私は、神頼みをしたことがない。
小学校6年生のときに母が病気で亡くなった。
その日まで、毎日、朝に夕に神棚にお参りした。
心で仏様にお参りした
ミシンの引き出しに、真鍮(しんちゅう)の十字架が入っていたので、お参りした。
弟二人と3歳の妹がいた
それなのに、かいなく、母は亡くなった。
父は、どれほど苦労したことだろう。
親戚には、どれほどお世話になったことだろう。
それ以来、お寺に行って手を合わす、神社にお参りして手を合わすことはしてきた。
しかし、願い事をしなくなった。
死ということをずいぶん考えた。
生きているということをずいぶん考えた。
どう考えても、生きているうちは生きている。
いずれ生きとし生けるものは死ぬ、ということに気がついた。
私のからだは分解して、大地に、大気に、いずれは宇宙に返っていく。
私には、それで十分だった。今もだ。
私が物理学を選んだのは、これも動機の一つだった。
私の感覚には、ここまでの矛盾はない。
子供の頃から、座り込んだりたたずんだりすることがしばしばあった。
大きい川、川の淵、崖、滝
海、岬、入江
大樹、古木、森の中、樹海
大きな岩、山、山脈
月、星、天の川
人工物でも、じっと見ていたいものがある。
建築物、神社・仏閣・教会
彫刻、絵画、陶磁器
機関車、飛行機、船、武器も
だからどこに行っても、一人になって、じっとしていたいことがある。
畏敬の気持ち
尊厳の気持ち
尊い気持ち
願い事ではない、願望でもない、希望でもない。
ただひたすら、じっとして見ていたい気持ちになる。
今でもそうだ。
もしかして、これは信仰ということなのかもしれない。
あるいは、思想ということの始まりかもしれない。