(醜い争いや果てしのない闘い、また激しい感情のあらわれなどのたとえ『大辞泉』)か、というタイトルの言葉の強さとは異なり、舞台は日常的なテンションで進む。ただ、そうであるからこそ、恐ろしいくらいの、個人の心の中に潜む嵐のような葛藤を目には見えぬまま、想像可能にする。「心の中」が不可視のまま、舞台に立ち上がる、それにに驚く。ただし、その希有な、火宅か修羅かを秘めた「心」の出現が起こるのは、日常的な対話の社交性を一歩踏み出してしまってはじめて可能なのである。青年団の戯曲は、決してその意味で単なる自然主義(リアリズム)ではない。むしろ今回思ったのは、青年団の中にある演劇性である。二組のそれぞれの人物の葛藤が吹き出すのは「余計なひとこと」があってこそ。隣の会話を聞いてしまう。聞いてしまった心の動揺を隠すことが出来ず「お友達が亡くなったんですか」などと踏み出した発言を家族の組の一人が漏らしてしまう、例えば。そんなことは、日常ではまず起こらない。でも、そうすることで、二組を分かつ薄い膜をちょっと揺らし時に突き破ることで、内面の出来事が召喚される。他にも、見てみないフリとか、逆にちょっと他人の振る舞いを意識するとか、ささいだけれど「ことさら」な身振りが、青年団の芝居を自然主義ではない、演劇的なものにする。そこをずっと面白く見ていた。

『バレエ・リュス』は、ニジンスキーなどを輩出したディアギレフ時代の話ではなく、むしろ彼が逝去してから、1929年以降の展開をフォローした、ドキュメンタリーだった。一旦解散したロシアの前衛的バレエ団は、31年、ド・バジル大佐とルネ・ブリュムによってバレエ・リュス・デ・モンテカルロという名で再建される。この新しいバレエ団が内部分裂を起こし、またアメリカへと亡命し、戦後に生き延びつつも、62年に空中分解してゆくまでが、当時のバレエ・ダンサーたちを中心に語られていく。振り付け師や興行主は次々変わる。だが、バレエ・ダンサーは変わらない。ダンサーがいなきゃ舞台は成立しないのだから。ダンサーたちの語りは、翻弄された彼らこそがバレエ・リュス(デ・モンテカルロ)そのものだったことを告げていた。80才を超えてなお、メンバーたちの身体には、「バレエ・リュス」的なメソッドがちゃんと内在していたりする。貴重映像満載(できれば、細切れにせず、もっとじっくりと見られるものにして欲しかった)で見応えありでした。

雑記

2007年12月30日 | Weblog
12/30
これからアゴラ劇場で、青年団「火宅か修羅か」、その後、「バレエ・リュス 踊る歓び、生きる歓び」を見る予定。これで、今年の観劇、見納め。

12/29
ちょっと休みたいモードが高まり、忘年会のお誘いに行かず(八王子の学生くん、ごめん!)、ジョギングとプール。

鈴木雅雄『シュルレアリスム、あるいは痙攣する複数性』(平凡社)が届く。
ぼくは鈴木さんのファンだ。もうシンプルにそう断言したいのだ。この本、ひらくと最初にこんな一文を読むことになる。

「文学などどうでもよいと断言できる誰かのために、この書物は書かれた」

鈴木さんは、動詞を受動態にすることが多い。受動態「られた、された」などは、主体を曖昧にする代わりに目的語が主語になって、ものの存在感を際だたせる。しかし、そうであってまた鈴木さんの文章は、いつもキレのいいハンドルさばきで爆走する。

「テクストはそこで、作品の匿名性にゆだねられてはならず、書く「私」、受け取る「あなた」を巻き込んで機能しなくてはならない。そしてシュルレアリストたちが常に複数であろうとしてのは、書き手からテクストへ、テクストから読み手へという健全で白々しい回路が乱調をきたす空間を作り出すことで、テクストがその外部と取り結ぶ特異な関係を誘発するためだったのではないかという予感が、私たちの出発点である」

など、と続く。「私たち」とは、ぼくも含んでのドライヴのこと?と喜びつつ、さらにこう進んでいく。

「作品と私的エクリチュールとの中間のどこか、そのあやうい場所でだけ、「私」と「あなた」はともにあることができる」

激しいエンジンの爆音を聴くのように、そんな言葉を読んで、さらに読み進める。

12/28
佐々木さん、大谷さんと『ベクトルズ』忘年会。雨の降る中、夜中になってぞくぞくとテープ起こしなどお手伝い下さった方たちがいらしてくださる。来年の計画も幾つか話題に。大谷さん、やろうね、それほんとに。

