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Blog: Sato Site on the Web Side

「幻滅のたびに甦る期待はすべて、未来論の一章を示唆する。」(Novalis)

ペドロ・コスタ『血』

2008年08月06日 | Weblog
8/5
ペドロ・コスタ『血』(恥ずかしながら彼の作品は今回初めて見ています)は、彼の処女作故にということがあるのか、なんとなく「映画好きの映画」という感じが濃くて、なんとなく??と思いながら見てしまった。あまり映画を見ないぼくでも「なんとなくムルナウに似ているな」とか「最近見たコクトーのこと思い出させる」とか、そういう場面が散見するのだった。とくに、気になったのは、画面の中心に重要な対象を置こうとすることで、その執拗さは、例えば、「女が走ってきてフレームの中央あたりにくると立ち止まり振り向く」なんていうシーンに顕著で、その定石へのこだわりが何を意味しているのか分からず、分からないので「趣味的」(映画好きの映画)に見えてしまった。けれども、DVDの付録映像でのある批評家のコメントを聴いていると、かなり自覚的に反省的にそうした手法に対してアプローチしているのだと言うことが分かり、その視点から頭の中で整理し直したりした。すると、ショットとショットのつながらなさ、とくに登場人物たちの感情の読み取れなさは、感情の揺れ動き(人間とはそういうものだ的な)を示そうとしたと言うよりは、極めて映画的な試み(映画とはどういうものなのか的な試み)であることが分かってきた。ショットとショットの繋がりは、考えてみればどうであってもいいはず、少なくとも、物語に奉仕する必要は必ずしもないはず。そうした当然あるはずの映画の余地に揺さぶりをかけている作家ということがよく分かった。けれども、ぼくとしては、その批評家が指し示す「シャーマニズム」的な作風と言うところに興味がわいた。見ていながら、スゴイ奇妙なシーンとかを発見していたからだ。見上げるショットでお父さんが立っていて、その後ろのソファに男の子が寝そべっているのだけれど、椅子の格子越しにあらわれたりところどころ消えたりしてしまう彼の顔は、なんだか「心霊映像」みたいだったのだ。映画(写真)はすべからく心霊写真なのではないか、という仮説で、今後夏休みの映画鑑賞を進めようと思う。そう、その点でも、この映画とコクトーの『恐るべき子供たち』の類似性をその批評家(名前失念、すいません)がしゃべっていたのは、面白くそしてたまたまこんな短いタイミングでこの二本を見た偶然は、ちょっとすごくて何だか背筋をひやっとさせた。


(5)メルヴィル「恐るべき子どもたち」(1950)

2008年07月25日 | Weblog
7/25
同性愛的な傾向と姉との間の緊密な関係。閉じること。ひらくと途端に破綻がはじまる。「行く」という言葉が印象的。夢想的な世界へと「行く」。何故子供の時には、あれだけで日曜の午後を生きることが出来たのだろうか。いや、芸術に求めていることはほとんどこの「行く」ことなのではないか、などと。

(4)宮崎駿「崖の上のポニョ」(府中)

2008年07月25日 | Weblog
7/23
リアリズムを追求していた「もののけ姫」あたりのとはずいぶんと大きく異なった、マテリアルな感触(クレパスな筆致のテイストとか)とアニメーション的なダイナミズム(海のうねりのへんてこなヴォリューム)とが、まずともかくも驚き感動させられたのだった。ファンタジーは暴走をひらくものであって、それが例えば異常な心理であってもなんらかの通俗的に流布している神話を再生するといった類の装置であるひつようなどはまったくないのだ、という表現の「原点」とでもいう他ないことがらをストレートに示してくれる。要は、この映画はクレイジーな暴走そのもの、そしてそれをみんなで見るというとてもなんというか健全な時間が夏休みの子どもたちばっかりの映画館に流れているのだった。最大の暴走は、恋の瞬間を描くということ。この映画をみた子どもたちは、ロストジェネレーションの女の子たちがみんな自分をナウシカだと錯覚したように、自分をそうすけかポニョと錯覚し「恋」をすることへのファンタジーを抱き続けるだろう。イケてるかどうか(神話に乗っかれているかどうか)を云々する類の恋ではなく、他人に触れてそれに巻き込まれてどうにもしようがなくなってしまうというブルトン的な恋を、狂気の愛を抱き続けることだろう(そうかあの大嵐のうねる波は、ひとを巻き込んでいく恋のうねりか)。魚が人間になるということは、これはポニョという存在から人間をもう一度やり直していくことなのか?そうすけがポニョにいろいろと教えるその身振りからは、人類をこの聡明な男の子のような存在からやり直したいという宮崎の思いを受け取った。「ポニョ」と命名するのもそうすけだし。ポニョが自分の魚としての名前を拒んで自分はポニョなんだと宣言するところも、そういう創世記的なことを感じさせた。

