さっぽろ物理塾です

ここは私の五感と第六勘の場所です。
過去現在未来の時空を行き来するでしょう。
希望を込めての日記・エッセイです。

ああこの花だ

2013-03-24 09:50:17 | 日記・エッセイ・コラム

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先日、札幌市北区にある百合が原公園に、椿展を見に行きました。
何気なく視線を落とすと、この花がありました。

「ああ、この花だ」と、いまこの花を見ている、と思いました。
私には、どうも忘れやすい名前の花です。

20代はじめの頃、悶々としている、短くない時期がありました。
「私は今、ここで何をしているのか」
「どうしてこうなのだ」
「なぜ、集中できないのだ」
「本当は、何をしていたいのだ」などなど

ある日、夢を見ました。
札幌の中心街の人々で混雑している道りの端に立っていて、
私は、この花を見ている夢でした。
何とさわやかで、美しい。スーとするほど美しい。

ほうとして目をあげると、
向こうの端で、こちらを見ている亡き母がいました。
はっとして、もっと良く見ようとしました。

もういませんでした。

これまで、6年生のときに亡くなった母の夢は
いくら見たいと思っても
めったに見ること出来ないのです。

何十年経っても、この夢は脳裏から離れません。
この花を探す私がいます。

今回、この花にであいました。
やはりとても美しいのです。

心のリセットをした思いです。


さっぽろ物理塾 幸せと思える人

2013-03-11 15:05:37 | 日記・エッセイ・コラム

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百合が原公園に行ってきました。
毎年、この頃は椿展を楽しみにしています。

幸福を感じます。時々ですが、一瞬ですが幸せを感じるときがあります。
どうも、幸せ感は短い時間がよろしい、とこの頃気がつきました。
あるときある場面で、幸せだなと感じ入ることで、いい気持ちになります。
あるときある場面で、いい気持ちになるから、幸せと思うのかもしれません。
いい気持ち、幸せを感じると、仕事に精が出ます。日々の生活がはつらつになります。

幸福とはそういうことか、と思う私がいます。

私は、十二歳から二十歳まで、何と不運なのだろうと痛切でした。
よき親戚の励ましのまなざしを感じて、おだやかな友人がつき合ってくれて、
そして、私が私になれたのはよき師に出会えたことです。

二十歳になって、「人間疎外」を知りました。
二年かけて人生観が劇的に変わりました。
世界観を持って生きたい気持ちになりました。

現在は、ま、人生よしとしましょう、という心境です。

いま思います。不運・不幸の気持ちは、時系列があるということです。
長い時間、自分は不幸だ不運だと嘆きます。
そういうとき、美しい花を見ても幸せを封印していますね。

幸せを探しに行くことは、意味がありません。
「青い鳥」はそういうことを示していますよね。
自分のそばに、気づかいをしてくれる人がいる。幸せですよね。

意地悪な人はいます。無作法な人もいます。悪人もいます。

人は、多くは親切な心の人です。
気づかいをしてくれる人は,近くにも遠方にも何人もいます。
こういうことが分かったから、今の私がいます。

でも、ここからが大事。
どんな人がいるとしても、群れとしての人々は、物理の世界ですね。

100人、千人、万人、社会、国家の人口になると、個々の人格は見えなくなりますね。
行動は流体力学
性質は物性論
興奮は熱力学

20代の後半になって気がつきました。
いまもそう考えています。
やっぱりか、残念ながらか、両方を合わせ持った心境です。

日々、あれこれしていて、失敗もして、半端もあって、
彼は毎日何かをしているようだが、意味あるのだろうか、と思うでしょう。
ちいさな赤子や子供と似ています。
自分でも、何をやっているのだか、と思っています。

それでも
あることが成就すると、幸せを感じています。
そのうちに、誰かの役に立つであろう、世のためにと思えるのです。