12/27
神村恵さんが、この前の蛇の穴、ダンスクリティーク企画で、話してくださったことが、ずっと気になっていた。つまり、いまの作風に至る手前の段階で、彼女は自分が思い描く理想のイメージと現実の自分が出来ることのギャップに悩んでいたというのだった。彼女が当日配ったレジュメには、こうある。

ダンサーとしての課題=イメージが身体を置いて先走ってしまう。2つが結びついていない。

・できることを確実にやる稽古
 イメージを追うより、実際にできている動きや身体を把握すること、実感すること

「自分が思い描く理想のイメージ」が具体的にどんなものであったのかは、聞かなかった。聞くべきだと思ったけれど、なんとなくぼくなりに「こういうものかな」と想像をしてしまったので、あえて聞かなかった。彼女は幼少の頃からバレエを習っていたのだという。すると、そのイメージはバレエ的な何かを指すのではないか。妖精のような、軽やかで、柔軟な運動のイメージ。バレエをならうひとはきっと全員憧れる(憧れる以外の選択肢は用意されていないのだろうし)。けれど、誰もがそれを自らのものに出来るとは限らない。そこには、厳しいハードルがある。テクニックとか努力でカヴァーできない部分がある。もし、世の中にバレエしかダンスは存在せず、バレエ的な運動にしか人間が魅了されないのだすれば、その時点で、神村さんは、ダンサーにはなれない、ということになってしまうのかもしれない。

けれども、そんなことはないのだ。神村さんは、まず自分が出来ることを明確にしていこうとした。そして、いま自分が生きている時空を「確認」することに重点を置いた。そこから、観客や自分自身の予期を裏切る手だてを見出していく。そうして、新しい、「神村恵」というダンサーからはじまるダンスが生まれようとしている。また、そこにあるのは、「理想のイメージ」に対する到達度でよい/わるいを判断するのとは異なる(多くのダンス公演の鑑賞は、そうした「到達度」を見るものになりがちだ。だから、しばしば観客はダンサーの父的なポジションから「よかった/わるかった」などと思いがちあるいは発言しがちになる。本当であれば、そんな傍観者の立場に観客を置かずに、自分たちと緊張感ある関係へと観客を誘い込むべき、と思うのだけれど)、舞台と鑑賞者の間をスリリングに揺さぶる観賞体験である。

「理想のイメージ」の体現者になれた者は、幸いだ。それはそれで、そのイメージを最大限、クレイジーなくらいにドライヴさせて欲しい(バレエにはバレエの、恐ろしいほどの誘惑性と陶酔性があるのだから)。けれども、すべてのダンサーが、その幸福を享受する必要はかならずしもないんじゃないか。つまり、神村さんのように自分の身の丈から出発してもいいはずだ。ただ、それは自己愛、自己信頼を出発点にすることとは違う。それは、自己満足に終わるか、そのひとを愛好する親族の、あるいはファンの集いのようなものを生むばかりだろう(それでも、自己満足がそうした広がりへと発展出来るなら、それはそれでアリなのかも知れないけど)。

神村さんはいわばトラウマ的(と言ったら言い過ぎかも知れないけれど)な経験から逃げず、そこにきちんと向き合うことで「次」を、次の進むべき道を見出そうとしている。それは「傷」があれば良い作品が生まれるなんて単純なことではない。ただ、傷つかないと(自分のしていることをクールに見定める経験がないと)得られないものはあるな、と思わずにはいられないのだった。この傷は、自分を相対化し、そればかりか理想的なイメージをも相対化するようひとに促すだろう。

Luxurious Religious Cooooool Dance!

2007年12月26日 | Weblog
ゴージャスで極楽浄土のよう、けど超クールなやつ、デタラメにラインナップ。はりきって、どーーぞーーっ!

久住小春「恋☆カナ」

キュート「都会っ子純情」

「都会っ子純情」Remixed

Gurdjieff Dance

モーニング娘。「Love Machine」

Madonna "Vogue"

Madonna "Material Girl"

Madonna "Hung Up"

Madonna "Hung Up"

Micheal Jachson "Billy Jean"

James Brown "Night Train Dance"

小島よしお「Funny Guy Dancing」

M.I.A. "Bird Flu"

Crazy Indian Music Video

Indian Songs

モーニング娘。「恋のダンスサイト」

Para Para Tanzanleitung

parapara dance for Japan teen girl

安室奈美恵「girl talk」

Perfume「ポリリズム」

らき☆すたOP

年末

2007年12月25日 | Weblog
12/24-25
葉山→箱根
車中で、NHKFMをつけるとクリスマスソング特集。ゴジラとモスラがうたうクリスクス・ソングに爆笑。「ジングルベル、ジングルベル、クリスーマスー」を「ジングルベル、ジングルベル、プレゼーントー」と替え歌してる。子供って現金だなー。仮面ライダーがうたう「ライダー・クリスマス」なんて、マイナーコードのクリスマス・ソング。1952年の美空ひばり「ひとりぼっちのクリスマス」もしっとりと、戦後の傷を癒す、なんて歌声で良かった。