(3)コクトー『オルフェ』(1949)

2008年07月21日 | Weblog
7/21
コクトー『オルフェ』(1949)
亡き妻を、彼女を「見ない」という条件によって取り戻すが「見ない」ことが出来ずに失うという竪琴奏者であるオルフェウスをめぐる古代ギリシア神話を元に作られた作品。昨日の『美女と野獣』についても書いたように、コクトーは「見ること」の作家である。それについては、谷川渥(『鏡と皮膚』)や宮川淳(『鏡・空間・イマージュ』)などがすでに解明した歴史がある。死の世界は鏡を入り口に現実の世界と繋がっている。この鏡にまつわる様々な映像的な仕掛けがこの作品を見る楽しさになっている。ぼくは、仕掛けのなかでも「逆回し」が気になった。死神が何か現実の世界でまた死の世界で魔法をもちいるとき、その働きはしばしばフィルムの逆回しによって映像化されている。とても素朴な技法だな、とはじめは思っていたが、次第に何か本質的な問いが開けてくる「入り口」のような気がしてきた。妻を救出しに鏡を通り抜けるとき、主人公の詩人(ジャン・マレー)は、手袋を嵌める。この嵌める場面が「逆回し」で映像化されている。つまり、手袋を脱いでゆく手が撮影され、それが映画内で逆に回されるので、手袋を嵌めている場面に見えるのである。しかし、まず不思議なのは、ただ嵌めるだけなのだからとりたてて「逆回し」にする必要はない気がする。それにもかかわらず、この技法をあえて採ったのはなぜか。うまく言えないのだけれど、すでに終わっている時点から始まりへと遡る、その時間的逆転を体験させようとした、それが理由なのではないか。死から生へ、終結から発端へ。そして、それは映画というジャンルがもっている「終結してしまった(撮影され終わってしまった、過去になってしまった)出来事を再生する」というフォーマットを自覚させるような、そんな手法であるような気にもさせられた。そう、そうなのだ、どうしようもなく芸術というものは自らの術を媒介にして自らの語りたいことを語るほかないのであり、死と生の境界を説く映画は映画というものの死と生を語ることによってしか(例えば「逆回し」という手法を顕在化させることによってしか)、それを説くことが出来ないのである。さらにいえば、美学的に見ることを解明する際に、『オルフェ』はまず何よりもそれが上記したような映画というフォーマットの問題に自覚的に取り組んでいくことは、無視出来ないと思うし、それが加味されたときどんな美学がたちあらわれるのかと(なんだかとても漠然としているけれども)考えてしまう。
あとは備忘録的に。美女とは何?見ないことを許さない存在/若い詩人が書いたという「ヌーディスト」という詩集は白紙の冊子/『美女と野獣』にも出て来たタイムワープの道具としての手袋とは?→手袋=リバース/若者映画

(2)ジャン・コクトー『美女と野獣』(1946)

2008年07月20日 | Weblog
7/20
夏休みの映画第2弾。あまりに、野獣=キモメン、美女が恋する男=DQNの図式がうまく当てはまり、最後までそのラインで読み切れてしまうので、面白いんだか困るんだか(本田透はこれ見ているんだろうか)。コクトーは、「見る」ことをめぐる作家といえるのだろう、現れる/隠れるの場である扉を含め、目や見ることに関わるシーンによって映画が進んでいく。間と言うよりも醜い男(醜い男は人間にあらずということなのか?)というキャラの野獣が、美女のことを見たいのに、見ると美女に見られることになるので、目を伏せ「見るな!」と叫ぶシーンは、その点で最も印象的。野獣の館にあるシャンデリアは人間の手が握り、内装の彫刻は時々目を開けてみせる。映像の美しさは耽美的とも言えるが、なにやらそうしたギャグ的な要素がつねにある。なんだか、そういうぼやぼやしたところがあるかと思うと、不意にとてつもなく美しいシーンが出て来たりする。最後の、イケメンに成り変わった野獣が美女と空を飛んでいく、摩訶不思議なラストには、『恐怖奇形人間』のラストに通じるところあり、と思う。ああ、なんという適当な感想文なのだろう。

