さっぽろ物理塾です

ここは私の五感と第六勘の場所です。
過去現在未来の時空を行き来するでしょう。
希望を込めての日記・エッセイです。

さっぽろ物理塾 円山に登りました

2013-09-24 10:08:09 | 日記・エッセイ・コラム

9月22日(日)、今日は円山に登ってみようと決心しました。
数日前から漠然と円山を思い出していたのです。

で、朝、妻に昼食をとってから円山に1人で登ってみる、と宣告しました。

午後1時に家を出ました。バス・地下鉄で円山公園に着き、円山公園内の
杉林を横切って、登山口に着きました。
地蔵八八か所巡りの道を登りました。途中、太い桂やせんの木が多いな
と眺めながら、麓からの運動会の行事らしい賑やかな声を聞きながら大地
の起伏に浸って登りました。

初めてこの山を登ったのは、22歳のころです。
大道り西21丁目に「住友円山寮」に住んでいました。
時折、仲間たちと円山公園の広場に来て、ソフトボールをしたものです。
あれから半世紀を過ぎました。そんなことを思い出しながら、歩きました。
下りてくる人と挨拶を交わして、元気になって、登りました。
頂上近くで少し下りになります。ここまで登ってきたのに、と少しばかりもった
いない気持ちになります。気持ちを込めて登りました。
エゾリスやたぶんウグイスやおまけにカラスもそばを横切ります。
頂上に着きました。20年ぶりです。
ああ、ここに来れた、と思いました。

すがすがしく、晴れた札幌が広がっています。
遠くの山並みが見えるのです。
しばし岩に腰かけて、これまでのことを思い出していました。
無心にボートしている私を感じます。
南に、藻岩山が見えます。来年はあそこに登ろう、と思いました。

名残惜しかったのですが、やおら腰をあげて同じ道をおりました。
面白いもので、下りには思うことが異なります。
木々も見え方が鮮明になります。
老大木としばし語り合う心地で対面しました。円山に来るたびの期待です。

意外と早くに登山口に戻りました。万歩計では約9千歩。
正味の歩く時間は登山に45分、下山には35分でした。

私は、まだ大丈夫です。
ずいぶん前から、登山では膝のうらの筋が痛むので、特に下山には強く痛
むので、もうだめかと諦めていましたが。
近いうちに、また円山に登りたくなりました。鍛えがいがありそうです。
再び藻岩山や手稲山に登ることが希望です。

最近「宇宙になぜ我々が存在するのか」(村山斉)を読みました。
いまは「超弦理論入門」(大栗博司)を読んでいます。面白いのです。


宮崎駿 風たちぬ   

2013-09-03 10:30:23 | 日記・エッセイ・コラム

「風たちぬ」を見ました。
私の普段はさわがれている文芸などのものごとに距離を置く癖があります。

今回は宮崎駿作品が好きで、見ました。

宮崎駿の心情と想いを感じました。
時代背景を強く感じました。
時代の先ゆく人のグレードを感じました。
時代の各階層の表情を感じました。
男たちの歩き方は、アニメ枚数が少ないのかと思いましたが、
あえて、男のぎこちなさを表現したものでしょう。
女性のたち振る舞いの繊細は さすがと感じ入りました。
絵に 得も言われぬ曲線のアニメ画、油彩画、日本画それに細密画も感じました。
直線が暖かくも強さもあって良いのです。
主人公たち、群衆、建物、室内、庭、風景・遠景が微妙に描き分けてあるのです。
これぞ、宮崎駿アニメの真骨頂を感じ入りました。
群衆の表現に細部にも一生懸命の顔を感じました。
列車など乗り物の1人を表現するのに虚無の顔を感じました。
戦争にまい進する中でのドイツ・イタリア・日本のあらがう静と動を見ました。
時代範囲でのエントロピー発散を感じました。
次郎と次郎の夢のなかのイタリア人飛行家に、
今の時代に「夢見る人」の心情を感じました。
次郎に「路傍の人」の次郎を思い出しました。

タバコのシーンが多いのは、当時のこと分かる気がします。しかし、
宮崎駿達の切ない(もしかして本気?)抵抗を感じました。
感性は強いのだ。理性は少しかな。
文明のエネルギー保存則は論外かな、と感じました。

家に戻って、当時としては高かった計算尺を久方ぶりに取り出しました。
掛け算も割り算も2乗も3乗も√ も立方根も3桁まで出来ます。
しばし、思いに浸りました。
心のリセットをしました。


さっぽろ物理塾 電気って?光って?

2013-09-01 14:53:15 | 日記・エッセイ・コラム

中学生・高校生のとき、物理は好きだった。
以来、これまで物理に関してずいぶん経験した。

だが、いまだに分からないことがある。

光って、いつからかあって、あれこれ作用を及ぼして消える。
で、消えてエネルギーになるという。
作用を及ぼしている、そのときはどうなりつつあるのだろう。
エネルギーになるということは、対象が励起されることだろう。
光が作用を及ぼして対象を励起する瞬間に、何が起こっているのだろう。
光は波と粒子の両方の性質があることは、私も実験してその証拠を
確かめたことがある。そのときに、そう思ったものだ。
光が出るっていうときも、だ。なぜ光でなければならないのか。
光が出る過程は、どうなっているのだろう。なにが起こっているのだろう。

電子もだ。電子の電荷とは、いったい何だろう。なぜ電荷というものが
あるのか。実に不思議だ。+電荷であれ-電荷であれどういうことなのだろう。

こう思って、今でも物理の知りたいことが続く。
最新の素粒子論ではどうなっているかと、あれこれかじっているが、
いまだに納得していない。
分かっていることは、勉強するほどその先があることに気がつく。

もっとも、分かってしまえば面白くないかも知れない。
でも、知りたい。知って納得したいものだ。

ホームページであれこれ調べるが、EMAN物理も見るが、無い。