12/23
『Harajuku Performance+』(@ラフォーレミュージアム原宿)を見る。

その後、
ダンス蛇の穴、関係者全員参加!ダンスクリティークの第4回を行う。プレゼンターは神村恵さんと山田歩くん。決してキャパ的に「にぎやか」とは言い難いけれど、この会、静かに確実に熱が高まってきた気がする。誠実に、緊張気味に、ときに笑いを交わし合いつつ、言葉を探るときが積み重なっていく、三時間。

12/22

2007年12月23日 | Weblog
「関係者全員参加!ダンスクリティーク」の第3回、大橋可也さんの回。多摩美で彼といろいろとイベントしたときよりも、率直な発言が多く「大橋可也」という存在を立体的に知ることが出来た。なるほど!と思うことも多く、ぼくが大橋作品に感じていたある特異性に関しても、明瞭になった。(いずれ少し、まとめてみたいと思う)

12/23に、今日にひき続いて第4回があります。プレゼンターは神村恵さん、山田歩さんです。昼に「HPP」をみて、夜は森下。忙しーですが、これが終わると冬休み(10月からここまで長かった~)。


12/22

2007年12月22日 | Weblog
「ダンスの輪郭を求め紡がれる言葉」というタイトルで、artscapeに、ダンスに関連する本の紹介記事を書きました。

12/22と23には「関係者全員参加!ダンスクリティーク」があります。今日(12/22)は、大橋可也さん、明日(12/23)は神村恵さんと山田歩さんがプレゼンターです。

大駱駝艦『カミノコクウ』(@世田谷パブリックシアター)

2007年12月22日 | Weblog
12/20
国士舘大学の講義、最終。
荷物を自宅に置き、あらためて出かける。三軒茶屋へ。大駱駝艦。パンフレットにはこうある。

「あの日
ビッグバン以来
距離を食らい続け
距離を排泄し続けた
我々
遂にこの星から
遁走するに至った
そのモノガタリを
見届けて
聞き届けていただきたい…」(麿赤兒)

先週見た『カミノベンキ』の冒頭が、火打ち石を叩いて真っ暗闇に火花を光らせる場面だったように、先史というか古代というか「はじまり」にまつわるシーンがこの作品にも散見される。性交を連想させるシーンも、そうした「はじまり」を想起させる。ものがうまれる。その際の男/女の接触が描かれる。舞台美術や音響が徹底したあるトーンを、宇宙的で太古的なニュアンスを敷き詰める。ダンサーたちの動きは極めてシンプル。また、コンポジションがとりわけ重視される。そうであるが故に、「動」よりも「静」がきわだって、リズムとか間とかの生まれる余地がない。ダンサーは、あらかじめ描かれたイメージをただただ舞台上に具現するためのパーツとなる。『カミノベンキ』よりも一層静謐な舞台。正直、前の列の客のほとんどがコクンコクンやっていた。ある種の活人画というか、ほとんど展開や変化がない。無意味を徹底させる狙い?とさえ考えてみたくなる程に。ダンスを見る快楽は、最小限に切りつめられている。壺中天の方がその点でずっと魅力的だぞ、と思ってしまう。だから、その切りつめは若い壺中天メンバーに対する麿の父性的(去勢強要的)振る舞いににさえ見える。それと引き替えに彼らは何を見せよう(得よう)としたのだろう。身体が一枚の絵の内に吸収されていくこと、その暴力を甘んじて受け入れること、薄さに耐えること、、、最後の場面は、『カミノベンキ』も『カミノコクウ』も、中央に巨大なテーブル=小さな舞台が登場し、そこでスカートをめくる麿と3人の一角獣たちがくんずほぐれつする。そこで『カミノベンキ』では、周囲をその他のメンバー全員が囲み、椅子に座って各自オモチャをいじったり、携帯で舞台の四人を撮影したりする。『カミノコクウ』では、全員で白いカップを手に何か飲んでいる。非日常の舞台空間にぽつんと置かれたこの日常的身体は、ちょっと面白かった。携帯をしている女のダンサーは、足を組み腕を組み、まるで電車でよく見るOLのようだった。そのダンサーの素の体がそこにあった(気がした)。白塗りなのに。日常を営むの女の人と白塗りのダンサーはギャップが埋まらぬままそこにひとつの体の内にある。その違和感から解釈可能な様々なことがらが、舞踏の今後そのものなんだろう。