朝六時、高幡不動

2008年07月18日 | Weblog
7/18
朝六時、高幡不動尊の前。結構来られるものなのだな。ここまでスタートしてから30分かかった。コンビニにスクーターを置いて、北野街道をてくてくと走るんだか歩くんだか、適当なスピードで、少しずつ体が眠りから覚めるのを待って。帰り道、中学の時、陸上部で仲間だった1人を思い出していた。ヒジの辺りがこわばって曲げられない病気の彼が涙を流しながら、腕を不器用に動かしながら、ほとんど根性で走っていた時のことを思い出していた。自分は何でこんなに根性なしなのだろう、なんてぜーぜーいって途中から歩いて、なんてときに思い出した。彼のことを思い出すと、いつも切ない苦しい気持ちになる。がんばろうと思う。きっととてもやさしいいい男になって、慕われて生きているのだろうなあなどと予想する。戦争体験のようなものはないけれども、ぼくの世代だって、悲しい経験や苦しい記憶がある。それが共同体の記憶として統合される類のものでないとしてもそれでいいじゃないかと思ったりする。各人が大事にしている記憶を大事にすることで、日々生きている。各人のスピードで。犬と散歩に出るひとを、コンビニでポカリ飲みながら眺めていると、通勤に向かう歩くテンポがすごくマイペースな女の人が視界に被ってくる。今日は1時間弱。ジョン・川平(J-WAVE)と一緒に走った。


無題

2008年07月17日 | Weblog
7/17
昨日の晩は、寺山修司『田園に死す』を半分見た。夏休み中に、一日一本映画を見ようかと一応思っていて、最初の一本目まあなんでもいいや、じゃあ、ホイ!(DVDをデッキのプレートに載せる)と見始めたが、どうにものれない。なんだこの白塗りの学生服は、なんだ「犬神サーカス団」って、八千草薫はとびきりかわいいなあ、恐山で踊りまくる半裸の女のダンスはなんだかひどいなあ。土方巽のフェイクのフェイクくらいに思われる……などと、十年くらい前ならば、まだなんらかしらのひっかかりを持ちながら見ることが出来ていたはずなのに、いまのぼくの目にはとても不十分な作品としか見えてこない(でも、後半もちゃんと見よう)。

今朝もジョグ。今日は、南平→高幡不動手前くらいまで、往復50分くらい。南平の辺りで、Tシャツ+半ズボンの集団に遭遇。近くに代ゼミの寮があると聞いていたがその学生たち?六時半に、でも、こんなにうろうろしているものなのだろうか?朝帰りな大学生と、仕事に向かうおじさんたちにすれ違いながら走る。暑い。湿度にまかれる。その分、帰りのスクーターが気持ちいい。

無題

2008年07月16日 | Weblog
朝、久しぶりにジョグをする。川沿いまでスクーターで行って(何分建物が丘の上に立っているために、行きはまだよいが帰りは「しごき」と呼びたくなる級のハードトレーニングになってしまうので)浅川の土手を走る。七時くらいだけれど、ぼくよりも十歳くらい年上のおじさんたちが結構走っている。川沿いには工場がいくつもある。市場もある。必然、ブルーカラーのひとたちが多い。コンビニの脇を通るとき、綺麗なシルバーカラーのモンキーを止めて牛乳を飲んでいる腹の出た30才くらいの男のひとを見かけた。Tシャツが着古したものだった。仕事の前ののんきな時間をきっと毎日ここで過ごしているんだろうなあなどと、妄想してしまった。八王子の「フリータイム」といったところか。そう、思い出しながら走っていた。ファミレスでちょっといらいらしながら自分のささやかな自由の時を大事にしようとする岡田君の戯曲、あれはファミレスとかがメインの街がもつ独自の病を一種のエネルギーにして、生まれたものだろう、などと。そして、そうしたある特定の場に限定することで、そこへと閉じることで、ある病はその気密性によって圧力を増し、ある独特の力を獲得するのだと思う。岡田君の素晴らしいところは、そうした力をきちんと気密性のある空間を設定することで生み出している、そこにあると思う。そして、ぼくが思うのは(ここもジョグ中の出来事)、とはいえ気密性のある空間の外に出さえすれば、その病の大半は解消してしまうのではないか、ということだったりする。ファミレスの憩いと苛々感は、そこから抜け出せない焦燥感が増幅したもので、そこから抜け出せないことで戯曲はある効果を獲得するわけなのだけれど、けれども、ぼくたちは、こうも言うことが出来るのではないか、と思ってしまうのだ。「そこから出て、八王子のコンビニで牛乳飲む人生だってあるんじゃん」と。

