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(維新に翻弄された徳川の殿様たち③ 安藤 優一郎)戊辰戦争で帰る場所を失った桑名藩主松平定敬

2018-03-22 | 日本の歴史
2018年3月22日

桑名藩主松平定敬


それでも殿様は箱館まで戦い続けた

第3回は桑名藩主松平定敬を取り上げる。定敬は弘化3年(1846)の生まれで、兄の会津藩主松平容保よりも11才年下である。高須4兄弟でいうと、一番下にあたる。

兄弟が藩主を勤めて政治行動を共にしたことで、「会津・桑名」と括られるのが幕末史の定番の記述だが、桑名藩の歴史は会津藩とかなり違う。会津藩は保科正之が入封して幕府が倒れるまでの200年以上、保科(松平)家が藩主を勤めたが、桑名藩は藩主の入れ替わりが多い藩であった。

伊勢桑名は上方の要衝として、親藩大名や譜代大名が入封するのが通例だった。関ヶ原合戦の論功行賞で徳川四天王の本多忠勝が封じられた。本多家が姫路に転封となると、家康の異父弟である久松(松平)定勝が封じられる。

百年近く松平家が藩主を勤めた後、奥平(松平)家が藩主となる。同家が同じく100年ほど藩主を勤めた後、文政6年(1823)に白河藩主松平定永が移ってきた。そして、明治まで松平家が藩主を勤める。なお、定永の父は寛政改革を主導した老中松平定信である。

桑名藩の所領は11万石だが、越後柏崎に6万石近くの分領があり、陣屋を置いて支配にあたった。後に、定敬は柏崎陣屋を拠点に新政府軍に抵抗することになる。

安政の大獄のさなかの安政6年(1859)、定永の孫にあたる藩主松平定猷が死去する。嫡男の定教は幼少であった。そのため、中継ぎの形で養子を迎える話となり、定敬が養子入りする。定敬は14才になっていた。

高須4兄弟のうち、長兄の徳川慶勝(当時は慶恕)は前年に井伊大老(安政の大獄)により隠居に追い込まれ、次兄の茂徳が尾張藩主となっていた。すぐ上の兄松平容保は会津藩主の座にあり、これで4兄弟がみな藩主の座に就いたことになる。

翌年に勃発した桜田門外の変を境に、幕府の権威は失墜の一途を辿る。そうしたなか、文久2年(1862)閏8月に容保が京都守護職に任命される。定敬が兄と運命を共にする時は刻々と近づいていた。

京都所司代として兄容保を支える

兄の容保が会津藩士1000人を連れて京都に入ったのはその年の暮のこと。京都には守護職とともに治安維持にあたる所司代が置かれていた。時の所司代は長岡藩主牧野忠恭で、その家臣として奔走していたのが河井継之助である。

しかし、長岡藩の所領は7万4000石に過ぎなかった。23万石の会津藩とともに、風雲急を告げる京都で鎮撫の任にあたることは無理があった。そのため、翌3年(1863)6月に牧野忠恭は所司代を辞職し、淀藩主の稲葉正邦が後任に補される。淀藩の所領は15万石であった。

元治元年(1864)4月、幕府は稲葉を老中に抜擢し、江戸へ向かわせる。そして、後任の所司代として白羽の矢が立ったのが定敬だった。ここに、兄弟揃って守護職・所司代として京都鎮撫の任にあたることになる。慶応3年(1867)12月に両職が廃止されるまで、会津・桑名藩が京都で幕府を支える体制は続く。

定敬が桑名藩士を率いて入京した時、京都の情勢は既に緊迫していた。元治元年(1864)6月には会津藩配下の新選組が池田屋事件を起こし、長州藩士を殺傷する。これに激高した長州藩は会津藩主松平容保討伐を掲げ、京都に兵を進めた。

当然、定敬は所司代として兄容保を支える。親藩の会津藩や福井藩、そして外様の薩摩藩とともに御所の警備に付き、長州藩兵を撃退した。7月の禁門(蛤御門)の変の名で知られる戦いである。

その後も、桑名藩は会津藩とともに京都に駐屯する。最後の将軍となる慶喜を奉じ、長州藩そして薩摩藩との対決姿勢を強めていく。

しかし、桑名藩も会津藩と同様の問題を内部に抱えていた。幕府から手当は付いたものの、大勢の藩士とともに京都に駐屯し続けるには到底足りなかったからである。結局は持ち出しを強いられ、財政が火の車となり、そのしわ寄せは藩士に降りかかった。

