私は、岩、滝、大樹を見ると、見とれる癖があります。言葉での表現でも意を尽くせない感覚になります。畏敬の気持ち、崇める気持ちになります。時には、対面して座り込むこともあります。心で対話している気持ちになります。
若いころは岬の突端から見る大海に恐れの気持ちにすらなりました。中学生時代、左右が海面に見える時化のとき、叔父が操舵する木造舟で留萌港から礼受浜に引き返すことがありました。怖くなかったのですが。
これまで、北海道のほとんどの山、湖沼、川、海が好きで見て回りました。修学旅行引率で本州各地を、ブラジル・ハワイ・カナダ・イタリア旅行で大地や森林を見ました。春には屋久島にも行ってきました。
屋久島の木々を見て気がつきました。今、これらの大樹を見ているが、北海道にも中学校通学のときまでこんな大樹を見ていたが、こぶこぶで先がいびつな大樹を見ている。大昔の人は、30mも50mもある数多くある大樹を見ていたのではないか。
本州の大樹は、奈良時代から、多くは大きな寺院や大仏建立に使われた。屋久島の大樹も秀吉の命から切り出されたという。北海道の大樹は明治維新後から開拓に使われた。
大昔の人が敬い崇め、畏敬の念、恐れを抱いた自然のありようと、今、広く見渡せる自然とはかなり異なっっているのでしょう。それでも、私は切られないで残った大樹に崇め、畏敬の念、恐れを感じます。
人は、自然に対して保守の心と実用の技術の調和と葛藤があって文化となり、歴史が続いてきたと言えるのではないでしょうか。
ここに、人の信仰心の必然性を感じます。信仰心の強弱はあったことでしょう。宗教として、成立する素質を感じます。
私はずいぶん前から、信仰心は一人の心のありようと考えています。宗教は、信仰心を組織したシステムであると考えています。
私は、宗教心はどうも弱いです。しかし、敬い、畏敬の感情は強いのかなと思えます。
人は、敬い、畏敬の念、恐れの感性を持っていると思っています。これは「情」と言うことかなと思っています。
「物事」をたどると、どうしてかな、どうするといいかな、あ・そうか、こうしたらどうかな、こうしてみようなどなど・・これが物理心と言えます。
中学校の理科の教科書や高校の理科・物理の教科書は、教えるにしても、教えてもらうにしても、最も勉強するにふさわしいテキストです。趣味にしても、必要性があるにしても、面白そうだ、面白くなりたいの気持ちから始めましょう。
HP さっぽろ物理塾 http://www4.ocn.ne.jp/~b-juku もどうぞ