芸術とは、効果の技を(作り手は)披露しまた(観客は)愛でるものである。内容そのものというよりも、その効果、あるいは効果ある内容(設定)がどうして出来たか、を楽しむものではないか。「効果」とは、ここまでのまとめで言うならば、気密性を高めたある空間を設定して、そこに起こる圧力をコントロールすること、そこにあるものである。だとすると芸術(家)のすることとは、ある空間を絶対のものとして(とりあえず。それが生みだす効果のために)設定すること、である。芸術の怖いのは、その設定が効果のためであるにもかかわらず、しばしば設定が抜け出せない本質として語られてしまいがちなところだ。

ちょっと脇道に逸れるけれど、昨今の「非モテ」論壇(?)は、そうした間違いをおかした(勘違いを誘発した)のかも知れない。「非モテ」という設定をすることで何が見えてくるのかということを語るための場であったはずなのに(おそらく)、自分を「非モテ」と思いこんで疑わないひとを生み出してしまう(それが「秋葉原での連続殺傷事件」を生んだというのは、過剰な読み込みだとは思うけれど)。そもそもゲームであるはずのことを閉塞した事実であると思いこませるところが、芸術にありまた批評にもあるのかもしれない。それは怖い。

八王子のコンビニ脇で朝の時間を過ごすことが、仕事先の手前の(確かそうでしたよね)ファミレスでコーヒーを飲むことに較べて、よいかわるいは分からない。優劣の話ではない。どこかある場に閉じたときに、芸術は始まるのかも知れないけれど、人生は、必ずしもそうして閉じる必要はないのかも知れない(ぼくもたまたまだったけれど、新しいマンションがどんどん建ってゆく川崎の街から、やや取り残され感のある八王子の山に移って、移ることが出来るのかと知った気がしたのだった)などと、思って走ってくたくたになってスクーターを止めた空き地に戻って、八時、工事のお兄さんたちが集まっているところでエンジンをかけて、今日のジョグが終わった。

「ろくよん」「しぶろく」を生きる時代

2008年07月13日 | Weblog
7/12
Chim↑Pom→ヤナイハラミクニプロジェクトとはしごをした帰り、井の頭線に乗る。なんてことないいつもの土曜の夜。込んでいた。立っていると、前の女の子に足を踏まれた。ほんの些細な接触。「踏んづけられた」ほどではない。けれども、「触れた」程度ではすまない痛み。いや、これは物理的痛みと言うよりも精神的な類。で、彼女はどうするのかと思って、こちらとしては、振り向き掛けた相手を無視するのもあれだと思いつつ、なんとなく「目は遭わせぬがそちらの方に向く」くらいで応答、していたつもりだが、彼女ははっきりとした何か言葉を発することなく、ほぼ「無視」といった振る舞いへと自分を決め込み、友達と「こんでていやだネー」的な会話へと潜り込んでいった。

なーんてこと、よくあると思うのですが(説明分かりにくいですかね?)、こんなときにある演劇、こんなときにある社交、こんなときにある関係にこそ、興味があったりする。芸術表現なんかよりもこうしたときのひとの振る舞いの方がよっぽどリアルじゃんと思ったりする。当たり前か、リアル(現実)そのものなのだから。じゃあ、もうぼくはこういう現実の演劇だけを楽しんでいよっかな、なんてことも思う。あるいはこういう日常の演劇と舞台上の演劇との間にある違いって何だろとか思ったりする。