このまま定敬が所司代の職にとどまっては、藩や藩士が疲弊して滅亡の危機に瀕し、仇敵長州藩との戦いも避けられない。藩内の不満と不安が増幅していくが、定敬はその職にとどまり続ける。兄容保と運命を共にする道を選び、戊辰戦争の渦の中へと飛び込む。だが、桑名藩は別の道を歩むのである。

藩存続のため家老の説得を容れる

慶応4年(1868)1月3日に勃発した鳥羽・伏見の戦いで、会津・桑名藩は京都を目指す徳川方の先鋒を務める形で薩摩・長州藩と激突した。会津藩は伏見で、桑名藩は鳥羽で奮戦したが、徳川方のまとまりの悪さなども相まって、両藩は後退を余儀なくされる。そして朝敵に転落した。

戦況の不利を悟った慶喜は大坂城から海路江戸へと向かうが、その折、容保と定敬に同行を命じる。二人を大坂に残しておくと、自分の代りに祀り上げられ、会津・桑名藩士が抗戦を続ける恐れがあったからだ。

主君が江戸へ向かったことを知った会津藩士はその跡を追うが、桑名藩士の場合は事情が違っていた。もちろん定敬の跡を追った藩士もいたが、藩内では別の動きが起きていた。

会津とは違い、桑名は上方の要衝であり、西日本を制圧しつつあった薩摩・長州藩を主軸とする新政府の軍事的圧力に晒されていた。その上、譜代大名の井伊家をはじめ、上方の諸藩は新政府に次々と帰順し、桑名藩は四面楚歌の状況に置かれつつあった。

定敬が所司代を長く務めることへの不満と不安が藩内には渦巻いていた。それが、ここに至り、一気に噴出する。新政府への帰順、つまり不戦論が藩内で急速に台頭した。しかし、藩内では抗戦論も根強かったため藩内は分裂の危機に陥る。藩主が不在であったことも混乱に拍車を駆けた。

桑名藩の留守を預かっていた家老酒井孫八郎は藩内の分裂と滅亡を避けるため、新政府への帰順で藩論を統一する。藩を守るため、藩主定敬の意志に背く形で新政府に降った。1月28日のことである。以後、桑名藩は新政府側の尾張藩の管理下に入る。

国元を長らく不在とし、さらには養子だったこともあり、定敬が家中を充分に掌握できていなかったことは否めない。兄弟が藩主を務めたことで会津・桑名藩は政治行動を共にしたが、もともとは別の藩である。会津藩に引きずられることへの不満と不安が藩内で渦巻いていたことは否めない。

葵の紋所を持つ同族グループの会社ではあったが、会社が存亡の危機に瀕したのを契機に別々の道を歩んだわけである。

一方、江戸に戻った慶喜は新政府に対して恭順の意思を示すことを決めたため、抗戦の意思を捨てない松平容保・定敬兄弟は帰国を命じられる。容保は会津若松城に帰るが、定敬には帰るべき城がなかった。

止むなく、定敬のもとに駆け付けた藩士たちとともに、分領の越後柏崎陣屋に向かう。しかし、越後でも新政府軍に敗れた定敬は、蝦夷地に渡り箱館で最後の抗戦を試みる。

これでは桑名藩の存続も危ういと事態を憂慮した酒井は、自ら箱館まで赴く。定敬を説得して、新政府に帰順させた。年は明け、明治2年(1869)5月になっていた。

これにより、桑名藩は会津藩のように御家断絶からは免れる。所領は約半減されたものの、桑名藩は存続を許された。

会津藩に比べ、桑名藩の苦難が明治維新史で取り上げられることは少ない。会津藩とは異なり、戦わずして帰順したことが大きい。同じ徳川一門に連なる藩で藩主が兄弟であっても、別々の藩であることが桑名藩をして帰順の道を取らせた格好であった。

桑名藩における家老酒井孫八郎の行動は、会社が存亡の危機に立たされた時、社長の意向よりも会社の存続を優先させるため役員が決起した社内クーデターに似ているのではないか。

(次回は、越前藩主・松平春嶽をお送りします)


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