そう、ぼくはこの女の子の「無視」は、演劇だと思うんですよね。

「誰かの足、踏んだ!」→「あ、向こうも踏まれたと思っている」→「ちょっと見てみよ」→「やっぱなんか相手の男、意識してるぞ、、、」→「「無視」することにします」→「友達と喋っちゃお」

というプロセスの中にある心理劇。これをしばらく解釈していたんですけど、彼女は二重に気を遣ったのでは、と考えました。ひとつは、

(1)踏んだ、悪いコトした!

というポイントで。もうひとつは、

(2)踏んであやまんなきゃいけないかもしれないけど、ここ(電車の中)で「すいません」と声をあげるのはKYだぞ!「すいません」なんてあやまったら「あやまる/あやまられる演劇」をしなきゃいけないから、自分もめんどいけどこの男にも面倒を掛ける

というポイントで。
まあ、興味のあるのは、もちろん(2)のあり方なんですけど、あの女子大学生らしき女性はあやまる作法を知らない訳ではないと思うんですよ。なぜかというと、ぼくがいま勤めている女子大学では、何か相手に気を遣わせたり自分に非のあるときはまあたいていの学生は謝ります、謝れます。いまの若い者は、あやまることを知らない!なんて話ではなく、謝ることは知っているはず、でも謝らないことがある。つまり、電車の中で正しいのは、足を踏んだら謝ることではなく、足を踏んだらあやまんなきゃならないけれど、あやまると電車でのくうきが読めない身振りになっちゃうので謝らないことなのではないかと思うんです。何かが正しいか否かを決めるポイントは、道徳的な規範ではなく場の空気にある。道徳的な自分を脇に置いてまで、貫かねばならない正しさが、「くうきを読む」ことの内にある。

それに対する僕の返答は、

「なんかめんどくせー」

です。はっきりいって。謝ればいいじゃんと思います。そういうおおらかさがない世界ってキツイよなと思う。地方にいけばそんなことは無くなっていって、気軽に声かけ合ったりするのだと思うのだけれど。

でも、そんな話を明大前の広島風お好み焼き屋でしたら、Aは、別の解釈を提出してくれたのでした。

つまり、彼女曰く、その子が謝らなかった理由として、もうひとつあり得るのは、自分が足を踏んでしまったのは、自分が悪いんじゃなくて、自分の足の辺りまで足を伸ばしていた相手の男の方が悪いと思っているという可能性だと。んーなるほど。踏んだけど踏むようなことしたお前が悪い!というわけです。確かに、込んだ電車の中で、踏む足が悪いか踏まれる足が悪いかは、きわめて微妙。もうほとんど「6:4(ろくよん)」あるいは「4:6(しぶろく)」です。「ろくよん」で相手が悪いなら謝る必要はない。「よんろく」で自分の非が大きければ謝ってもいいけど、、、。

なるほどなー。この「ろくよん」と「しぶろく」への感性がいまの世の中なのではないか!なんて思ってしまいます。どっちが悪いなんて永遠に分からない、完全に正しいことも完全に間違っていることも世の中にほとんどない。「大きな物語」の失墜とは、正しさの失墜だろう。だとすれば、どっちもどっち、という感覚のなかでぼくたちは生きている。「ごぶごぶ」でもないと思うんですよね。そういうダブルバインドよりも、勝ち負け的なマインドが支配的なわけで。「ろくよん」か「しぶろく」かは、解釈次第ってところがあり、まさにそうした解釈に委ねられてしまう今、というのが「諸現実の時代」というものの証左ではないだろうか。

nhhmbase(@O-Nest)

2008年06月22日 | Weblog
6/22
久しぶりにジョグ。浅川の土手をてくてくと。帰りは昨日買ったスクーターで坂を上る。

6/21
引っ越しをした先は、トトロの森のような森を背後にしていて、その斜面にそって階段状になっている建物にいると、鳥の声がかまびすしく、虫たちの侵入もにぎやかで、窓の外から見える木の葉の揺れているのとか、ともかく自然が主役で人間はその脇で暮らさせてもらっているなんて感じで、その主客の転倒がさしあたりとても気持ちいいのだけれど、そんな暮らしがぼくの耳になんらかの作用をしたのか、久しぶりにライヴで聴いたnhhmbaseの音色は、なんだか、ひとつひとつ粒だっててそれぞれが自己主張していて、さながら近景遠景から聞こえてくる鳥たちや虫たちの声(サウンド・スケープ)のようで、にぎやかなのにクリア、クリアなノイズってところが、これまで以上に印象に残った。独特の建築。スケルトンで作った戦闘機のプラモデルみたいな。攻撃的なのに、澄んでいる。凶暴なのに、繊細。今回目立ったのは、観客にごくごく普通の格好をした女の子が多いことで、彼女たちは、しずかに腕を組んで聴いたり、頭を軽く揺するくらいで、例えば、ブルーハーツのカヴァーを演奏している時(エゴ・ラッピンのヴォーカリストがゲストで演奏)でも、そんな風情で変わらずじっと聴いている。リスナー傾向の強い観客が増えた。ということが、「波紋クロス」というアルバムのクオリティの高さを物語っているようでもあり、今日的なパンク(エモコア?)の聴取というものが、そういうリスニング化の傾向をもっているということでもあるのだろう、と思えて興味深かった。

その他、にせんねんもんだい、ooIooが出演した。

自分に送信する

2008年06月18日 | Weblog
ある雑誌に打診して途中までオッケーが出て、結局没になってしまった原稿がありまして、出来の悪い息子かもしれないけれど、かわいいガキなので、ここで日の目を見せてあげようかと思い、アップします。ぼくとしては、この原稿のポイントが今回の秋葉原の連続殺傷事件の容疑者が行っていた3000回にも及ぶ、ほぼ自分しか読まないブログへの投稿という出来事と重なるように思えて仕方なく、その意味もあって、「たんに没」にしたくない文章なのですが。携帯という極めてパーソナルあるいはプライヴェートな側面と広く他人に開かれたパブリックないし演劇的な舞台空間に似た側面とがくっついたメディアが、わずかな救いをひとに与えているようにも思え、それが最後の救いなのかよと絶望的な気持ちになる。クレバの「あかさたなはまやらわをん」の歌詞にある「再現出来なくなるぬくもり」は、ベタだけど携帯の時代にひとがその便利さと快楽とを引き替えにして捨ててしまった(携帯では十分には再現出来ない)何か、だろう。

KREVA「あかさたなはまやらわをん」
KREVA「アグレッシ部」


自分に送信するメッセージ(の輪廻から抜け出るために)
KREVA『クレバのベスト盤』

 「クレバ面白いよね」って話はちょっと前からぼくの周囲の共通了解で、そこでは、明らかに「なんだそれ?」っていう言葉選びのセンスが失笑+称賛の対象になっていた。
 後日あらためて『クレバのベスト盤』をTSUTAYAで借りジョグ中に聴いてみた。「今日は俺が俺の味方/広い世界 ただ一人になろうが/オレは決めた/そうだアグレッシブ」(「アグレッシ部」←誤植ではない)。ジョグのストイシズムと合わさって、妙にフィットする自己肯定性。ラップ=エゴって等式はありふれているけど、ここまであからさまなのは珍しい?自己肯定というより、ただもう自分しか話し相手がいない、自分しか肯定してくれない、けどそれでいいそれでも幸福という、そうとう切なくギリギリな気分が「応援ソング」と化す。いまの青春のキツさを証している気がする。
 「言うことはもうない何も/もうというよりももともとないのかも」(「スタート」)。そもそもからっぽで、けれどもいま自分がこうして生きていることを確認したくて、とはいえ誰にも頼れず、だから「他の誰でもない オレがキーマン/背中押す手求める前に/オレがオレの悪いとこ直すぜ」(「アグレッシ部」)と言う。言う他ない。そうした自己言及性(自家中毒性)がタイトルやジャケや、いたるところに暗示されている。
 今年の3月、土浦で8人を殺傷した金川真大容疑者は逃走中「オレは神だ」とメッセージした、自分のもう一台の携帯に向けて。この絶対的孤独に失笑しても、他人事とはとうてい思えない。「あきらめる事もできたあの日/正気 狂気 境目辿り」(「ひとりじゃないのよ」)。そう、だからひとの「ぬくもり」(「あかさたなはまやらわおん」)が欲しい。けど、自家中毒から抜け出て他人と気持ちを合わせるのは至難の業。で、あ、だからそうか、あのダサめな言葉遣いって、失笑させ安心させて他人と繋がるKREVA流のテクなのかもしれない。

波紋クロス

2008年05月19日 | Weblog
5/19
國學院での講義。6回目、ロマンティックバレエをめぐって、クライストの優美論と「ラ・シルフィード」と「ジゼル」を中心に。講義後、熱心な学生と教員室で会話。帰宅後、ティップネスに。解約願いがてら。「なんか、こちらにいたらないことでもありましたか?」などと聞かれる。どうも、丁寧な対応=客と会話するという方向で会社が教育をしているんだろうな、などとイメージしつつ解約届けを書いていると「りっぱなお名前ですネ!いやあ、私じゃ気後れしちゃうなー」などと得難き持ち上げかたをされ、「はい、気に入っております!名前負けせねよう生きていきたいと思っております。あ、まだ、さとっておりません」と真顔で答えた。夕食前に、和光大学の図書館へ。湿度の高い空気もこの気温ならば、気持ちいい。


夕食後、7/2発売予定のnhhmbaseの新譜「波紋クロス」をいち早く聴かせてもらう。


スススススス、スバラシー!!!!!!

近況

2008年05月19日 | Weblog
5/14
快快「ジンジャーに乗って」のゲネプロを学生と共に観覧。

5/16
再度、快快「ジンジャーに乗って」を見に王子へ。帰りに広島風お好み焼きの店に行くが、蕎麦入りじゃないものを頼んでしまい(「蕎麦入り」と書いてあるものを頼まなきゃならなかった、言わなくても入っているものとばかり、、、)、なんだか寂しいお好み焼きが登場。焼きそばを追加。

5/17
コンドルズ「大いなる幻影」(@彩の国さいたま芸術劇場)見る。結構前からチケットをとってしまっていたので、同じ時間にやっていた、O-Nestのnhhmbase自主企画見逃す。残念。

5/18
朝、コンドルズのことを原稿に書く。wonderlandに掲載してもらう予定。
昼間、引っ越し業者のひとに来てもらう。ねぎる。
夕方、中野にて、大橋可也さんとルノアールで会合。「ジャドソン・ダンス・シアター」研究ノートをめぐってブログのためにおしゃべり。最近の大橋さんは、率直に話をしてくれる。「~問題」という言い方が大橋さんのなかで流行っていて、沢山の「~問題」を上げてもらった。ブログ掲載は後日(まだ神村さんの第2弾がアップされていないので、そちらが先になります)。その後、タコシェで会田誠関係の書籍とDVDを購入。あそこにいると、黙っていたらいくらでもお金を使ってしまいそうだ。もう個人的妄想では予約済みの札をつけているものが幾つもある。夜、新宿で誕生会。

町田

2008年04月29日 | Weblog
「COOKIE SCENE」(May 2008 Vol. 60)の「Next Generation '08」より、そこで取り上げられたグループをライナップしてみた。あまりこの分野(ロック?)、最近聞かないので。Operator Pleaseのデブちゃんボーカリストのマッスルな肉体が完全肯定されている感じは面白い。

MGMT "Time To Pretend"
Operator Please "Leave It Alone"
Jamie Lidell "Little Bit of Feel Good"
The Last Shadow Puppets "The Age of the Understatement"
NEON NEON "I Lust U "
Cajun Dance Party "Amylase"
Born Ruffians "Hummingbird"
The Teenagers "Homecoming"
Foals "Balloons"

けど個人的には、Gang Gang Danceが好きだな、外国ものあげるなら(並べるような次元のものじゃないか?!)。4月の来日は、突然キャンセルされてとても残念だった。
ところで、nhhmbaseもd.v.dも(この2人を横並びにするのもあれですが、去年の秋に「ベクトルズ」や「Review House」で書いた二組)ちょっとまた面白そうな感じになってきてますね!d.v.dは西日本ツアーを5月にするようで(行きたいー)、nhhmbaseは、O-nestで自主企画のライヴが。